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文章嫌いな理系の辞書好き。

私は高校の頃、理系がとても好きだった。(と言っても、好きと得意とでは、その意味が違うワケであるけれど。)

まぁ、とりあえず、その中でも私は生物が大好きだった。光合成とか遺伝子とかの話になると、私の中で、まるで宇宙のビッグバンが広がるようなそんな好奇心の輝きを持ちつづけていた。

さらに言えば物理では、期末テストでクラスの平均点40点だったのが私は95点を取ったことがあるのだ!(と言っても、これは一度だけのまぐれに過ぎなかった。)とまぁこんなふうに、私は足の先から頭のてっぺんまで、理系の人間だった。

あの頃、私の一番苦手とするものは、いわゆる文系ものだった。はっきりとした答えのないものが私はどうも苦手で、特に文章問題がまったくダメだった。「そのときの主人公の気持を書きなさい」という問題でも、それを私が思ったままに答えを書いても、思いっきり先生に×印を付けられてしまう。

なんなんだこれは?読んだ人の感想に、正しいもバツもあるのか?といつも疑問に思っていた。そんなふうに思っていたものだから、国語を極端に嫌っていた。というかわけが分からなかった。

今でこそこんなふうに、私は文章を書いているわけだけど、もしもあの頃の私が、今の私を見たとしたら、きっと腹を抱えて笑うのだろう。「どうしたんだ?お前、熱でもあるのか?」見たいな感じで。

国語が苦手(というか嫌い)だった私は当然、授業もろくに聞いてなくて
漢字や文法はからっきしダメだった。主語、述語、修飾語、被修飾語、体言止め、擬人法・・・もう、わけがわかんない。こうして文章を書いていても、いまだに慣れることはなく、これで正しいのか?と、そんな不安が付きまとう。(でも、今は書くことが好きなので、私は好きなことを書いているだけ。)

昔、ネットでクレーム日記を書いていた頃、”元スマップの中居君”のことを書いたことがあった。当時、中居君が主演していたドラマが好きだったから、そのことを書いたと思う。ただ、実はそのとき、私は知らずにその名前の漢字を”仲居君”と間違って書いてしまったのだ。

それを見た中居君のファンの読者の方から、とても厳しいお叱りのメールを頂いたことがあった。(中にはやさしく指摘してくださった方もいらっしゃいました。)

それこそある意味、本当のクレーム日記になってしまいシャレにもならなかったわけだけど・・・。

ネット上での漢字のミスは、時として犯罪に近いものになってくる。私はそれを痛いほど知っている。”あぁ、すんません!明日、自首しますんで、もうそれで勘弁してくださいっ!”と言いたくなってしまうほど、私は恥ずかしい思いと罪の意識で一杯だった。

それ以来、私の机の横には辞書が2冊、常備されることとなった。一冊は英和・和英辞典と、もう1冊は三省堂の国語辞典だ。でも今思えば、それで”中居くん”という名前の正確な漢字が、分かるわけじゃないんだよなぁ。ま、それはともかくとして。

この辞書のおかげで、今では何かと助かっていることには間違いない。このエッセイを書く上で、辞書は私にとって、なくてはならないものになった。最近では、辞書を引く行為そのものが楽しくなってきているのだ。こうして思うと、私はあの時の中居君のファンに感謝しなければならないのだなぁと、そんなふうに思っている。

で、実はこの三省堂の国語辞典にも、書きたいエピソードがあるのだけど、とりとめもなくなりそうなので、またの機会に書きたいと思う。(これは、私が9才の時に父親が買ってきた古い辞書で、と言う具合でとても長くなりそうだから。)

今では辞書は、どんどんとその売れ行きが落ちてきているらしい。確かに、今ではネットですぐにわかるし、たまに私もネットで調べることもある。それは仕方がないのだろう。

でも、その昔、辞書ではじめて覚えた漢字に、悪戯書きのように丸印がしてあるところは辞書ならではの成せる技であり、当時の思い出が、まるでくっついていたかのように、すぐ、蘇ってしまうからとても不思議だ。

辞書は、私のような国語が苦手なものにとってのオアシスであり、そして、隠れた思い出の宝庫でもあるのだ。今は言葉を愛する私にとっては、辞書は小さな恋人かもしれない。

大切にしなくちゃなぁ・・・。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一