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もやもや

言葉にしずらい感情を言葉にしようとしている都合上、どうしても読みずらい文章になっていることを予めご了承下さい。


今日、討論部の活動で中1の後輩が別の中1の後輩に対して放った一言が心に引っかかって離れない。

お前、障害者だよな

この一言が心から離れない。

それどころか、何故か悲しさを覚えた。

当本人は特別、悪意を込めて話しているわけではない。

飽くまでも会話の流れの中で出た一言でしかなかった。

それでも心に引っかかるし、悲しくてたまらない。


この一言を放った後輩は入部当初から僕がサポート、いわゆる指導に当たった少年だった。

別に僕が指導に当たったからと言って僕の考えに則って発言や思考をして欲しいという訳ではない。

ましては今回の場合、僕が当事者な訳でもないので彼に対してどうこう言えるわけでもない。

それは自分でも理解している。

ただ、それだけにより一層心に引っかかるし、悲しくてたまらない。


そもそも何故「障害者」と言う言葉が僕の心に引っかかるのか。

理由は主に2つある。


1つ目は僕の生い立ちによるものだ。

僕が小学1年生の時、クラスに下半身不随の少年が居た。

その少年は下半身不随であるがために、他人とは違うということで他人から「障害者」と呼ばれ、距離を置かれていた。

その少年と関わると距離を置かれるのはもちろん、その少年の事を「障害者」と呼ばないだけで距離を置かれてしまう。

その環境と自分とは何かが違う少年を恐れて、僕が小学3年生の転校する時までその少年を避け続けた。

これを機に僕の中で「障害者」と言う言葉が自分とは違う異質な存在を示す物であると認識をしたのかもしれない。

ただ、「障害者」という言葉が、「健常者」と「障害者」を区別するために用いられていることは事実だと思う。


僕の父が発達性障害を持った子供を診る精神科医であったこともあり、僕にとって障害を持った方は身近な存在だった。

父の障害を持った友人と食事会をすることも多々あった。

そういった様々な「障害者」と関わりを持つ中で「障害者」が決して異質な存在ではないことに気付かされた。

障害を持っているからと言って考え方や望んでいるものが大きく違う訳でもないことを知った。

「障害者」は別に「健常者」と大きな違いがある訳ではない。

一見「当たり前」なこの事実を僕は中々認識できずにいた。

言葉として、事実として、考え方としてそういう「当たり前」な認識を持つことは簡単だ。


障害を持った方が「障害者」という言葉によって相手と自分の距離を感じているという事実も知ることが出来た。

自分と相手とで大きな違いがある訳でもないにも関わらず、大なり小なり違いがある事を見せつけられてしまう。

そのことに強い悲しみや疎外感を感じてきたという「障害者」を多く居る事を知った。

勿論、その「障害者」という言葉に対する認識が人によって全く違うことも理解しているつもりだし、
中には自分が他人とは違うことを理解してもらうという観点から「障害者」と呼ばれることを拒絶していない人が居ることも理解している。

ただ、僕はその「障害者」と言う言葉が場合によっては差別的な意味を持ち、時には人に強く悲しみや疎外感を与えてしまう、慎重に扱わなければならない言葉であると認識している。

その様なある意味危険な言葉を、躊躇なく使ってしまうことには強い違和感を覚えてしまう。


2つ目の理由は相手を何らかの形で区別しようとしているように感じてしまうことだ。

「障害者」と言う言葉は少なからず「健常者」と区分するために用いられる。

であるがために、相手に対して「障害者」と言う言葉を用いることは、たとえ自身を「障害者」であると認めていたとしても何らかも事象から相手や自分たちを区分しているように感じる。

その様に言葉で人を区別したり自らを区別することで自分の存在を確立することに対して強い違和感を感じてしまうのだ。


上記の内容は飽くまで主観的な観測でしかないし、これだけが僕が「障害者」という言葉に対して違和感を感じる理由ではないように思う。

ただ心のどこかで感じている「障害者」と言う言葉を他人に使うことへのもやもやを伝えられればいいなと思う今日この頃である。

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