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泣き声とバレンタインと。

バレンタインには思い出がある。とは言っても私の場合、それは甘酸っぱい恋の話じゃない。あれはまだ、私が食品スーパーに転職したばかりの頃だ。

それまで働いていた電器店の経営が悪化し、会社が提示してくれた転職先はその食品スーパーだった。まったくの畑違いだ。興味もないし私に出来るわけないと思った。けれども仕事を選べるほど若くはなかった。それに今までひどいクレームや接客に人間不信にさえなっていた私にとって、それほど接客を必要としないスーパーはいいかもしれないと思った。

仕入や売場作りが主な仕事だ。それまでの接客で心をすり減らす仕事に比べれは楽だと思った。今思えば、それは安易な考えだった。どんな仕事にも、やりがいもあれば、現場でしかわからない厳しさもある。私はそんなことも気づかないままでいた。

そうして食品スーパーに勤めて、はじめてのバレンタインセールでのことだ。そのスーパーは大型店で催事場にてバレンタインフェアを開催していた。品ぞろえも豊富だ。売場には多くのお客で賑わっていた。人手は足りず商品補充が追い付かず、私は慣れない手つきで一生懸命、商品出しをしていた。台車に山ほど荷物を積んで売場に運んでいた。そのとき、積みすぎたせいで荷物が崩れてしまったのだ。ガタガタと大きな音が売場に鳴り響いた。

バレンタインのピーク時でもあったことで、近くにいた多くの若者たちが、その大きな物音に私をジロジロと見ていた。私は忙しさから”暇そうな顔して見るなよ、こっちは必死なんだ!”と心で毒づいていた。

くそう!と思いながら私が一生懸命に、散らばった荷物を台車に片付けていると、後ろのほうから小さな女の子の泣き声が聞こえていた。イライラしていた私は”どうせお菓子をねだって泣いているんだろう”くらいにしか思わなくて見向きもしなかった。そうしたとき、私はいきなり背中から、肩をわしづかみにされたのだ。

驚いて振り向くと、そこに若い男がいた。そして、私にこう言い放ったのだ。「お前はオレの娘のケガより、荷物のほうが大事なのか!」と。

いきなりの出来事に私は一瞬、何のことかわからなかった。だが、その泣いてる女の子を見て、思わず私は息が止まった。その女の子のほっぺたに小さな切り傷が出来ていた。それが痛くて泣いている様子だった。よく見ると血が少しにじんでいた。

女の子の足元にはプラスティックの破片がいくつか落ちていた。それで私は理解したのだった。私が崩して落した荷物の中のプラスティックの部品が割れてしまい、その破片が飛び散って、女の子のほっぺたに当たってしまったのだった。

女の子の顔に傷を付けるなんて…

あまりの出来事に私はなす術もなく立ち尽くした。その父親である若い男は、さらに私に声を荒げた。「お前、どう責任をとるんやー!」男は拳を振り上げ、私を殴ろうとした。私はそれで構わないと思った。それで気が済むならそのほうがいいと思った。だが、男はすんでのところで思いとどまった。家族の笑顔が思い浮かんだのだろう。そんなことで救われた気持ちになっていた私はすでにどうしようもなかった。

騒ぎを聞きつけたパートさんが、女の子に駆け寄って声を掛けてくれた。「痛かったね、痛かったね、すぐに治してあげるからね…」

パートさんは、父親にお詫びを言いつつも、すぐに店長を呼ぶように私に言った。それから女の子を店内にある薬局に連れてゆき、薬剤師さんが女の子を治療をしてくれた。

幸いにもたいした傷ではなかった。薬局の小さな部屋の中で、私は店長と一緒に、その若い父親に頭を下げてお詫びをした。父親も落ち着きを取り戻したみたいで、私たちを許してくれた。「私もつい、声を荒げてしまいました。すみません」とまで言ってくれた。私はそのとき、すでに涙目になっていたと思う。

今もこの時期になると、あの日のことを思い出す。

あの女の子は今はもう、中学生くらいになったのだろうか?今頃、好きな男の子のバレンタインチョコを選んでいるのかもしれない。あの日のことは、もうとっくに忘れているといいのだけど。

今も相変わらずバレンタインセールは忙しい。発注から仕入れまで、レジの人員計画に商品補充と目まぐるしく息つく暇もないほどに。思わず私はイライラが止まらなくなる。

そんなとき、私の心の中で聞こえてくるのだ。
背中からあの小さな女の子の泣き声が。
それはあの日を忘れてはいけないという、
私を戒める歌なのだ。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一