主体性がない

割と吐き出すようなものを投稿してしまったが、それは僕の日常を構成する要素だったりする。まあ消さないでおこう。なるべく本当の言葉を綴りたい。

ここ数年、希死念慮が付き纏っている。昨年の八月、橋の上から川に飛び込もうと思った。不思議なほど自然にその気持ちは湧き起こった。幸いにも(不幸にも?)、友人2人がいたので、とどめられた次第である。

大学の友人に、死にたいと話したら微妙な反応をされた。そしてその話は全く膨らまずに次の話題へ移るのだ。彼らは聞かなかったかのように流す。おそらく彼らにとっては瑣末な事なのだろう。まあそうだ、それでいい。

僕は、死にたいというのは当たり前の感情だと思っていたりする。これは精神分析を齧った影響が大きい。人間にとって本能的で、自我に働きかける自然な欲望なのだ。フロイトが提唱したデストルドーとか、その周辺の話だ。発露させないだけで、実は皆が持ち合わせているのだろうと勝手に思っている。

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どうでもいい前書きはここまでにして、本題へ。

最近、自身の主体性について考えている。主体性なく日常を過ごしている自覚が強くあるからだ。

例えば学校で学ぶ事もそうである。明らかに主体性は学校側にある。授業や試験は勝手に設定され、先生や教授にひれ伏し、学問にひれ伏し、専門書に平伏し続けながら学ばなければいけない。平伏し続けて腰は曲がり、もはや姿勢は老人のそれである。教授や院生の物言いが、いちいち耳につく(一応断っておくと、尊敬できる方もいる)。まあ、これは僕の自意識にも問題があるのだろう。それを「気にしない」のがおそらく正しい。しかし僕は「気にしてしまう」、病気のようなものなので仕方なかったりする。「気にしない」ように見せてもそれは嘘だから、今度はそんな自分に殴られるのである。よくこんなスパイラルが起こる。

学者になって研究したいと考えていた時期があるが、最近それは難しいと思っている。所謂、大学人にはなれないだろうと思う。

ある人が、歳を重ねていくと方向性は徐々に固まると言っていた、だから色々と飛びつけば良いと。本当だろうか、と思う。自己にとっての本来的な在り方を探すこと、主体的な真理を得ること、とは。

例えば主体的真理の獲得のため、キルケゴールは「絶対的他者」を必要とした。それは彼にとって神だった。彼は敬虔なキリスト教信者だったこともあり、神を中心とした筋立てで自我を安定させたのだ。

僕は今、その必要性を結構感じている。それによって物語は安定するのではないかと思う。人間というのは有限性と無限性、可能性と必然性の間でいつもフラフラしている(少なくとも僕はそうだ)。それを自己自身で措定するのはおそらく無理だ。

しかし「絶対的他者」を具体的に求めるのは無理がある。そこで宗教に興味はあり、入信するとしたらキリスト教だろうとか考えている。とは言え、本当に今から、いきなり信者になるのかと問われると、「うむむ」と唸って俯くしかない。

神を信じる強さが欲しいが、それにはまだ絶望が足りないのかもなとも思う。

まあ自己を措定できる存在であれば神でなくとも良い。自分に固有な部分から探した方が良いのかもしれない。



読んでくださり、ありがとうございました。 今後より充実したものを目指していきます。