見出し画像

古書堂の殺人 (3)


 乾燥した冷たい空気が流れこんできて、首筋を撫で、無防備な襟首(えりくび)から服の中へと入ってくる。遠くから子供の声。かわらず目をさす強烈な可視光。串間は、見えない手で勢いよく背中を押されたようにして路上へと躍りでる。
 通りの左——五十メートルほど離れた四つ角で、スーツ姿の男が手をあげていた。左内だった。左内ともうひとり——体躯のいい私服警官がダッフルコートを着た俯き加減の小柄な男を間に挟んでおり、挟まれた男はサバイバルナイフ所持で拘束された瀧川ソウヘイだと推測できた。瀧川は一連の殺人事件の犯人が宮地町の広報誌に載った人物を標的にしていることに気がつき、復讐目的で犯人と対峙すべく、今月の表紙を飾った串間との接触を図っていたのだろうと想像に難くない。
 明るさに慣れはじめた両目のまぶたをもちあげて、串間は車道のセンターまで移動した。
 移動した直後に、背を向けていた通りの右側から足音が聞えてくる。
 振り返り、音を発する者の姿を捉えようと右手をかざして目を細めると、柴犬と思しき白い子犬を連れて、青色のリュックを背負った白髪混じりの老人がゆっくりした歩調で近づいてきていた。左手に薄い冊子が握られ、リードをもった右手には電動ドライバーのような工具が一緒に握られている。老人は軽く頭をさげると、手にした冊子を顔の位置までもちあげた。
「古本屋の店長さんですね? いや、本当は警察官だそうじゃありませんか」
 もちあげられた冊子は、今月配布されたばかりの、宮地町の広報誌だった。
 老人は変わらぬ歩調で串間との距離を詰めてくる。あらぬ方向へ注意を向けていた子犬のリードがぴんと張り、慌てた様子で方向転換した子犬は老人の元へと駆け寄った。
「待て。とまれ。そこでとまれ!」
「先ほど公園でお会いした、背の高い男性から話をうかがいましたよ。わたしを捕まえるために、店主に化けて、待ち伏せしていたらしいですね」
「とまれといってるだろ!」
「どうしてわたしの娯楽を奪おうとするのです? 暗号解きに似た、探しものの遊戯をしているだけじゃありませんか」
 再びぴんと張ったリードと一緒に握られている工具は、見紛うことなき屠殺銃だった。さらに縮まる両者の距離。通りの左から近づいてくる左内や瀧川との距離も狭まってきている。店内に潜んでいた二名の警察官は未だ店の奥にとどまっていて、ようやく靴を履きはじめたところだった。
「くそッ、おい、とまれ! とまれといってんだろうが!」
 やっと足をとめた老人が肩を下げて、不愉快そうに顔を顰めるも、温厚でひとのよさそうな顔立ちが串間の頭を混乱させて冷静な判断を失わせる。老人は広報誌を折り畳んで上着のポケットの中に押しこむと、屠殺銃を右手にもち替えて満面に笑みを浮かべた。
「ガスは充填していますよ」
「黙れ! 動くな。その姿勢のまま動くんじゃねえぞ」
「怒鳴らないでください。老い先が短い年寄りじゃありませんか」
「黙れといってるだろ!」
「あなたは五番目の矢所のはずだったのですが、身元を偽っていたとなると判断に迷いますね。このまま撃って、印をつけていいものかどうか。どうしましょう。どう思います? わたしは当初の予定どおり、このまま続けるべきだと思いますか?」
 屠殺銃がわずかにもちあがる。
 串間は身体を強張らせて半歩身を退き、愚かにも自身が丸腰で対峙してしまっていることを悔やんだ。
「百瀬を、撃ったのか」
「誰です?」
「公園で話していた男だ!」
「あああ。はい。あの男性ですね。あのひと、面白いことを話していましたよ。わたしと会うのは二度目だと。継受した能力を用いて、犯罪者の罪を暴いて回っているのだと。実に興味深い話でしたので、わたしも試してみようと思うのですが、どうすればいいんでしょうね。どのようにすればあの男性がいっていたような能力が——」


「待て。とまれ。そこでとまれ!」
「……? おや」
「とまれといってるだろ!」
 それまで変わらぬ歩調で歩み続けていた老人が驚いた表情をみせて足をとめる。
 安堵した串間は視線をさげて、老人がリードと一緒に握っている工具へ目を向けた。それがどういった工具であるか、事前に知識を得ていた串間は即座に判断がつく。屠殺銃だ。屠殺銃に注意を向けたまま、素早く首を動かして通りの逆側の様子を窺う。左方から近づいている左内や瀧川との距離はかなり狭まっている。店内に潜んでいた二名の警察官は未だ店の奥にとどまっていて、ようやく靴を履きはじめたところだった。
「なるほど。胸中で強く願えば叶うようですね」
「あ? なに、なんだと?」
「問題なく継受できたようです」


 背を向けていた通りの右側から足音が聞えてくる。串間は振り返り、音を発する者の姿を捉えようと、右手をかざして目を細めた。
「……!」
 柴犬と思しき白い子犬を連れ、青色のリュックを背負った白髪混じりの老人がゆっくりした歩調で近づいてきていた。左手に薄い冊子が握られ、リードをもった右手には電動ドライバーのような工具が一緒に握られている。老人は冊子を折り畳んで上着のポケットの中に押しこむと、工具を右手にもち替えた。それがどういった工具であるのか、事前に情報を得ていた串間にはわかる——屠殺銃だ。あの老人が一連の事件の犯人であると理解し、瞬時に身構えて威嚇する。
「とまれ! とまるんだ!」
「参りましたね。〝この場面〟が〝限界〟のようです」
「とまって、銃を捨てろッ!」
「そんなに大きな声をださなくても、聞えていますよ、刑事さん。あああ、そうか。いまが初対面なんですね。そういえばまだ自己紹介をしていなかったので、しておきましょう。篠原です。わたしは、篠原(しのはら)タダオといいます」
「とまれといってるだろ!」
 串間の訴えに聞く耳をもたず、篠原と名乗った老人は変わらぬ歩調で距離を詰める。あらぬ方向へ注意を向けていた子犬のリードがぴんと張り、慌てた様子で老人の元へと駆け寄った。
「先ほど公園でお会いした男性から、無事に能力を継受できたようです。しかし継受する前の時間へ戻ることは、叶わないみたいですねえ」
「あ?」
 ようやく老人は足をとめる。
 握られた屠殺銃は地面を向いていたので、串間は素早く周囲の様子を窺った。通りの左から近づいてきている左内や瀧川との距離がかなり狭まってきている。店内に潜んでいた二名の警察官は未だ店の奥にとどまっていて、後方にいる紺色のスーツを着た警察官のほうは靴を履き終えてすらいなかった。
「継受……時間? さっきからなにをいってるんだ?」
「公園でお会いした男性から継受した能力のことです。刑事さんも知っていたのではありませんか? 時間を遡って過去に戻れる能力です。ただし、継受後の時間までしか戻ることはできないみたいですね」
 老人は薄い笑みを浮かべ、ぴんと張ったリードを引き寄せながら身体を揺らした。
 屠殺銃も揺れる。ただし銃口は下を向いたまま、もちあげられる気配はない。
「百瀬……か? 百瀬のことをいってるのか」
「そうそう、百瀬さん。そう名乗っていましたよ。百瀬さん。百瀬さんの能力を、わたしが継受しました」
「お、おいッ! そいつか? そのジジイなのかッ?」
 背後から大声で呼びかけられて、串間は素早く振り返った。瀧川を連れた左内が、すぐ近くまで移動してきていた。
「串間警部補?」
 不安げな声で串間の名を呼んだ左内の視線が、屠殺銃をまっすぐ捉えているとわかる。
「ちきくしょうッ、てめえだなジジイ! てめえがカイトを殺したんだな!」
 瀧川が叫ぶ。右横にいた体躯のいい警察官が片腕を掴んで瀧川を引きとどめる。
「なんだ? なにを騒いでるんだ?」
 靴を履き終えて、店外へでてきた二名の警察官が、落ち着きなく視線を彷徨わせながらだれにともなく問う。
「殺す! 殺してやるぞ、ちきしょうッ!」
 激しく暴れはじめた瀧川を鎮めるべく、警察官らはみな、瀧川のほうへ。
「なるほど。あの男の子のお父さんでしたか」ぼそり、と。まるで他人事(ひとごと)のように老人はいい、温厚にみえる顔にさらなる笑みを貼りつけて串間を見た。「わたしがいうのもなんですが、あのかたのケアをどうぞよろしくお願いします。ああいった態度をみせられると、わたしも心が痛みましてね。しかし、悲しみは時間しか解決してくれないものですよ。あああ、そうだ。時間だ。時間の話をしていたのでしたね。わたしは時間を遡り、過去に戻る能力を身につけたのです。あの男性——百瀬さんでしたっけ。百瀬さんの命を奪ったことによって、能力がわたしへ継受されたのですよ。おや? あまり驚いた顔をしていませんし、疑っている様子もなさそうですね。やはり刑事さんはご存知だったのではありませんか? 時間を遡れる能力のことを。そうなのでしょう? でしたら話は早い。説明するまでもなかったですね」
「お、おい、ジジイ! なにいってんだ、てめえなにいってんだ!」
 再び瀧川が怒声をあげる。まわりを囲む左内らが覆いかぶさるようにして、瀧川を地面に伏せさせる。
「あああ。ひどい。あまりにもひどすぎますよ。ひどいじゃありませんか。刑事さんたち、放してあげてください。取り押さえなければならない相手はわたしですよ。わたしじゃありませんか」
 そういって老人は屠殺銃を高らかに掲げる。その行動を目にした左内が即座に反応し、瀧川から離れて威嚇の姿勢をとった。
 ほかの警察官も左内の行動を真似るように素早く動く。
「篠原さん、だったか?」串間は静かな声で問うた。
 胸の内では出鱈目に暴れまわっている焦りの感情を必死に抑え、冷静を装って、老人へと向けて。
「はい。篠原です」
「偉そうに喋るんじゃねぇよ。あんたは一体、何様のつもりだ?」
「何様もなにも、わたしはわたしですよ。数分前のわたしとは大きく異なっていますけれどもね。時間を遡れるのです。過去に戻ることができるのです。いま、こうして、刑事さんとお話ししている時間も、なかったことにできるのです。残念でしたね。残念にお思いでしょうけれども、わたしを捕らえることは絶対に叶いませんよ? この能力がわたしに備わっている限り、なんびとたりとも、わたしを捕らえることは不可能です」
「百瀬を殺したことで、あんたに移ったっていったな。過去に戻ることのできる能力が、百瀬を殺したことで移ったといったよな?」
「えぇ。そうですよ。何度もそういっているではありませんか」
「串間警部補ッ! さっきからなにをいってる? なんの話をしてるんだ!」
 声を荒げた紺色のスーツ姿の警察官は、拳銃を握りしめていた。銃口は下に向けられているものの、身体はまっすぐ老人へと向いている。
「おおお、怖い。怖いじゃありませんか。どうやらそろそろ話を切りあげて、退散したほうがよさそうだ」と老人。
「待て! 動くな。動くんじゃない。まだ大事な話が残ってる」串間は、摺り足で間を詰めはじめた警察官たちを手で制すると、背筋を伸ばして、老人との距離をわずかに縮めた。「あんたがひとりでやったのか? 消防士だった、福津タケシを。畜産業を営んでいた、天海トシノリを。まだ小学五年生だった、瀧川カイトくんも、あんたがひとりで手にかけたのか?」
「犬のことをお忘れですよ。それに、百瀬さん、でしたっけ。彼のことも——」
「串間警部補!」ここで、顔と耳たぶを真っ赤にした左内が大声で呼びかけ、
「あぁあッ、くそ! 放せッ!」瀧川が激しく抵抗して、身体を捻ったと思いきや、
「ちくしょう、なにやってんだ!」串間と瀧川を交互に見遣った、紺色のスーツを着た警察官が唾を飛ばしつつ銃口をもちあげた。
「待て! まだ話が——」
 串間が再び制しようとするものの、
「確保しろッ!」
 荒々しくだれかが叫び、
「銃だ! 屠殺銃をッ!」
 いち早く飛びだした左内が老人に体当たりを食らわせ、その手から屠殺銃がはなれて、同時に子犬を繋いでいたリードもはなされ、倒れこんだ老人はといえば、わははははと、なぜか声にだして笑いはじめる。
「押さえろ! しっかり腕を押さえろッ!」
「なに笑ってんだ、こいつ!」
「左内、手錠だ、手錠をかけろ!」
 怒声が飛び交い、何人もの男たちが路上に仰向けた無抵抗の老人を取り押さえる中で、ひとり、地面に転がった屠殺銃へ手を伸ばしている者がいることに気がつき、串間は慌ててその者へと駆け寄った。
 ときすでに遅く、銃に手が届く。グリップが握られる。
 笑い声はまだ続いている。
「待て、やめろ! やめ——」
 騒ぎの中で、警官たちの拘束から逃れることに成功していた瀧川が、取り押さえられている老人へと躙にじり寄る。その手に握りしめられた屠殺銃の銃口が老人の顔面を捉える。
「やめろおおッ!」
 串間の叫びも虚しく、引き金は絞られ、老人の右目から血の飛沫が舞う。
 直後に笑い声はやみ、代わりに瀧川の口から歓喜の声がもれだした。
「なにやってんだッ!」紺色のスーツを着た警察官が這うように駆け寄って、瀧川の手から屠殺銃を奪い取る。
 凶行をふせぐに至らなかった串間は肩を落とし、重い足取りで瀧川に歩み寄ると、不自然に口角をもちあげている瀧川の腕に手を添えた。
「カイト……カイトの仇をうってやりましたよ」瀧川はいう。身体を震わせ、ところどころ声を裏返しながら。「そ、それに、こいつが、こいつがいっていた話が本当なら、わたしは過去に戻れるんですよね? こいつを撃ち殺す前の時間にも、それに、それにカイトが、カイトがまだ生きていたころにも。はは。ははははは。やった。やってやりましたよ。殺してやりましたよ。それに奪ってやりましたよ!」
「瀧川さん——」腕に添えていた手に力が入る。
「奪った。奪ったんだ。奪ったんですよ、時間を移動する能力を」
「瀧川さん!」
「カイトに会える。カイトに会えるんです」
 冷静な判断を失ってしまっている瀧川を鎮めるべく、串間は真正面に立って目の高さをあわせて、揺れて乱れつつある自身の感情を内へと抑えこむ。
「いいですか、瀧川さん、落ち着いて、落ち着いて聞いてください」
「会えるんですよ、カイトに。はは。ははは。どうすれば、どうすればいいんだ?」
「瀧川さん」
「どうすれば戻れるんです? こいつはなんていってましたっけ」
「瀧川さん、どうか落ち着いて」
「カイト。カイトに会いに」
「違うんです」
「どうやればカイトに——」
「違うんですよ、瀧川さんッ」
「戻る。戻れるんでしょう? もう一度カイトに会えるんでしょう? どうするんだろう、どうすれば、カイトに——」
「聞け。ちゃんと聞いてくれ!」忙しなく泳ぐ瞳を固定させるべく、串間は両肩を強く握りしめて声を荒げた。「違うんだ、瀧川さん——」両者の視線が正面からぶつかりあった。このチャンスを逃すまいと、串間は感情を露わにして早口で言葉を継ぐ。「——違う、そうじゃないんだ。あなたはカイトくんが生きていた時間には——」


「——違う、そうじゃないんだ。あなたはカイトくんが生きて」


「——違う、そうじゃないんだ」


「——違う、そうじゃないんだ」


 強く願い続ける瀧川の眼前で、両肩を掴んでいる警察官は同じ言葉を繰り返す。
 疎(うと)ましく思いつつも、願い続けて、瀧川はひたすらに〝とき〟を遡(さかのぼ)り続ける。


「——違う、そうじゃないんだ」


「——違う、そうじゃないんだ」


「——違う」



〈つづく〉

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?