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元ひきこもりが「あ、共感とかじゃなくて。」展に行って感じたこと


今回の記事はいつもと打って変わって、美術館の展覧会レポです。

先日、東京都現代美術館で開催されている、「あ、共感とかじゃなくて。」展に行ってきました。

この展覧会では、5人のアーティストの方が『共感』をテーマにそれぞれブースを展示しています。

そのうちの一人が元ひきこもりで現代美術家の渡辺篤(アイムヒア プロジェクト)さんで、

これは元ひきこもり&アート好きとして見に行かないわけにはいかないぞ、ということで行ってきました。

なので今回は、元ひきこもりでHSPの人間が「あ、共感とかじゃなくて。」展に行ってどう感じたのかを、さくっとご紹介したいと思います。

展覧会は終了しましたが、何かの参考にしていただけましたら幸いです😊



さて、

まずは、「あ、共感とかじゃなくて。」のコンセプトをご紹介。それは、

“見知らぬ誰かのことを想像する展覧会”

とのこと。

特に、「共感」について悩みを持ちやすい10代を対象にした展示会ということで、観客も若年層の方が多い印象でした(もちろん大人もたくさんいた)



展示会の入り口には大きな壁にメッセージが書かれていて、そこにはこんな文章が。


共感しないことは相手を否定することではなく、新しい視点を手に入れて、そこから対話をするチャンスなのです。

東京都現代美術館「あ、共感とかじゃなくて。」展より


これは、上記でご紹介した動画でも出てきます。


共感しないことは相手を拒絶することではなく、新しい発見や思考の可能性、対話の可能性を広げることなのです。

「あ、共感とかじゃなくて。」展_手話動画_0導入より抜粋


共感されなかったからといって否定されたと感じる必要はなく、また自らが共感できないようなことに遭遇しても、それは視野を広げてくれる気づきや発見の糸口となることがある。

そしてそこから、新たな“つながり”が生まれたり、知らなった自分と出会うことができる。


引用したメッセージは一見当たり前だよねと思えるようなことではあるのですが、実際に日常生活でこの“高度な共感”ともいえる行動ができているかと問われると、なかなか難しい気がします。

そもそも、『共感』は個々のアイデンティティやイデオロギーなど私的な感情からくる信念も絡んでくるため、

その使われ方次第では、人を傷つけたり争いの種になってしまうこともあり得ます。

また、私は海外生活の経験が豊富ではないのでよくわかりませんが、『共感』が展示会のテーマとなること自体がなんだか日本独特の文化っぽいなぁと思ったり、

良く言えば共感性が高く、悪く言えば同調圧力が強い国民性だからこそ、“毒”にも“薬”にもなり得る『共感』のとらえ方がアートになるのかなと感じました。



目当ては渡辺篤(アイムヒア プロジェクト)さんの展示ですが、その前にHSPとして気になった展示が。

それが、展示会で一番最初にあった有川慈男さんのブースです。

こちらのブースは四方八方から映像が流れる展示だったため、聴覚過敏の方のために耳栓も用意されているとのことでした。

私は軽度の聴覚過敏なのですが、前方と左右にある映像どれに集中していいのかわからず、なかなかの聴覚カオスな展示でした。

(個人的には聴覚の刺激よりも会場全体に漂っていたサウナ室のような臭いの方が気になりました😅)


4つに区分けされたブースには、それぞれ人が作業をしている映像が流れているのですが、

どの人物も一見何かの仕事をしているようで、実際には何をしているのかわかりません。そして、結局、最後までわからないまま映像は永遠と繰り返されます。

しかし、どうもHSPとしてアーティストの方が意図したような読み取り方ができない違和感があり、説明文を読み返してみました。

人間は、見えているものをそのまま認識するのではなく、自分が納得できる理由にあてはめて意味を理解しようとします。そのため、共感できるストーリーやシンプルな説明など、効率よく「わかる」コンテンツが好まれる傾向があります。有川さんは、そういう「わかる」からちょっとずれた作品を作ることで、「自分の見たいように見る」認識のコリやゆがみを、解きほぐそうとしているのです。

東京都現代美術館 「あ、共感とかじゃなくて。」展より抜粋

とあります。

おそらく何の作業をしているのかわからない映像を見せることで、“「自分の見たいように見る」認識のコリやゆがみ”を再認識させる目的があったように思いますが、

五感でキャッチした情報を深く処理するHSPとしては、ただただわけのわからない映像を見せられて頭が混乱するばかりでした。

むしろHSPは、自分にとっては必要のない情報も熱心に読み解こうとしてしまう傾向があるため、余計に脳の消費カロリーが多くなってしまった印象でした。

もちろんこれは芸術性を否定しているわけではなく、いわゆる定型発達と呼ばれる、特にこれといって感覚過敏がない人を対象としたアートだと感じました。

(※その点では、過去に訪れたチームラボとコンセプトが似ている気がします。)



さて、お目当ての渡辺篤さんのブースですが、そこだけ別室で照明が暗く、演出からして独特の雰囲気でした。

そのブースにはいくつかの展示品があり、

たとえば、月の写真を大きく一つにまとめたパネルがあったり。

新型コロナがはやって、みんなが外出や人に会うのを控えていた時、同じ月を見て、写真を撮るというプロジェクトを始めました。寂しさを感じている人、見えないつらさを抱えている人がいることを、いつも思い出せるように。

東京都現代美術館 「あ、共感とかじゃなくて。」展より引用

ひきこもりの当事者が撮った自室の写真がカーテンの隙間から見えるように展示されていたり。

そんな渡辺篤さんの紹介文がこちら。



私が今回の展示を見て感じたのは、“喪失感”と“主体性”です。

喪失感は、社会の中に居場所を見出せず、ひきこもり状態になっている人誰もが持っているもの(持たされるもの)です。

その一方で、ひきこもるということは自らを守る行為でもあり、自分らしく生きるために主体性を取り戻す準備期間とも言えます。

ひきこもりの何が苦しくつらいかというと、社会から断絶されることで、自らのアイデンティティが根こそぎ奪われてしまうところだと感じます。

本来、私たちは存在しているだけで完璧なはずなのに、社会に居場所が見いだせないだけで、生きる権利すら奪われたように感じてしまいます。

そしてそれが

社会の役に立っていない
家族に迷惑をかけている、一族の恥
自分は生きる価値がない

といった自尊心の著しい低下へとつながり、ますますひきこもり状態から抜け出せなくなってしまいます。

しかし、ひきこもるということは、“自らの人生においてかじ取りをするのは自分だ”という主体性を取り戻す行為とも言えます。

事情はどうであれ、ひきこもるということを選択した時点で主体性を発揮している・・・・・・・・・・からです。

渡辺氏は共同でアートを制作するときは、“アイムヒア プロジェクト”と名乗っています。

社会から断絶され孤立した状態だと、“I'm here.”『私はここにいるよ』を証明する手立てを失います。

普通の人が当たり前に手に入れることができる自尊心や存在証明を、ひきこもることで手に入れることができなくなってしまいます。

しかし本来は、社会的なつながりが一切なくても、私たち一人ひとりに、“I'm here.”『私はここにいるよ』と主張する権利があり、

それと同時に、“You're there.”『あなたはそこにいるんだね』と、誰かから認められる権利があります。

渡辺氏はひきこもり支援について、こう記述しています。

頭ごなしに否定したり強引に引きずり出すのではなく、抱えている悩みや困難に寄り添い、本人の望む生き方に伴走することが大切です。

東京都現代美術館「あ、共感とかじゃなくて。」展より抜粋


人が幸せになる形は人それぞれあり、正解はありません。誰かから許可をもらったり、認められるものでもありません。

その人にとっての普通が、他の人にとっての普通である必要はないのです。

そういった一人ひとりがそれぞれのやり方で幸せになることを前提とした上で、本人の望む生き方に伴走すること、つまり、

『あなたはそこにいるんだね』というメッセージをいかに社会の側が伝えることができるのかが、ひきこもり支援として重要だと感じます。




さくっとご紹介とか書きながら、いつもの記事のように長くなってしまいました。

この記事が、共感・・までいかなくても、何かの“気づき”や“発見”のきっかけとなりましたら幸いです🍀



ここまでお読みいただき、ありがとうございました😌




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