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三千世界への旅 魔術/創造/変革74 侵略されなかった日本

大航海時代の東アジアと日本


大航海時代の中国は明が衰退し、モンゴル人に侵略されたり、満州人が南下して清を建国したりといった変化の時代でした。ただ、混乱はあっても、巨大な帝国ですし、モンゴルや満州の勢力も軍事的に強力ですから、ヨーロッパ勢は沿岸の交易都市に拠点を確保して貿易を行うくらいしかできなかったようです。

日本は戦国時代で、統一政権がなく、規模的にも中国に比べるとはるかに小さい国ですから、ヨーロッパ勢にとっては、その気になれば侵略・征服しやすかったかもしれませんが、最初にやってきたポルトガル人も、少し遅れたイギリス・オランダ人も、商人がやってきただけでした。

記録に残っている最初のヨーロッパ人は、1543年に船が難破して種子島に漂着したポルトガルの商人で、鉄砲を日本に伝えたことで有名です。

1549年にはこれも有名なイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが九州から瀬戸内海を通って京都・堺を訪ねていますが、比較的短期間滞在しただけで日本を離れています。

組織的な布教活動が始まるのは1560年代あたりからで、宣教師のルイス・フロイスによる報告書には、堺を拠点に商人や近畿の戦国武将などに布教活動を行う様子や、仏教勢力による妨害などが詳しく書かれています。

その頃にはポルトガル商人もやってくるようになり、博多や堺は貿易で発展したようですが、本格的な軍備を持つヨーロッパの遠征隊がやってくることはありませんでした。


回避されたスペイン型の侵略


武装した遠征隊が来なかったのは、当時のインド・東南アジア経由のルートで来る場合、日本は最果ての国だったため、順番が後まわしになったからかもしれません。

また、商人や宣教師は情報をヨーロッパに送る諜報員でもあったようですが、彼らが日本は侵略・征服に適さないと判断し、そういうリポートを送ったからなのかもしれません。

当時の日本は戦国時代で混乱していたとはいえ、各地の戦国大名の支配力はかなり強力でしたし、ヨーロッパ人が交易を行うにも色々な制限がありました。

日本は当時のヨーロッパ人が黄金郷だと信じた国のひとつだったようですから、インカ帝国で大量の黄金を手に入れることができたスペイン人の成功体験から、もっと積極的に遠征隊を送り込んでもよさそうなものですが、宣教師たちは、当時のヨーロッパの噂で言われていたように日本の道路に黄金が敷き詰められているわけでもなければ、黄金製の建物が並んでいるわけでもないことを報告していたのかもしれません。

日本の街が黄金でできているという噂の基になったと考えられる金閣寺も、戦乱で京都が荒廃していた戦国時代には金箔が剥がれていたかもしれませんし、少なくとも黄金製ではなく金箔を張った木造建築にすぎないことは知られていたでしょう。

東南アジアでも黄金があるなしに関わらず、統治がしっかりしていて、武力もまともな国には、ヨーロッパ人も中南米でのスペイン人のような侵略・征服は試みていませんから、戦国時代の日本もそういうタイプの侵略・征服の対象にはならなかったということかもしれません。


隙を見せない統治


日本にヨーロッパ人の宣教師や商人がやってきた16世紀半ばは、戦国時代も後半に入っていて、室町幕府の統治は有名無実化していましたが、将軍を補佐する管領・細川家の領地である阿波(今の徳島県)の守護代だった三好長慶とその一族・家臣が近畿を統治していました。

三好の統治が弱体化した頃に織田信長が尾張・美濃から上洛し、各地の大名や将軍、本願寺などの勢力と戦いながら、全国統一を進め、彼が本能寺で殺された後は、後継者である豊臣秀吉が統一を果たし、その死後は徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利して、200年以上続くことになる江戸幕府の体制を固めていきました。

江戸幕府がスタートした後も、豊臣家は存続していて、最後の大きな決戦となった大坂冬の陣・夏の陣では、ポルトガルが豊臣、イギリスが徳川に武器などのサポートをしたようです。

ヨーロッパ勢はこういう戦いを利用して、現地の政権を支援しながら軍事・政治に介入していき、隙があれば国の統治権を奪ってしまうという戦略をとる傾向があったようなので、このときもポルトガル・イギリスそれそれに、そういうチャンスをうかがっていたのかもしれません。

戦国時代末期の日本では、種子島から伝わった鉄砲とその製法を基に、鉄砲を量産する体制ができていましたし、もっと大きな手持ちの大砲みたいな武器も造っていたといいますが、国産の大砲では大坂城まで届かず、大坂夏の陣で徳川軍はイギリスから最新の長距離砲を買って、天守閣を破壊したといいます。

大坂の陣は豊臣を支援したポルトガルと、徳川を支援したイギリスの戦いでもあり、イギリスの支援のおかげで徳川は勝利したという見方をする人もいるようです。

このとき家康にはイギリス人の航海士ウイリアム・アダムスとオランダ人のヤン・ヨーステンが顧問として仕えていたようですが、イギリスが国家として本格的に徳川を支援していたというわけではないようです。


用心深く排他的な日本


イギリスが組織的に江戸幕府を支援し、コンサルティングや武器・技術の供与を継続的に行なっていれば、やがてあれこれ口実を儲けてイギリス軍が駐留し、ある日最後通告を突きつけて占領してしまうといった事態になったかもしれません。

しかし、家康は大坂の陣の後、イギリス人たちと距離を置くようになったと言います。それと直接関係があるのかどうかはわかりませんが、顧問だったアダムズはイギリスに帰国しています。

一方、オランダ人のヨーステンは日本に残り、終生幕府に仕えたようです。国家としてのオランダは家康の死後、幕府が海外との交流を制限していく中でも関係を維持し、いわゆる鎖国体制が始まった後も、ヨーロッパで唯一国交を続ける国になります。

ヨーロッパ勢の中で、オランダが選ばれた理由は、早くからキリスト教の布教や政治介入を試みたりせず、交流を交易だけに限定していたからと言われています。

オランダはプロテスタントの商人たちが、長くオランダを支配していた神聖ローマ帝国から独立して独立を果たした商人の国ですから、他のヨーロッパ諸国と違い、キリスト教の布教や政治的な侵略・支配にそれほど熱心ではなかったようです。

しかし、そのオランダも日本との接点は長崎の出島に制限され、江戸末期に医師シーボルトが日本の地図など情報を収集していることがわかると、即座に退去させられています。

早めに介入のチャンスを潰すこうした用心深さ、排他性が、日本をヨーロッパの侵略から守ったと言えるかもしれません。

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