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1歳半健診の憂鬱②〜かつてはわたしも"そっち側"だった〜

「そんなに良くないですか?」



1歳半健診が、怖い。

言葉の遅い次男の1歳半健診が怖すぎて、何とかパニックにならないで受診したい。
このnoteは、わたしが心の整理をするためだけに書いている。

長男の時は行く部屋行く部屋でダメ出しをされ、気まずい空気だけが流れた。


わたしは世間知らずというか馬鹿正直というか、そういうところがある。「成長を一緒に喜び合いましょう」なんて書かれたものだから真に受けて、ハイ!喜びましょう!とニッコニコで、何の予備知識もなく行ってしまった。

良い言い方をすると、「人が好い」となるのかもしれないが、要は足らん子ってことだ。よく今まで詐欺とかに合わずに生きてきた。えらい。チキンだからか。チキンでよかった。チキン南蛮。唐揚げ食べたい。

(どうでもいいがスマホで「まにうける」と入れたら「魔にウケる」と一発めに出てきて笑いました。多分、人は好くないのだと思います。)



…結果。

1歳半健診は、少なくともわたしにとっては成長を喜び合う場所ではなかった。ただひたすら息子とこちらの育児をチェックされ、保健センターの基準に満たないところを指摘され続ける。

「至らないわたしを育児のエキスパートがフルボッコ」、みたいな展開になった。



し、しどいわ。わたし達が何をしたっていうの。

だからあれほどジャングルに裸で行くなと(略)

……

ごめんなさい、フルボッコは言いすぎたかもしれない。きっと、保健センターの人たちは、わたしにもっと良くなってほしくて、気づいた改善点を余すところなく伝えようとしてくれたんだ。 
そりゃ、ちょっと熱くなりすぎでは?と思うキライはあるものの、それだけ一生懸命に向き合おうとしてくれていた、ということなのかもしれない。


それは、見方を変えれば、

「自分たちの良いと信じる育児を広めるため、多少自分たちが疎まれたしても、世のため人のために働く仕事人」

とも言えるわけで、変に相手に合わせることなく、自身の信じる道をまっとうする志の高い人たちなんだと思う。

そのメリットデメリットはひとまず置いといて。 


あのさ。

いる。

こういう人、いる。




というか、それ、かつてのわたし。

………


わたしは長年、専門情報誌の編集をやっていた。所属は編集部だが、企画部、デザイン部、組版部などは別にあったので、主な仕事は校正とスケジュール管理、各部署との調整だった。

情報誌はスピード命。

どんなに入稿が遅くても、どんなにページが埋まらなくても、発行日に出ません、ということは許されない。
わたしはいつもそのプレッシャーに追われていた。

月刊、隔月刊、季刊とあるが、一人で3冊ほどを担当する。
月刊になると、だいたい同時に2回分動いている。一誌あたり15本〜20本として、3冊分。それをひたすら目の前に人参を吊り下げられた馬のように走りながらこなす。

さらに部下がいれば、その部下の分の原稿チェックやスケジュール管理も入る。

予定は結構きっちり立てる。だけど、絶対に思った通りには進まない。
入稿が遅い、業務が立て込んでいる、他部署との調整がうまくいかない、校正が届かない、校正に対するクレームがくる、校正の前に差し替え原稿がくる、校正で真っ赤になって泣きながら修正する、転載許諾が下りない…などなど、想定外はそこら辺に小石のように転がっていて、編集が歩けば棒に当たる、というくらいの高確率で起こる。
一誌が遅れると他の担当情報誌もドミノ式に倒れていって、しばらく立て直せない。エマージェンシーのランプがずーっと点いている。

しばらく何も起こらないと不安になってきて、「何だか上手くいきすぎて怖いんだけど〜」なんて言っていると、大体電話がかかってきて、「○○の情報誌で著者名に誤植があった」などと言われ、あたりは阿鼻叫喚の嵐となる。

渡辺さんなんて特に注意。渡辺のなべの字、実はどんだけあるんだよっていうくらいある。簡単な方、難しい方の2パターンどころじゃないからね。邊、邉…。出てこないものもある。とりわけ、難しいやつのバリエーションがエグい。

あと、あれはアベシンゾウさんだったか、総理大臣の。あの漢字の間違いを校正で見落とし、当時の上司に大きく朱で「総理大臣の名前くらい覚 え よ!」と書かれたこともある。


まあ、とにかく人間はミスをするもんだけど、それをひたすら潰していくっていうある意味修行みたいなことをずーっとやっていた。
当時はアンドロイド目頭になりたかったくらいだ。やれやれ、せっかく人間に生まれてきたというのに。普通は、早く人間になりたーい!って言うんじゃないのか。

でも、わたしは単純作業は苦手ではなかったし、校正はやればやるだけわかりやすく結果が出るから、むしろ好きだった(でなければ続かない)。今日は3本朱入れ(あかいれ、執筆者からの原稿に朱を入れて校正すること)した!とか、今日は5本著者校正に送った!とか。


その反面、苦手だったのが、人との交渉だった。

社内、社外とも編集が主導で執筆者や各部署とやりとりをするから、いろんな意見や苦情は編集部に集まる。なかでも、他部署との交渉や説得は一番苦手だった。社内調整役の何がつらいかって、とにかく人間サンドバックになることだ。あっちから殴られ、こっちから殴られ。



そのような精神的事情(苦痛)を抱えて、執筆者とやりとりする。

執筆者は文章を書き慣れていない方も多かった。

誤字脱字から、主述の対応、文脈の整合性。

一生懸命想像力を働かせても、どうしても文意がわからないことがけっこうある。

編集は黒子だ。できるだけ、執筆者の文章は直したくないし、自分の色を出してもいけない。だけど、どんな執筆者でも、ある程度のレベルに仕上げて情報誌に載せるためには、たくさんの修正が必要なこともあった。


編集のお客さんというのは2種類あって、片方は執筆者。もう片方は読者。執筆者の書いた原稿を、読者が読みやすいようにして届けるのが編集の仕事だ。ここで、一つの問題が発生する。


「どちらに寄るか」


当時のわたしは、完全な読者目線で、「より良いものを世の中に届けるんだ!」という使命に燃えていた。だから、原稿には手を入れる方だったし、分からない場合は執筆者への質問や、加筆・修正依頼もした。

そうするとどうしても時間はかかるし、交渉も多くなるし、手間がかかるから自分を追い込むことになる。わたしは社内では「要領が悪く時間はかかるが、丁寧に仕事をする人」だと認識されていたらしい。あと「日報がダントツ暗い人」(笑)。

一方で、「執筆者が書いているんだから、多少意味が分からなくても、そのまま載せれば大丈夫」と考えるタイプもいて、そういう人は仕事が早かった。わたしが残業してやっと終わらせるくらいのものを、雑談しながらささっとやって、定時に帰っていく。不況で人手不足の出版業界、定時で仕事をたくさんこなして帰る人の社内評価は高かった。でも、それだともちろん読みにくさは残るし、万事においてそんな調子なので、他部署からも「もっと丁寧に仕事してほしい」と苦情が来たりする。

だけど、そういう人は執筆者の文章を直さないので、執筆者と不用意に揉めることは少ないのだ。

わたしは何度か、「なぜこんなに手を入れようとするんだ」と執筆者を怒らせてしまったことがある。その時は、すみませんと言って、そのままいただいた文章を掲載することになる。
ある方は、「以前の編集者はとても仕事ができて素晴らしかったのに!」と褒めちぎっていたが、その褒めちぎられた以前の編集者は、何もしないで校正に送る人だった。当時流行っていた「右から左へ受け流す〜」である。

なんだかなあ、と思った。

それって、編集者がいる意味って…。


なくない???


だって、もらった原稿を、そのまま流して、「校正お願いします」って出すだけってさ…。わたしとは違う意味でアンドロイドだよね…。


冒頭の「そんなに、良くないですか?」というのは、遠回しにわたしの部下に言われた言葉だ。わたしの部下、ということはわたしの指導を受けているわけで、つまりわたしが言われたのと同義。

こんなわたしでも一応、どうしたら気持ちよく執筆者に納得してもらえるのかを考えて、修正箇所にマーカーを引いたり、丁寧に質問を書いたりしていた。でも、それが裏目に出ることもあって、執筆者の方が封を開けたらマーカーや文字がびっしり書かれたゲラが出てきて、圧倒されてしまった、ということがあったらしい。

「一生懸命書いたのに、自分の書いたものって、そんなに良くなかったの?」と思わせてしまった、ということだ。


わたしは、保健センターでかけられた言葉を思い出した。

かつてのわたしって…。

「自分たちの良いと信じる育児を広めるため、多少自分たちが疎まれたしても、世のため人のために働く仕事人」

と同じだよね。


つまり、わたしは自分が「読者にいいものを届けたい!」と思うばかりに、正しいと思うことを猛然と並べて相手を圧倒してしまっていたのだ。必死になって説得しようとするばかりに、相手がどう感じるか、ということが欠如していた。

自分の信じることに真っ直ぐであることは必要なことだと思っている。

だけど、その必死さが時に、相手の顔を見えなくしてしまう。

そして、相手が「プライドを持った一人の人間」だということを、忘れてしまう。



全く、一緒だ。

なんてことだ。あれだけ怖くて、怖くて、今日の受付だって足が震えて、声も震えて、どうしてこんな気持ちにならなきゃいけないんだろうって思っていたわたしが、もともとは「そっち側」の人間だった、なんて。


………

わたしは以前、編集者時代の自分を振り返って「ロッテンマイヤー」みたいだった、と書いたことがある。

校正の仕事をしていると、どんどん孤独になり、ロッテンマイヤー化が進む。
一つの見落としもないように細心の注意を払うからだ。

そんな胃のキリキリ痛む思いをして、私はだんだんロッテンマイヤー化していったのだ。
だから、今回も一瞬ロッテンマイヤーさんに戻ってしまった。アーデルハイド!アーデルハイド!


ロッテンマイヤーさんは(もしかしたら世代でわからない人がいるかもしれないので)、「アルプスの少女ハイジ」に出てくるこわい教育係だ。杓子定規で頭が固く、アルプスの山から来た無邪気なハイジの言動を受け入れられない。

家事一切を取り仕切り、優秀で、悪い人ではないが、自由奔放なハイジとの相性は最悪で、結果的にハイジを魂の抜けた幽霊みたいな状態にしてしまった。




「長男の時の一歳半健診は、ロッテンマイヤー型の職員さんが揃っていたんだな


と思う。

保健センターの職員さんたちは、そりゃ、融通は利かないし、ちょっと言い方はキツかったけれども、ロッテンマイヤーさんだと思えば合点がいくのだ。

あの時あれだけたくさんの人がいる中で、あんなに粘り強く観察し、話をしようとしてくれたことが、まずすごい。普通なら、受付番号33番なんて、とっくに精魂尽き果て、いい加減になっていきそうなものなのに。
職員さんたちは、最後までその姿勢を崩さなかった。

それは、ひとえに「新米ママに、自分のいいと思う育児を勧めたい!」とか「異常の種がないかどうか、きちんと観察しなければ!」と思ったからで、その情熱というか熱意は、かつて「そっち側」の人間だったわたしとしては、一職業人として尊敬できるなと、素直に思える。


それに。


保健センターの方々がロッテンマイヤーさんだとすれば、白衣を脱いで仕事モードが終わった時には、ロッテンマイヤーではなくなっているはずだ、とも思う。

きっとご自身のお子さんやお孫さんには、「言葉なんて、少し遅くてもいいのよ」とか、「しばらくしたら歩けるようになるからね」とか、そういう言葉をかけているんじゃないだろうか。そうであってほしい。

みんな、優しいおばあちゃんやお母さんの顔を持ってる。わたしだって、編集の職を離れたら「そんなに統一、統一って言わなくてもねぇ」って言いそうな気がするし。言う機会はないけど。

プロとして厳しく仕事をする人は、相手や社会に対して責任を感じている。だけど、その責任から解放されたら意外に、優しくて楽しい人なのかもしれない。


わたしは自称・元ロッテンマイヤーとして思う。


そうやって、いろんなタイプがいて、社会が成り立っているんだと。
ロッテンマイヤー型の人も必要だし、そうでない人も必要で、それぞれが自分の持ち場で、または場面に応じて、うまく棲み分け、使い分けをして生きている。

だから、わたしはたまたま長男の一歳半健診でロッテンマイヤーみたいな方ばかりに当たってきつかったけれど、すべてが否定されたわけではない。
その方たちもその方なりの思いや事情があったのだと信じたい。


かつてわたしも、「そっち側」の人間だったから。


………

立場が変わらないと気づけないことがある。

あの日、保健センターで出会ったロッテンマイヤーさんたちは、そのままかつての自分の姿に重なって。わたしは、保健センターの職員さんたちのことも、昔の自分のことも、微笑ましく思えるようになった。

母は強し、っていうけど、わたしはぜんぜん強くない。
だから相変わらず保健センターは怖いけど、大丈夫だ。

つらつら考えて、何となく、そう思えるようになった。


※ 次男の1歳半健診はとても穏やかに終わりました。この禍の中、職員さんたちは一生懸命働いておられ、不安そうにしていたわたし達親子にも大変親切にしていただきました。

おかげさまで、心が満たされています。
その時の様子は感謝を込めて、次回書こうと思います。

ありがとうございました。


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