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主人公にしてくれなんて頼んだ覚えはない

「君は主人公だ」みたいなメッセージって、励まし言葉として秀逸だと思っていた。  






主人公とは、猛毒を浴びせられながら生を全うする生き物だと思っている。


小説を書く、なんて真似をしていたからだろうか。
私にとっての「主人公」は、そういう認識だ。



人を惹きつける物語には、いろんな形がある。
その作り方に基本や定石がいくらあろうと、それらに囚われない作品は数多に存在する。
それを踏まえた上で、主人公を苛め抜くのは脚本作りの定石と言えよう。

フィクションという舞台は、その中心である主人公の状態に波を求める。
典型的なハッピーエンドを想定しても、その道程に大きな困難や絶望のない作品は魅力に欠けやすい。
「現実よりも大きな喜びを。そして、現実よりも大きなどん底を」
フィクションの基本形はそれで成り立つし、ノンフィクションすらもそれに近づくよう脚色される。

よって、シナリオライターは必要に応じて主人公をきつく虐げられる残酷さを持ち合わせていることが望ましい、らしい。
初心者が主人公に自分を重ねない方がよいとされるのはこれが理由。
自分自身を意図的に虐げるのはとても難しい。
日頃の恨みつらみを晴らし、全編通して理想を書き連ねるような空想譚が産み落とされ、第三者視点でのおもしろみを欠いてしまうのが関の山だ。


高校時代、軽い気持ちで文芸部の門を叩いて創作を始めた私は、これを上手くこなせるかは別にして、知識としては心得ている。
決して、自分自身の要素を主人公のキャラ作りに反映してはならないと肝に銘じていた。
彼あるいは彼女は、私自身が直面したら世界の全てを赦せず自決してしまうほどの目に遭う存在かもしれない、と。


シナリオライターという絶対的権力。
その手によって主人公は、ぎりぎりのさらに一歩先の試練を付与される。

だったら私は主人公になんてなりたくない。
いつからか、そういう意識が私の深いところに根づいたみたいだ。



ポジティブか、ネガティブか?
もちろん時と場合によるが、私はそれなりにネガティブの強い人間だ。
主人公に与える役割の基本形をインプットしたとき、主人公が物語の最後に味わう幸福への憧れよりも、そこに至るまでの痛みへの恐怖を強く認識していたらしい。

あの憧れのため、あの喜びのため。
そのためだったら、どんなことでも堪えて頑張れる。
なんてことは言えなかった。
思いつきも、しなかった。

そういう性格なもんだから、自分に主人公という役割が与えられるのを嫌がるのだって、ある種自然なことだったんだろう。


脇役だっていいじゃないか。
そんな言葉がつい頭の中で零れてしまう。
脇役には脇役の苦悩もたくさんあるだろうに。
それでもやっぱり、主人公になってしまうくらいなら脇役として尽力したいな。


「自分、脇役がいいです」
「主人公の味方ポジションがいいです」
そう言ってそうなるものだったらよかった。
しかしながら結局のところ、悲しいほどに私たちは主人公らしい。


「自分は主人公じゃない」って、意識しないまでも無意識に唱えようとする自分がずっといた。
ところがどうにも世界が「限界の少し向こう側」の集まりで回っているように見えてしまった瞬間がある。
これこそまさに、「みんな主人公」の裏付けだった。
私の心が振り払えなかった、不都合な真実だった。

「限界の少し向こう側」は、私が定義した主人公そのもの。
それの集まりが社会だというのなら、そこら中が主人公だらけということを認めざるを得ない。
やっぱりそうなんだ、みんな主人公なんだ。

ならば当然私だって例外じゃなく、主人公なんだろう。
望んじゃいないのに。
自分が主人公だと意識した途端、また到底許すことのできない仕打ちを許容して生きていかなくてはならないのかと絶望してしまう。
私の辞書における「主人公」は、本人にとって許容できる限界を超えた苦痛を味わうという数奇な運命を背負った生命体を指すのだから。



つまり。
……つまり?

かつては良い考え方だなあ、って思っていた「君の人生の主人公は君だ」という励まし言葉。
私の辞書が改訂されてからは、それが「全部君の自由だ」「必ず報われるよ」というよりも「もっと試練を乗り越えろ」という意味に聞こえちゃうようになった。

やっぱり「自分は誰かの人生の脇役だ」って暗示しておこうか?
自分の身に起こる最大の喜びじゃなくたって、誰かの喜びの側にいたい。
大切な人の幸福の、その範囲内にいたいのだ。


スポットライトってさ、猛毒なんだよ。




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