【短編小説】ユキオンナ

 どれくらい時間が過ぎたのかも分からない。風の音が耳をつんざき、荒れ狂う雪のせいで数メートル先の景色すら見えない。俺と高橋は身体を丸め、ひたすら寒さに耐えていた。
 助けを呼ぼうにも携帯は通じなかった。仮に通じたとしても、この天候ではすぐには来てくれないだろうが。
 大学時代の友人である高橋と雪山登山をすることになった。二人とも山岳部に在籍していたが、卒業以来の登山だったため、比較的容易なN県のT山を目標に選んだ。行程は順調で、二時間ほどで山頂に着いたものの、下山途中で急に天候が悪化した。雪が降り出し、風は強くなり、見る見る吹雪となった。ブランクのせいだろうか。そのとき俺は足を滑らせ、登山道から滑り落ちた。背中を痛めて動けないでいると、高橋が見つけてくれた。だが吹雪はさらに激しさを増し、俺たちは身動きが取れなくなった。幸いにも近くの岩陰に二人くらいなら身を隠せそうな窪みを見つけた。高橋はそこに俺を引きずり込み、二人して風雪をしのぐことになったのだ。
 あたりはどんどん暗くなり、そのうち睡魔が襲ってきた。そういえば、低体温症になると眠気を感じるようになると教えられたことを思い出した。このまま目を閉じれば、俺は死んでしまうのだろうか……。
 それと同じくして高橋の声が聞こえた。
「なあ、細野。俺たち、こんなところで死ぬのかな……」
 首をもたげてそちらをみると、青白い顔の友人と目が合った。同じことを考えていたものの、同意すればそれが現実になりそうな気がして、
「縁起でもないこと言うな」
「だよな」と彼は力なく笑ってから、すぐに真顔になった。
「でもさ、万が一ってこともあるから、お前には言っておきたいことがあるんだ」
「なんだよ、言いたいことって」
 高橋は躊躇いがちに視線を逸らし、しばらく逡巡してから、
「実は俺、前から細野のことが好きだったんだ」
「なんだ、そんなことか。お前はいい奴だし、俺もお前のことは好きだよ」
「違う。俺の好きは友情のそれじゃなくて、恋愛感情の好き、なんだ」
 咄嗟には理解できず、黙っていると、
「今まで秘密にしてたけど、俺、ゲイなんだよね。ずっとお前のことが好きだったのに、言えば今の関係が壊れるかもと思って言えなかったんだ。でも、このまま死んじゃったら悔いが残ると思ってさ」
 高橋がゲイだって?俺のことが恋愛対象だ?まさか最後の思い出にキスでもさせてくれとか言い出すんじゃないだろうな。冗談だろ。あ、そういうことか。高橋の奴、こんな話しをして俺を驚かせようとしてるんだ。眠らせないために。そうに決まって……
 そんなことを考えつつ、俺はいつの間にか眠りに落ちていた。

 高橋と二人、雪山を歩いていた。あたりは猛吹雪だ。それでも懸命に進むうち、山小屋へと行き着いた。俺たちはその中に転がり込み、そこで一夜を明かすことになった。
 ぼろ布や古新聞など、暖の取れそうなものを片っ端から集めて身にまとい眠っていると、入り口の扉が開く気配がした。同時に誰かが静かに入ってくるのがわかった。薄目を開けて恐る恐るそちらを見ると、女が立っていた。肌も髪も、着ている着物まで真っ白だ。女はゆっくりと俺たちのほうに歩み寄り、高橋の顔を覗き込んだ。それから息を吹きかけると、彼の顔は見る見る凍りついてしまった。
 次に女は俺の方へと視線を移した。怯える俺に女は囁いた。
「お前の命はとらないでやろう。ただし、今夜起きたことを誰にも言わないように。言えば必ず、お前の命をもらいに行くからな」
 あまりの恐怖に、俺はそのまま気を失ってしまった。
 

 目を開けると雪は止んでいた。夜も明けたようだ。あたりは静まり返り、昨日の吹雪が嘘のような、美しい銀世界が広がっている。うれしくて飛び起きようとして背中に激痛が走り、ゆっくりと雪の中に身体をうずめた。そうだった。俺は怪我をしていたのだ。
 しかし、変な夢を見たものだ。よりにもよって雪女の夢とは。雪山で遭難したという体験が、子供のころに聞いた昔話を想起させたのだろうか。
物語では、山小屋に行き着いたのは木こりの親子だった。親のほうが雪女に凍死させられ、息子はまだ若いからという理由で生かされた。誰にも言うなという条件付きで。ところが息子は数年後、結婚した妻にそのことを漏らしてしまう。それを聞いた妻は豹変した。なんとその妻の正体はあのときの雪女だったのだ。
 夢の中で俺が生かされたのは、高橋のほうががひとつ年上だからだろう……と、思いつつ友人のほうを見る。まだ眠っているようだ。目を閉じたまま微動だにしない。
 咄嗟に大声で彼の名を呼んだ。もしかしてあの夢が現実のことだったのではという考えが脳裏をよぎったからだ。
 何度か叫び、もう一度と口を開きかけたとき、
「うるさいなぁ……」
 高橋が目を覚ました。よかった。死んではいなかった。
 身体を起こした彼はあたりを見渡してから俺を見た。
「おい細野、吹雪がおさまったぞ」
 喜びの感情表現として俺に抱きつこうとしたのだろうが、その寸前で彼はぴたりと動きを止めた。すぐに方向転換し、岩陰から外へと這い出て行く。
 立ち上がった彼はこちらを振り向きもせずに、
「お前は動けないんだからここで待ってろ。俺が助けを呼んでくる」
「は?お前、今俺たちがどこにいるのか、わかって言っているのか?」
「わからん。でも、なんとかなるだろ」
「待て待て。そんな無茶せずともここで助けが来るのを待つべきだ。登山届けを出してあるんだから、きっと俺たちが戻らないことに気づいてくれているはずだ」
 高橋はしばらく黙ったままでいると、不意に俺のほうを振り返った。その顔は煩悶するようにゆがんでいた。
「すまん。お前と二人きりだと居辛いんだよ」
「いづらい?」
「死ぬかもしれないと思って、お前に余計なこと言っちゃっただろ。なんだかそれが気まずくてさ。だから……な」
 と言うことは、あの高橋の言葉は本当だったのか?俺を眠らせないための嘘じゃなかったってことか?まさかこいつ、マジで俺のことを……。
 思わず身震いしそうになるのをぐっとこらえたものの、俺の表情から何かを読み取ったのだろう。友人は寂しげに笑ってから歩き出した。数歩進み、思い出したように足を止めて振り返る。
「そうだ。頼むから俺が告白したことは誰にも言わないでくれよ。ずっと秘密にしてきたんだかさ。例え俺が死んだとしてもな」
 不吉な捨て台詞を残し、彼は雪の中へと消えていった。
 数時間後、救助隊が俺を見つけてくれた。安堵する俺に、一人の男が尋ねかけた。
「もう一人は?登山届けには二人分の名前があっただろう」
「え?あいつが助けを呼んだんじゃないんですか?」
「いいや。下山予定時刻になっても君たちが戻らないから、天候の回復を待って探しに来たんだ」
 てっきり高橋が救助隊を呼んでくれたのだと思っていたのに。力なく首を振る俺を見て、救助隊員たちの間に緊迫した空気が流れた。
 俺を助け出した後も救助隊は高橋を探してくれたが結局見つからず、3日後に捜索は静かに打ち切られた。

 5年後。
 俺はあれ以来、よく飲みに出かけるようになった。親友をなくした傷を癒すために酒に溺れたといってもいいかもしれない。
 その日も俺は行きつけのバーで一人飲んでいた。そこでマスターがユキという名の女と引き合わせてくれた。
 色白の女性は七難隠すと言われるが、彼女もまさしくそんな感じだった。顔はそこそこなのだが、透き通るような白い肌の上に長い髪の色をホワイトアッシュにしているものだから、どこか異世界の生き物のような美しさがあった。
 俺が受けた印象は誰もが抱くようで、彼女はこんなことを口にした。
「私ね、よく雪女みたいだ、って言われることがあるんです」
「確かに、名前からしてもそうですよね。あ。そう言えば、夢を見たことがあったな」
 そこで俺は遭難したことは伏せ、雪女の夢を見たことを話した。
 するとユキは急に深刻な表情を浮かべ、
「誰にも言うなって言ったのに……」
「え?」
「やだ。冗談ですよ。夢だったんでしょ?」
 彼女は一転けらけらと笑った。
「なんだ。びっくりするじゃないですか」
「本当にあのときの雪女が来たと思った?」
「少しだけ」
 フフッと小さく笑った彼女は腕時計を一瞥してから、
「ねぇ。今から家に来ない?」
 女性からそういわれて断る男はいないだろう。グラスに残った液体をのどに流し込み、俺は何度もうなずいていた。

 ユキが取って置きよと言ってワインをあけてくれた。正直そっちの酒には詳しくなかったが、うまいといって飲んだ。
 彼女は俺のグラスにワインを注ぎながら、
「細野さんって、彼女とかいないんですか?」
「うん。いないよ。君は?」
 ユキは二度目の乾杯をしてから、
「私もいない。でも、細野さんはモテそうなのにな」
「いや、全然」
「そうなの?告白されたことは?」
「ない」と答えてからふと思い出した。
「いや、そういえば一度だけあったな」
「え?いつですか?」
「5年位前。と言っても、告白された相手は男なんだけど」
 俺はまたしても遭難したことは伏せて、親友だと思っていた男からマジの告白をされたことを話した。
「いや、まさか男から告白されるとは思わなかったよ。LGBTとか言われてるけどさ、正直俺はまだ気持ち悪くて……」
 すっとユキが立ち上がった。キッチンのほうに行き、すぐに戻ってくる。その手には包丁が握られていた。
「お前さ、誰にも言うなって頼んだよな?」
 それは女性のものとは思えない低い声だった。
 包丁を振り上げた彼女はまっすぐ俺に迫ってくる。
 そのときになって思い出した。
 高橋の下の名前がユキヒロだったことを。


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