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都市部と農村部のパワーバランスの逆転その2 - 【人口世界一:その10】

前回の続きです。

まずはこの時代の女性の働き方と男性の家事への関わり方をまとめたいと思います。


女性の経済活動への関わり

徳川時代の社会通念上は、女性は学問を修める必要はなく、台所にとどまっていればいいと主張されていました。その様な見方を説いた古典的な修身書が儒教思想に基づく『女大学』というもので、内容としては女子を教育するための一般原則と従順な振る舞いに関するものでした。

然し乍ら、実際は女性が豊かな農家や町の商家ないし工房の経営者や共同経営者をつとめるケースも出現し始め、農家の女性に関しては村に住む繊維の仲介人から紡織などの出来高払いの仕事を引き受けるのが一般的でしたし、都市に住む女性も出来高払いの仕事を引き受けていたそうです。

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また、若い女性が季節契約、あるいはもっと長期の契約で賃労働者として家から離れて働く形態がこの頃に一般化したました。豊かな農家の娘は京都の公家の家で女中奉公をし、貧しい家の娘は都市や町の遊郭で売春婦となるケースが多かったようです。その場合、親たちには見込まれる賃金の前払いとしてかなりの金額が支払われるシステムになっており、娘たちは3年〜6年に及ぶ年季が明けるまで働いて前借金を返済しなければなりませんでした。


契約形態

女性が得られる就職口としては、この年季奉公の契約形態が主でした。農村地帯で興隆した紡織の現場で働く労働力の多くは女性労働者でしたが、故郷からかなり遠くまで出かけ、親が前払いを受けた1シーズンあるいは複数シーズンの賃金分の年期が明けるまで年季奉公先の小さな織物工場に住み込んで働くのが一般的だったそうです。

女中奉公、遊郭での身売り奉公、工場での年季奉公などこれら全ての賃労働の形態はその後も引き継がれ、近代日本の経済的、社会的発展の土台として重要な役割を担うことになっていきました。


男性の家事への関わり

徳川期と明治初期の資料では、男性が子育てや家事で積極的な役割を担っていたことを示しています。1610年頃の商人の手記に、食事を用意する薪を買い入れ蓄える、ゴミの選別するなどの作業を男性が自ら行う様にと命じていたり、男性がこの様な雑事を自ら引き受けなけないならば、世帯を満足に切り回せるはずがないという記述を残しているそうです。

家庭は仕事の場であると同時に住まいであり、家事労働は女性の活動領域として厳格に仕切られてはいなかったそうで、イギリス人女性旅行者の手記にも、「低い塀に腰掛けた12人から14人ほどの男たちがそれぞれ腕に抱いた2歳に満たない子供を撫でたりあやしたり、体つきや知恵の付き具合を見せびらかしている」光景を記していたそうです。1878年の農村の早朝の光景だったそうです。


都市と農村のパワーバランスが逆転した社会背景の考察

飢饉と間引きがあったこと、都市や大きな街で人口が減少したこと、社会的な抗議行動が増えたことと、一方で社会が活力に富み、農村地帯で商取引や工業が興隆したこのパワーバランスの変化はどのような社会背景が要因となっていたのか。

その要因は大きく2つ挙げられそうです。一つは階級間と階級内で、また地域間で資源の分配が不均等だったこと。もう一つは海外との貿易ネットワークから比較的乖離されていたこと、です。


資源の不均等
都市が衰退する一方で繁栄した比較的小さい町は以下の様な特徴を持っていました。

・原料の産地に近い
・水利に恵まれている
・拡大しつつあった農村の市場に近い
・都市の市場にも近い

この様な地方の町々は、商人と生産者を結ぶ密接な人間関係のネットワークが構築され、そうした人的繋がりが体系だった商法がない中で安定した経済関係を維持する重要な役割を担いました。

また、徳川幕府や藩の役人たちのさらに厳しい監視下にあった都市の商人たちは、税制や同業の株仲間の規制に縛られていましたが、地方の町々にはその様な締め付けはなかったことも大きな要因の様に思えます。


海外との貿易ネットワークからの乖離
この様な農村地方の興隆を海外と比較するとその特徴が浮かび上がってきます。17〜18世紀のヨーロッパでは農村経済は成長傾向にありましたが、その一方で中心都市がそれに伴って衰退したわけではありませんでした。日本との違いはヨーロッパ人が極めて積極的に海外貿易を追求したことにある様です。

外国貿易をより効率的に行うためのハブ機能を求められた結果、都会の雇用が増加しました。それに伴い食料輸入が拡大し、国全体の人口増加と都市への人口流入を加速するという効果が生まれた様です。

徳川時代の日本では国際貿易がもつ重要性はごく限られていました。徳川時代の鎖国政策に関する記事はこちらをご覧ください。

17世紀と18世紀の日本は、確かに長崎経由で中国にかなりの量の銀と銅を輸出していましたし、朝鮮にも大量の銀を輸出するとともに中国から大量の生糸を輸入していました。そしてこの貿易が長崎周辺と鉱業生産の拠点地域、それに南は九州から本州中央の京都に至る地方の絹生産地での雇用を支えたのは事実です。

とはいえ日本の外国貿易は同じ頃のヨーロッパほどには経済成長と都市の成長を牽引する力を発揮しなかった様で、日本では経済全体の成長と都市の成長に変わり、内向的な、農村中心の成長が起きたと推察されます。


社会的な抗議行動の背景の考察

社会が経済的に潤ってくることは、同時に経済が複雑化しリスクが大きくなることを意味します。もちろんこの時代に事業で失敗した場合の体系的な社会福祉政策など無く、農村内での富と権力の格差は拡大していきました。

農村の上層部はさらに教養を深め、行動力を伸ばし、土地と投資資金を元手にさらに豊かになっていき、世代間では子供らにより良い決断を下すための教育を受けさせ、情報の格差も広がっていきました。

こうした背景を見てみると徳川時代の社会は決して平等な社会ではありませんでした。徳川時代の初期には他人に頼らなければ生活できない貧しい村人が多く存在し、その多くは使用人や分家のメンバーでした。そして彼らの貧困は、自分の手下や庇護下の者の面倒を見なければならないという主人の義務感によって和らげられていた様です。

一方で、そうした家族主義的な温情は、19世紀には次第に薄くなっていくと同時に、貧しい村人たちは賃労働契約を介しての経済活動に取り込まれる様になっていきました。つまり彼らが親類縁者の手助けを必要とするケースが以前よりも多くなったのに、以前よりもそうした手助けをあてにできない社会状況に変化していきました。

徳川時代を通じて社会的な抗議が徐々に強まっていった要因は、昔からあった不平等への反発として強まったというよりは、市場経済がもたらした構造変化への反発として強まったという方が自然な様です。つまり、富農層は地位の高さや豊かさゆえに攻撃されたというよりもむしろ高い地位にある者には当然慈善を施す義務があると了解されていたはずなのに、彼らがその義務を履行しなくなったがゆえに攻撃されたと考えるのが妥当な様です。


今後深めていくポイント

今回の調査で、まず気になったのは現代社会に生きる我々が認識している男女の役割分担が事実と大分異なるということです。私の認識ではもっと女性は家の中にいるもの、といった傾向が強いのかと思っていましたが寧ろ労働力として積極的に家の外に出ていき、男性も家事・育児を積極的に担っていた様です。このあたりの男女の役割分担を深掘りするのも現代の社会を鑑みると有益な気がしましたので今後深掘りしていこうかと思います。

また、都市部と農村部のパワーバランスの変化の社会的要因を纏め、発展した農村部には外的な要因(ここでのケースは特に地理的要因)が大きく影響していたことや、海外との貿易を制限されていたことで内向的な農村部の発展が促された点について一定の納得感がありました。

例えば現在の日本は、都市部への人口集中が顕著になってきており、人口減少傾向にあるなかその潮流は益々顕著になっていくことが予想されています。UターンやIターン、地方創生などのキーワードをよく目にしますが、この辺りの問題解決のヒントが江戸後期に出現したパワーバランスの変化に含まれていないか、今後深掘りしていきたいと考えています。


今日はこの辺で。

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