はじロー(28)死といのち
はじめて読むローマ人への手紙5章12節
死といのち
死に支配される、という話を聞かされて、それは素晴らしいと答える人は、あんまりいないだろうと思います。
そもそも、人間は誰でも死ぬものなのではないのか。やがて来る死を逃れられない、それが、死に支配されているということ?
パウロが言っていることは、それとは違うようです。
一人の人によって罪が世界に入り、とはアダムによって罪が世界に入ったことを指しています。それまで、世界には罪がなかったのに、アダムによって世界に罪が入ってしまった、というのです。
「罪」とは、手紙のはじめのほうですでに言っていましたが、神を神としてあがめないこと、感謝もしないこと、です。この罪によって、次に死が世界に入りました。
この次の一文が、不思議です。「こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がった」とパウロは言います。アダムの子孫である人間は必ず肉体の死を迎える、というのではないのです。すべての人が罪を犯したことで、死がすべての人に広がった、というのは、肉体の死のことではなさそうです。
私にも「死」がやってきたのは、私が罪を犯したからだ、という論です。ここで言っている「死」とは、神と共に生きるためのいのちを失っている、ということなのです。
ここで思い出すのが、5章の最初の部分で言われていた神の愛です。キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにして下さっている、という箇所。
相思相愛の状態を思い起こしたら、どうでしょうか。愛を感じているさなかというのは、まさに生き生きと生きていることを実感する時ではありませんか。
そのように生きるいのちを失っていた人間にいのちを与えるために、キリストが死んでくださったのだ、ということだったのです。
では、いのちを得たら、それで自動的に神と共に生きるすべも一気に悟りきって歩むことができるのか、、、というのは幻想。ここから、神と共に愛を原理として生きることを経験しながら学び始めるのです。ローマ人への手紙のかなり長い第三部は、そのために費やされています。
もし、「愛」をただ好きという感情とだけ考えていたら、愛を学ぶことはちょっと無理っぽい。でも、聖書の教える神の愛は、単なるスキキライの問題ではなさそう。
ともかく、キリストの死によって私のからだにいのちを得て、はじめて、これまで「死」に支配されていたのだ、とわかる神のいのち。ここからそのいのちに生きることを学んでいきます。
ローマ人への手紙5章12節
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