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小言

我々の代が最高代となって開催する文化祭がそろそろ幕開ける。

その前に、関係者複数名を集めて理想の文化祭について語り合うのだが、人々の発言を聞いてちょっとした小言を言いたくなった。

と言いつつも立場的に声を大にして言う訳にも行かないので、この場を借りて少し書き記すことにする。


理想の文化祭とは何か。この問いにこんな答えが出て来た。

「外部の方が楽しめる文化祭にするのか、それとも内部の人が楽しめる文化祭にするのか」

「内部生は主に文化祭実行委員会所属生徒とそうでない生徒で分けられる、どちらに重きを置くのか」

強い違和感を覚えた。


理想像が低ければ、現実に対処することが簡単なのは事実だ。

ただ、その現実は妥協の産物に過ぎない。


理想像ばかりを語る奴は現実が見えてないだの、幼いだのと非難される。

ただ、理想像無くして現実に向き合うことほど危険なことは無い。

この1年を通して学んできたことだ。


理想像が高いから現実との距離に絶望し、その差を埋めるために必死になって考える。

その結果として生まれる現実は、遠く理想像には及ばない。

ただ、その現実に甘んじず、それを批評し、更に理想像に近づけていく。

この過程があって初めて現実は良くなる。

例えその現実が遠く理想に及ばずとも、その現実は妥協の産物によって出来た現実よりも何倍もマシだ。


この段階で我々が目指すべきものは誰かの文化祭ではない。

誰もの文化祭を目指す必要がある。

誰かが楽しい状態で、「誰か」はその楽しみを絶対に全力では味わえない。

所詮その楽しみは誰かの楽しみを犠牲にし、自らの楽しみを優先したことによって生じた楽しみに過ぎない。


理想は高く持たないと人はついてこない。

絶望してなんぼ。その上で考えられる人。そういう人に人は集うと思う。


今考えるべきことは「誰の」文化祭にするかではない。

どうしたら「誰もの」文化祭に出来るかだ。

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