ゾンビ人魚

パンデミックが蔓延して、いつからか僕は日数をメモしておくのを諦めた。『正』の字が無数に並んだノートは本当は中途半端な記録だけれどそれなりに満足感はもたらした。僕は、ため息を吐き、ノートをデスクに置いた。

別のメモをのせておく。デジタル時計までが狂っているなら話は別となるが、ひとまず今日の日付を。そして僕の名前。あと、もしかしたら、誰かがこの高層マンションにあがってくるかもしれない。その人にここにはもう、何も無いことを知らせておく。なにかあるんなら僕だって決死の脱出劇なんぞに挑戦しないのだ。

今、世界で金より貴重になった、数少ない食糧は僕の背負うリュックに詰められた。パンデミックが蔓延してから5年は過ぎた。それは確実。あのノートの『正』の字は365個でばからしくなって辞めたんだから。

パンデミック以前の僕は、冬ごもり前のリスのような貯蔵家だった。もの、缶詰、保存食なんかは役に立つから何倍の量を普段から買いおきしておく悪癖。ところがパンデミック後ではこれに救われた。悪癖ではなくて美点になって、おかげで今日まで僕の生命は持続された。肥満体の色男から、ガリガリヒョロヒョロの色男にひとが変わるほどの変化はあったけれど。

ゾンビは腐敗するものとどこかのゾンビ映画で観た。充分すぎるほどの蓄えがある僕は、ゾンビが腐りきって肉が剥げて骨が崩れ落ちるその日を待つことにした。昨日、窓のしたでゾンビのやつ1体が腐敗の果てにくずれおちるのを目撃した。チャンスがようやっと巡ってきたのだ。春の萌芽がようやっと顔を出すように、地中から虫が這い出るように。残り少ない食糧はずっと気にしていたから、これはリュクサックに詰めて、ペットボトルの残りや雨水を濾したものも詰めて、僕は冒険にでなくちゃならない。ドアを開けると、もう10年はマンションに立てこもっていた気分がした。肺が冷たい空気に驚いて縮み上がった。足音は立てないよう、万全の注意を払って外階段をおりた。小ぶりな双眼鏡を手に、あちこちを観察するが、パンデミック当初あれだけいたゾンビがもう誰も立ってはいない。腐り落ちた肉体の骸が、死屍累々と地上に転がって骨を剥き出しにはしている。骨だけになっている。理屈はわからないが、さすがにあそこまで削れると、不死者も死んだ状態と変わらないようだった。

僕は、想定よりも軽々しく簡単に、地上へとスニーカーをおろした。

マンション付近にも通りにも誰もいない。

腐臭。かわいたハエの匂い。乾燥しきっていて、あまり臭さすら感じない。マスクをくちから下げても、耐え難いような腐敗臭は襲って来なかった。パンデミックはすっかり骨になったようだった。

骸を避けて歩く。目的地は、ひとまず設定してはある。ここら近辺だと都会とはちがって高層マンションなんて数えるほどだ。僕の住んでた駅チカのマンション、あと海辺のリゾートマンション数棟だ。リゾートマンションへの道は整備されていて、骸が転がってようが何年間も放棄されていようが、それは変わらない様子だった。空気は寒いが日差しは暖かな、春の近づきを感じる、うららかな陽気が町に浸透していた。坂道をくだっていくと砂浜がちかい。

リゾートマンションを順に見ていくつもりだ。食糧があれば回収して、誰かがいるなら、不安はあるけれど合流して、この死後の世界でともに生きる為のよすがになれればいいと思う。できたら五体満足な若い人間がいい。性別は問わない。そんな贅沢は死後の世界には持ち込めないものだろう。

波の音が砂浜に響いていた。パンデミック以前と変わらない。

僕は懐かしくなって耳を澄ませる。そして次第に緊張した。……ゥォ……オオオ……。かすかに、ごく僅かに細い糸の音量が、鼓膜に触れてくる。何事かと海に向かい、波の果てに双眼鏡をかざした。

思わず、くちを突いて出た。

「……人魚だ」

ぼろぼろに腐り肉になりながら、波のはざまで踊らされている、数体の腐肉たち。いや無数の腐肉たち!

どんな原理か、パンデミックの影響なのは確実だろうけれど彼らはまだ骨になりきれない連中だった。上半身だけのゾンビがほとんどだ。波に揺れて、上半身サーフィンを永遠に続けながら、彼らはうめきながらまだ生きている。人魚。さながら不老不死の人魚のように。

僕は、双眼鏡をおろし、目の玉にはぜる目眩を耐えた。しばらく海岸線にぼけっと立っていたせいか。人間なんてものは、マンションのうえから見ていれば、ひどく目立つものなんだ。長年、マンションから連中を監視していた僕にはわかる。衝撃のまま茫然自失としている僕に、声がかけられた。

僕の期待をうらぎる、年老いた、50歳手前ほどのおじさんの声だった。リゾートマンションからおりてきた初老の彼はサンダルを履いていた。

「あれ、すごいだろ。流されてからずっとああしてるんだよ。俺は、あれ、人魚って名付けたんだけど、どうだろ?」

僕は、ぼうぜんとして、おじさんという生き物をはじめて見るように眺めまくった。少しして現実が受け入れられた。そう、そうだ、僕だって生きてればそのうち、おじさんになる。生存者がおじさんだからと残念になる必要はない。僕は正直に答えた。

「ぼくも、人魚かよ、って思ってたところです。ずっとああしてるんですか?」

「ああ。腐敗してるけど、骨だけにはならんね。陸地のやつらと違って腐敗するスピードがかなり遅い。世界最後のゾンビになるか、永遠のゾンビになるか、どっちかはまだ誰もわからん。だから人魚なんてどうだろってね」

「人魚」

呟きを噛み締めながら、僕はいささか安心した。骸が転がりまくる、殺風景な砂浜にふたりぼっち。

だけど、どうやら、気の合うおじさんらしいから。



END.

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