見出し画像

3.11と向き合う

映画って誰かと観に行きたいよなぁと思いながら誰かを誘う訳でもなく時が過ぎ、気付いたらいつか観たいと思っていた「すずめの戸締り」を観ること無く2月に入ってしまった。

ただ、先日たまたま心優しき友人に誘われ「すずめの戸締り」を観に行った。

今回はその「すずめの戸締り」の中での東日本大震災の扱われ方について僕の見解を記述していく。


「すずめの戸締り」は、東日本大震災が作品を構成する要素として扱われているとして多くの非難が寄せられた。

事実、東日本大震災では多くの方が亡くなり、また多くの被災者や遺族が現在でも様々な感情を抱いている。

その為、一種のエンターテイメントである映画においてこういった事象を取り扱うにはそういった方々への配慮を最優先に考え、細心の注意を払うことが必要である。

もし「すずめの戸締り」における東日本大震災の描かれ方や扱われ方に対して批判が来たのであれば、それ即ち配慮が不十分な個所があったと言わざるを得ないだろう。
であるからこそ、その様な意見は真摯に向き合う必要があり、その様な意見に対して否定見解を述べることは僕個人としては不適切である様に感じる。


では、東日本大震災の様に多くの方が亡くなったり、多くの被災者や遺族が現在でも様々な感情を抱いている様な事象を一種のエンターテイメントとも言える映画で取り扱うのは不適切だろうか?

勿論先述した通り、描かれ方に対して批判が来た場合はその批判に対しては否定見解を述べることは不適切だと僕は思っている。
ただその上で、僕は必ずしも不適切ではないのではないかと思う。

と言うのも東日本大震災から12年が経過した現在において、東日本大震災は多くの人々の記憶から少しずつ消えて行っていると言わざるを得ないだろう。
これは時間がもたらす絶対的な物であり、致し方無いと言わざるを得ない。

しかし、だからと言って決して忘れて良いことではない。

15,859人もの尊い命が奪われ、125,000人以上もの人々に避難生活を強いた自然災害を忘れては決していけない。

このあまりにも大きすぎる代償によって知らされた事実や教訓を時間を言い訳とせず、我々は後世に対して伝え残して行く必要がある。

であるからこそ、ドキュメンタリーやニュース、伝承館や語り部と言った形ではない新しい形で伝え残す方法を開拓していくという行為は極めて重要かつ有意義なものと言えよう。

そういった中で非常に多くの層が見ることになる映画、ましては国民的映画監督と言える新海誠氏の手掛ける映画において東日本大震災を描写するという行為はまさにこれに該当すると僕は考える。

現に新海誠氏は発生から多くの時間が経過し、認識が薄れている現状に危機感を抱いたことを東日本大震災をテーマとして選んだ理由だとする旨のインタビュー記事が存在している。


様々な意見が飛び交う「すずめの戸締り」だが、僕個人しては細心の配慮を払うことを大前提とした上で、引き続き時間を言い訳とせず、決してその事実や教訓を忘れることの無い様に様々なアプローチが行われることを切に願っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?