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トイレットペーパーを回すたびに思い出す親の温かさ

「トイレットペーパー切らしてないかい?送ってやろうか?」

今年の3月。ドラッグストアの店頭でトイレットペーパーが品切れになっていたころ、両親から連絡があった。両親の住む地方では、都心よりも早くトイレットペーパーが確保できたようだ。

そのときにはもう我が家のトイレットペーパーは残り1ロールになっていたので、両親の申し出をありがたく受け入れた。

ささいなことだが、こういうときに気兼ねなく頼れる親がいてよかったと思う。

画像は、母とのLINEでのやりとりである。

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しょうもない言葉の応酬が、我ながら微笑ましい。

しかし、いざ荷物が届くとちくりと胸が痛んだ。着払いで送ってくれと頼んだのに、その段ボール箱は当たり前のように発払いで送られていた。

少しと言う割に思っていたよりずっとたくさん詰め込まれていたトイレットペーパーと、ついでに気を利かせて入れてくれたマスクを見て、私の心はじんわり温まる一方で、申し訳なさでいっぱいになる。

1~2週間前にも、両親から同じような連絡がきていた。そのときは「この状況は一時的なものだろうし、たかがトイレットペーパーひとつで手間をかけさせるのも悪いから」と申し出を断ったのだ。

本当にかけさせたくなかったのは、手間でなくお金だった。

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私の実家は借家で、両親は70歳を過ぎた高齢者だ。

厚生労働省の資料によれば、高齢者の84%が持ち家に住んでいるらしい。2006年の資料なので、現在もこの比率が維持されている保証はないが、控えめに見積もっても借家に住む高齢者が少数派なことに変わりはないだろう。

だから、というのはずいぶん短絡的だが、しかし私が親にお金を使わせたくないと思う理由の一端に、間違いなく借家住まいは関係している。

70歳になって借家に住んでいるからといって、貧乏だと言い切るのは乱暴だ。一生賃貸派の人だって少なからずいる。しかし、先ほどの資料を見ても分かる通り、人生のどこかのタイミングで家を持つことは一般的と言って差し支えない。

だから、いい年になっても借家住まいを続ける人に対して、心のどこかで「家を買うお金がないのだろうか?」と思う人がいたとしても、それを否定することはできない。

かくいう私自身がそうだった。

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元々物をねだる方ではなかったとはいえ、頼めば何でも買ってもらえたし、お金が理由で何かを諦めた覚えもないから、少なくとも子どものころから「我が家は貧乏だ」なんて思っていたわけではない。

小学生や中学生のころには、借家に住む友達とも持ち家に住む友達ともよく遊んでいたけれど、彼らに対して何か線引きした覚えは一度もないし、どこか羨むような気持ちで見たことだって一度もなかった。

むしろ、テストでいい点を取ったご褒美にゲームを買ってもらうんだと話す友達に対して、テストでいい点を取らなきゃゲームも買ってもらえないのか、と少しかわいそうに思ってすらいた。

ただ、よく遊んでいた借家に住む友達が、軒並み家を買って引っ越していくなか、なぜ我が家は借家住まいを続けるのだろうか、とずっと気になってもいた。

その問いに対して自分なりの答えが出たのは、高専を中退してフリーターをやっていた22~23歳のころだ。

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居酒屋で働いていたとき、常連さんに勧められて保険営業のバイトを始めた。

バイトとはいえ、営業をするからにはきちんとした知識を身につけたかったので、新人営業向けの勉強会に熱心に参加した。すると、それまでの人生で全く興味を持たなかった、投資や貯蓄による資産形成、ライフステージごとの出費、といったお金にまつわる話にすこし詳しくなった。

その中で、子ども1人あたりにかかる子育て費用の話があった。確か、学資保険や年金保険を売り込むにあたって、「将来的にこれだけ費用がかかるので備えておいた方がいいですよ」と、子どもを持つお客さんの不安を煽るための材料だったと思う。

講師が言うには、子ども1人育てるのに2,000万~3,000万円ほどの費用がかかるらしい。営業だから大げさに言っているのかとも思ったが、いろいろな資料や本に目を通してみても、似たような金額が書いてあった。

なるほど、と腑に落ちた。

私は大学へ行っていないのでその分を差し引くとしても、20歳そこそこまで育てるのにかかった費用はどう見積もっても1,000万円は下らないだろう。

田舎の中古の一軒家なら土地代込みでも1,000万円あれば十分に手が届くし、新築でも頭金にはなったはずだ。

つまり、両親に持ち家を買うだけのお金がないのは、私がいるからに違いない。

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両親は、私が生後間もないころ、生みの親から私を養子として引き取った。養子という生い立ちに関しては、すでにいくつかnoteにもまとめているので今回は割愛する。

ともかく大事なことは、子どもを育てるのにはお金がべらぼうにかかるということと、両親に私を育てる責任は本来なかったということだ。

両親が、産んでもいない子どもを育てたおかげで家を買えなかったのだとしたら。

もちろん、両親がそんなことを考える人たちでないのは育てられた私が誰よりもよく知っている。しかし、ひとたびそう思い始めるともう駄目だった。

あのころ、テストでいい点を取らなきゃゲームも買ってもらえなかった友達に向けた眼差しを、両親に、そして自分自身に向けずにいられない。家を買うお金すらないのかと、かわいそうに思ってしまう。

いつだったか耐えかねて、「私を引き取ったから家が買えなかったのではないか」といった主旨の話を両親にしたことがある。そのときには、「もともとどこか一つ所に住む気がないんだよ」なんて話していた。

でも、そう言いながら、彼らは同じところにもう30年間住み続けている。

―――

両親にどれほどの蓄えがあるのか、聞いたことはない。

だから、これはただのおせっかいなのかもしれない。家を買える程度のお金を持ちながら、理由があって借家住まいを続けているのかもしれない。

でも、もしもお金が理由で何かを諦めているのだとしたら、両親がそうしてくれたように、当たり前にお金を出せるくらいの蓄えを持っておきたいなと、トイレットペーパーをからから回すたびに思う。

編集:香山由奈

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