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日野啓三「夢の島」(再読本)

通常の読書とは別に、並行して昔読んだ本を少しずつ読み直している。
「夢の島」は三回目くらい。

日野啓三(1929~2002)は文芸評論家として出発し、サイゴン特派員の経験を経てルポタージュ作家、やがて活躍の舞台を小説に移す。
「夢の島」は芸術選奨文部大臣受賞作。その他
「あの夕陽」芥川賞
「抱擁」泉鏡花文学賞
「砂丘が動くように」で谷崎潤一郎賞
「断崖の年」伊藤整文学賞
「台風の眼」で野間文芸賞
「光」読売文学賞

などなど。
一番好きなのは短編「天窓のあるガレージ」。フィル・コリンズ「In the air tonigh」が流れる中、紡がれていく断章。
亡くなって19年。そういえば、日野啓三を読み始めたきっかけは、訃報に接してだった。

「夢の島」の主人公は都会で暮らすサラリーマンだが、時折都会の風景と、戦後の焼け跡の風景を重ねた幻視を見るようになる。妻を亡くして空虚感に襲われてもいる。
バイクを暴走させるミステリアスな女性と出会ったところで、主人公の歯車は狂い始める。


 本当に燃えたのだ、と昭三は思った。戦争が終わる直前の春のいまごろ、隅田川の河口地帯から品川、大森にかけて連夜の大空襲が続いた。そのときもしこの場所に立っていたら、西の方だけでなく北の方も南の方も、ほとんどぐるりが連夜火の海だったはずだ。炎は水際まで迫って夜空をこがし海面を照らしただろう。その当時のこのあたりから眺めた記憶がないだけに、昭三の想像の中で、窓という窓から炎を吹き出すのは世界貿易センタービルであり、焼け落ちるのは東京タワーであり、炎に照らし出されて激しい熱気に歪んで見えるのは数え切れない新しい高層ビルだった。火は彼を取り巻いて燃える。背後の豊洲埠頭に並ぶガスタンク群も真赤に染って、次々と炎を吹き上げる……。


 作中に、東京晴海見本市センターで開かれているコミック・マーケットの会場に迷い込んでしまう場面がある。実際に、風邪を引いて参加出来なくなった息子さんの代理で同人誌を届けに行った体験が元になっているらしい。
 小説が書かれたのは1985年4~5月。コミック・マーケットの年譜を調べてみると、1983~1984年に開かれた第24~27回のどれかに該当するようだ。著者の長男日野鋭之介氏は後にプロモデラー、原型師となっている。


 こんな催しがあったとは知らなかったので、私は本当に驚いたが、その会場での少年少女たちの平然たる非現実的な雰囲気、現実と幻想の境界などもともと存在しないような態度と行動の中で、私はそれまでの自分の気おくれがすっと弾けるのを感じた。現実の広大な埋立地帯の重心が薄れて、私の幻想として浮遊し始めるような感覚を覚えたのである。
 この催しを使わせてもらおうと思った。これをそのままに描けば、ひとりでに現実から離陸できる、と。
著者から読者へ『夢の島へ』より


 このようにして書かれた物語は現実から浮遊、離陸、乖離し、幻想のようでありながら現実にある風景に迷い込んでいく。大まかなストーリーは覚えていたが、主人公の最期の迎え方がおぼろげな記憶と違っていた。
 記憶違いではなく、読んでいるうちに文字列が変容して、以前読んだ終盤とは変わったものになっていたかもしれない。

 昔読んだ本を少しずつ読み直す。
 棚の上に置いた菓子を少しずつ食べていくような感覚。決して腐らず、食べるたびに味も変わっていく。決して不味くはならない。





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