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「躁鬱大学」坂口恭平

 メンタルの化け物と長い間言われてきた。中学生ならば即自殺してもおかしくないような扱われ方をしても平気な顔をしている、普通の人なら一日で逃げ出すような職場に平然と勤めている、と捉えられていた。私からすれば「何がつらいのか」としか思えないことも、他の人にとっては耐えられないことなのだそうだ。

 そんな私が脳脊髄液減少症という病を経て、退院後の初めての定期健診の時に言われたのが、「再発を恐れすぎて、鬱状態になっているように見えます」という主治医の言葉だった。

 かつての「ダイヤモンド・メンタル」の持ち主も病には勝てず、というか、そもそもこれまでもメンタルは強かったのではなく、ただただ壊れていただけだったのでは、と思うようになった。痛みを感じる感覚が薄れているかほとんどないため、致命傷になるまで傷ついていることにも気付かない。そんな風な。

 というわけで、突然目の前に現れた「鬱」という文字に半信半疑ながら立ち向かうべく、初めて坂口恭平氏の著作を手に取る。「いのちの電話」が繋がらないなら自分で「いのっちの電話」を開設して、人の悩みを聞いてやろうじゃないか、という人だ。Xのタイムラインでよく見かけるので名前だけは知っていた。

 そんなわけで読み通してみると、今の自分が鬱状態であるかは半信半疑であったが、それはともかく、躁鬱気質の人というのはいる。それをどうにかこうにかして変えようとか人に受け入れてもらおうとかではなく……いや、いいか、無理に言葉にすることはない。

 現在私はいろいろ手を出している。一つところに集中して突き進めばいいのかもしれないが、それをすると自分で冷めてしまうところがある。元々「百一理論」という持論がある。何かを創ってもマシなものは十に一つ、人に認められるのは百に一つ、というものだ。一つのものに集中して自分の中で比較対象がなく、何がいいのか悪いのか分からない状態になるより、いくつもの作風を使い分け、これはここでこういう風に受けた、これはこちらでこのように受け取られている、といった複数の評価軸を使い分けている。

 それがベストのやり方かどうかは分からないが、何かを書いていて行き詰ってそこで立ち止まるより、こちらは今気乗りしないからこちらを進めよう、というやり方ができる。実はこういった姿勢も、この「躁鬱大学」を読んで以来、気楽にできるようになったことでもある。

 私には現在小学六年生の娘がいる。彼我のルックスの違いが気になるお年頃であり、年齢の割に大きく育った身体を持て余しているように見える。トレードマークだった繋がった眉毛の間も、自分で剃り落してしまった。そんな彼女に悩みを相談されたら答えたいと思っていることがある。

「坂口恭平っていう、人の悩み相談を受ける電話を十年受け続けた人が書いていたんだけど、一日十人くらいの相談を受け続けて分かったのは『人は、人からどう見られているかだけを悩んでいる』っていうことだって」
 自分が他人からどう見られているか。その悩みから解放されたら、気分はずっと楽になる。父は前からあまり気にしていなかったけど、その人の本を読んでからいっそうそうなった。

 そんな言葉をかける機会を待っている。
 まだそのような悩みはそれほど抱えてなさそうな、一年生の下の子は学校から帰ってくるなり「公園行ってくる!」と駆け出そうとする。仲良くなった異性のクラスメイトと楽しく遊んでいる。そこにはまだ悩みも、躁も鬱も入り込んではいないように見える。私は頭痛と耳鳴りがずっとマシになる公園の中で一時、全てを忘れる。忘れてはいけないことも忘れてしまう。念のため紹介状をもらった心療内科には、まだ行けないでいる。


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