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吉田松陰の実像と本当の魅力


こんにちは、タカです。

あなたは、
「吉田松陰」
をご存知でしょうか?


もちろん、
歴史教科書などでも
出てくる人物なので、

名前はよく知られているでしょう。


一般的なイメージは、

学問、思想家、教師
松下村塾で維新の志士たちを教えた。
などでしょうか。

しかし、
実際に本などを読み
調べていくと、


本当の吉田松陰の姿が
見えてきます。


もっともっと知ってほしい、
素晴らしいところがあるのです!


そこで今回は

吉田松陰の魅力、凄いところ、
についてお話します。


参考:
Audible
森友 幸照の吉田松陰 誇りを持って生きる!


吉田松陰とは?


まず、
教科書的な説明をしますと、


吉田松陰とは、
長州藩(山口県)で松下村塾を開き、高杉晋作や伊藤博文など、幕末や明治時代に活躍する多くの志士たちを排出した思想家。


くらいの説明でしょう。

しかし、
これでは実像がわかりません。



先に言っておくと、
松下村塾は約1年前後ほどしか開いていませんし、
伊藤博文は数ヶ月くらいしか松陰とは接しておりません。


松下村塾、それだけで大きな影響を与えた。
と見るのは間違いでしょう。

(もちろん、素晴らしい塾であったことは変わりありません)



実際に吉田松陰は博識で、
良い、思想家であり、
研究者であり、指導者でした。


孟子や孔子、中国史、山鹿流兵法など
古典、漢文などの専門家であり、
歴史家でもありました。


余談ですが、
最近は漫画やアニメ、ラノベなどでは、
「軍師キャラ」
が人気があるのだそうです。

作戦や戦略を練って、
知略を尽くして、
まわりを動かし、
勝利に導いていく。

自分が汗をかいて動き回る
のではなくて、
頭を使ってまわりを
うまく導いていくキャラ、
ですね。


どこか、
思想家、教師、

というと、
軍師キャラのイメージが付いてしまいます。


私も学生時代などは、
吉田松陰もそういったキャラだろう。

と誤解していましたが、
実際に調べてみると

イメージや通説とは
全く違う吉田松陰像が
浮かび上がってきます。


吉田松陰の本当の魅力


私は、
吉田松陰のすごさは
知識や思想。

それだけではない。
ということが言いたいのです。


吉田松陰の本当に凄いところ。


それはとてつもない行動力です。


やると決めたことはしっかりとやる。
言ったことは、しっかりと実行する。

これを徹底したところです。


例えば、
有名な例ですと
「下田踏海」


ペリーが来航して、
日本は激動の時代に突入します。

そこでは
どう対応すべきか、
日本はどうしていくのか。

大荒れの議論が繰り返されます。

しかし、
吉田松陰は

アメリカがどういう国なのか?
どのくらいの国力で、
あの技術力がどのようにして
培われたのか?

人々の暮らしや性格、
国の制度はどうなっているのか?


など、
何も知らないで


ただ攘夷だ開国だ、
と騒いでも意味がない。

実際に行ってみて、視察してみないと
わからないことだらけではないか。

と考えて、

ペリーに直談判しに
黒船に密航します。


当時、
外国への出国は死罪、打首です。

外国勢力との接触も死罪。
外国へ行き、行こうとしての帰国でさえも
見つかったら死罪。

そんな世の中です。


なので密航したのですが、

こうした方がいい、と、
たとえ、そうは思っても、
実際に実行できるのが凄い!


よく、死んでもいい、
死ぬ覚悟で行う。

なんて言葉を使う事ありますが、

これほどまでに
文字通りに

「死ぬ覚悟で」

実行に移すこと、
現代人では無いでしょう!


「心甚だ急ぎ、飛ぶが如し、飛ぶが如し」


密航したところで
成功するかはわからない。

黒船に接触しても
どうなるかわからない。

アメリカに行けたとしても
どんな扱いをされるかわからない。

無事に帰ってきても
処刑されるかもしれない。

そんな状況だったわけですね。

その時の心情を
吉田松陰は
手紙にしたためてあります。

「心甚だ急ぎ、飛ぶが如し、飛ぶが如し」

父の友人である瀬能吉次郎にあてた手紙より。吉田松陰の興奮が伝わる前後の文は以下。「浦賀へ異船来たりたる由につき、私ただ今より夜船にてまいり申し候。海陸ともに路留めにも相なるべくやの風聞にて、心はなはだ急ぎ飛ぶが如し、飛ぶが如し。」



ペリーも感激した!


最終的には失敗に終わりますが、
ペリーに接触はできました。

返答としては、
まだまだ交渉中だから
問題を起こしたくない。

正式に日本と国交が
結ばれるまで待ってくれ。

とのことでした。

しかし、

自分の命を賭けてここまできた。

しかもなんのために?
というと、

日本を良くしたいという
ただその一心だけで

アメリカに渡りたい、
アメリカのことを知り、
技術力や制度など学びたい。
それを日本に持ち帰り、
改革をしていきたい。

こんな素晴らしい国民が、
日本には居るのか!
とペリーは驚愕しました。

当時、
吉田松陰はおよそ24歳ですからね。


こんな若者がいるのなんて!
日本の未来は明るいぞ!

ペリーはそう感激し、

幕府に対して、

どうか、
この若者たちを
罪には問わないでほしい。

日本を良くするために
とった行動ではないか。

これは日本の宝、
死刑にするなんてやめてほしい。

と連絡しています。

そのため、
結果的には処刑を免れます。


また、
いずれ日本と国交が結ばれれば、
ペリーの名の下に
正式にアメリカへ招待しよう。

とまでいっています。


実践してこその学問


私が当時の日本に生きていて、
このニュースをもしも聞いたならば
ひっくり返ったでしょう。

実際、
おとなになってから、

この逸話を知ったときも
衝撃を受けて
強く記憶に残っていました。


他にも
こういった逸話が
たくさんあります。


紹介しきれないので、
ざっとお話すると。


実際に世の中のことを
知らないで、

今後の日本を
どうしたら良くなるのか?

そんなのわからない。

ということで、

九州から、
北は青森まで、

その土地、その土地を
歩き回って、
情報収集をします。

その土地の暮らしぶり、
人々の様子などを見たり、

その土地の賢者、有識者に
会いに行って話を聞いたり、

青森など東北の日本海側などは
ロシア船など、
外国船が多く出没するようになった。

と情報を聞けば、
実際に海岸などにおもむき、

国防は大丈夫なのか?
どうしたら侵略されないのか?
現場はどうなっているのか?
などなど
視察しに行きました。


当時は、当たり前ですが、
飛行機も新幹線も電車も自動車も
ありません。

徒歩で日本中を
実際にまわってみて、
見聞を広めたのですね。


なかなか
そこまでできることではありません。

吉田松陰は
こうしたエピソードが
たくさん出てきます。


また、
松下村塾の教えにも、

知識や学問は実際に役立ってこそ、
意味がある。


実際に体験したり、
見たり、聞いたり、
行動して確認しなさい。

とも教えていたそうです。

頭で考えたりしただけで
終わりにするなよ。
ということです。

周りの人たち、
社会、国家、世の中、
それらに役立ってこそ、
人間の人生なのだ。

自分のできることで
まわりに貢献しなさい。
ということですね。


最終的には、

幕府や藩に対して、
提言をしたり、苦言を呈したり、
改革のために行動を起こしたりした。

それが故に、
幕府からは疎まれて、

危険思想家、
まわりを扇動し倒幕しようとしている。

ということで
安政の大獄にて処刑されてしまいます。

これは、
日本史に記述の有るとおりです。



まとめ:徹底した実践主義の人



実践を重んじ、
行動することも重視した、

そんな行き方を貫き通した。
そんな吉田松陰。


どうしても、
思想家、教育者、
軍師キャラ、

というと、
自分は行動せず、
部屋で書物をあさり、
頭を動かしている。

そんなイメージが付いてしまいます。

もちろん、
読書や研究も
吉田松陰はしていましたが、

それだけではないのですね。


学んだならば、
それをどう活かすのか?
どうしたら貢献できるのか?

そのために自分は
なにをしたらいいのか?


絶えずそれを考えて、
必ず自分を行動を起こして
実践することをしっかりと重視した。

そのために
命を落としたわけですが、

その生き様は
終始一貫していたのです。


松下村塾などで
教えていた内容も
素晴らしいものでしたが、

それだけで
維新の志士たちが
奮起したわけではないでしょう。


この、
終始一貫していた実践主義、
その実行力。

やると決めたことは必ずやる、
その行動力。


こうした生き様、
行動する姿勢、
日本を良くするために
動いていったその後姿。


それこそが
吉田松陰の魅力ではないでしょうか!

こうした生き様、志、
というものがあったからこそ、
後世に大きな影響を与えたことでしょう。


言っているだけでなく、
実際に自分で行動し、実践し、改革し、
そうした姿を見せることでも
後人を育成したのですね。



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