幸せを感じるとは何か

不幸を知らなければ幸せを感じられない。「楽しさ」「幸せ」という言葉が認識できるのは、その概念を取り囲むその他の概念との差異が必要となる。つまりそれは、「苦しい」「つまらない」「孤独」などの語との違いから浮き彫りになる。そしてその背景には、社会の軸として「辛いなりに頑張る」という構造があったのだと思う。近代においてはそれは半ば義務的なものであった。

しかし、物欲が満たされ意味の消費も飽和状態になってきた現代において、このような軸はなくなり、「楽しさ」「幸せ」という概念を浮かび上がらせる土台が消えてしまった。実現されたとは言えないものの、アメリカ的な「自由」の概念が広く世界で理解され、多くの人が社会や政治の制度などにとらわれず生きたいように生きるのが良いということを知っている。そういう社会ではそもそも「つまらない」「めんどう」などの概念はない。もちろん、今でも仕事がどんどん降ってくる世界で生きていれば、その辛さとの裏腹に、「楽しく、幸せな」家族や友達との時間が輝く。しかし、今では仕事自体を労働としてではなく、自分のストーリーとしてやることが既に「良い」とされるような社会なので、「苦しい」との差異で位置づけられた「楽しい」や「幸せ」という概念ではこれを表現できない。もしこうした自分の好きなような生きているような状態の心の状態を表すのであれば、それは「自由」かもしれないし、新しい概念が必要なのかもしれない。

人間は自然言語の海の中で生きていて、コミュニケーションを行う。過去には社会全体が「楽しい」や「幸せ」を目指す言語観が社会で共有されていたが、今はそうではない。無理にこうした概念を目掛けて生きることはリアリティを感じられないものをを追い求める事になり、原理的に掴めないものを追求することになる。僕自身、まずは自分の言語観を見直すところから始めるべきなのだと思った。

ここまで、ほぼ言語的な話になってしまった。日常レベルの話では、「連続された意味付け」が必要であり、「濃い意味付けに支えられた日々」が幸せに繋がると僕は思っている。


読んでくださり、ありがとうございました。 今後より充実したものを目指していきます。