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シロと母の幸せな風景

私の中に、いつまでも心の中に残っている”幸せな風景”と言うものがある。その幸せな風景は、どういうわけか、最近になってよく私の心に浮かんでは消えてゆくことが多くなった。

どうしてだろう?その度にいつも私は不思議に思う。仕事の中でどうしようもなく不安な気持ちになったり、日々の生活の中で尽きない悩みの中、時間ばかりがいたずらに過ぎてゆく時、ふと、心の隙間にぽっかり空いた時間の中で、何の前触れもなく幸せな風景が、そっと私の心に浮かんでくるのだ。

それは、忙しすぎる仕事のちょっとした合間だったり、信号が青に変わるのをただ、ぼんやりと待っている時など。まるで眠りのない夢のように私の頭を混乱させる。

私の幸せな風景は、家族との旅行の思い出とか、誕生日を祝っているとか、そんな特別な風景じゃない。

それは、ある日の朝、私の母親が家の庭で草むしりをしている風景なのだ。たぶん、季節は春だと思う。それもとても暖かな朝と昼のちょうど真ん中くらいの穏やかな時間。どの家庭も洗濯も終わってほっと一息ついているような時間だ。

その風景を、朝遅く起きた中学生ぐらいの私が、ただぼんやりと眺めている。庭には芝生が生えていて、そこに生えた小さな草を母がむしっている。それは、あの頃の母のいつもの朝の日課だった。特に草をむしらないといけないということでもなく、ただ、日向ぼっこをするついでに母は草むしりをしているという感じだった。

庭にいろんな木が植えてあるせいか、様々な鳥が、まるで暖かな春を喜んでいるみたいに鳴いている。母の近くには、今ではもう死んでしまった飼いネコと犬が、暖かな日差しの中を気持ちよさそうに眠っている。ときどきあくびをしながら。

もう、随分と古い記憶の風景だ。なぜ今になって、あんな風景が思い出されるのだろう?しかも、私の心が疲れた時に決まって思い浮かんでしまう。その意味が私にはわからないのだ。

あの風景を私が眺めていた時に、私の心の中では、永遠に忘れないように、知らずに自分の心に焼き付けていたのかもしれない。たぶん、今という現実からのひとつの逃避だろう。不思議なのが、どうして自分の幸せな風景が、私の家族とのふれあいの風景じゃないのだろうかと言うことだ。

それをずっと考えていた。ひとつだけ思ったのが、今、私は家族というものを一生懸命に守ろうとしている。でも、どこか見えない不安を抱え込んでいる。はたして私に家族が守れるのだろうかと。

そんな時だ。あの風景が思い浮ぶのは。もしかしたら、私は母に、こんな自分を助けて欲しいという願望が、心の奥底にあるのかもしれない。

もう十分大人のくせに、心のどこかでそう思っているとしたら、それはなんて甘えた心なのだろうかと愕然とする。

私の母は、もう80をこえてしまった。時折会いに帰っても、母はもう私のことが、あまりわからなくなっている。遠く離れて暮らしている母の残り少ない人生を思うと、どこか心細くなる。母の代わりに私の心が決して忘れないようにと、あの風景が思い出させるとしたら、それはそれで哀しくも幸せなことに違いない。

今はただ、母が私を、さりげなく見守ってくれたことをとても幸せに思う。そして私は考える。今度は私が私の家族を守ってゆくんだと。そう思うと、私は母に助けて欲しいというよりきっと、母のやわらかな愛情を、私が自分の家族に引き継いでゆきたいんだと、今はそう信じている。

・・・・・・・・・
あの時、私は家の縁側で
ぼんやりとあの”幸せな風景”を眺めていた。

「あぁ、今、起きたのかい。今日はいい天気だよ。
シロ(犬の名前)がお前と散歩したがっているよ」

「ちぇ、せっかくの日曜日なのに!」

そんな私に、まだ若い母が笑っている。
そして、私も笑っている。

幸せな風景が、私の中で永遠になる。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一