愛の夢とか、革命とか。
療養5日目。
私は、現実のあれやこれやを考えるのを、今日も放棄しています。
次男はひとり2階の部屋でごはんを食べているので、私はその部屋のそと、洗濯ものを干す2畳ほどの四角いスペースでなんとなく横に並ぶようにして、いっしょに食べています。
なんだか、いつもと違う場所で生活するのも、これはこれでいい感じ。
今日はアイロン台をテーブル代わりに床にぺたっと座って、青い空が見えて気持ちのよい朝でした。
そのまま、昨日選んでおいた本、川上未映子さんの『愛の夢とか』を読み始める。
私はあまり音楽に詳しくないし、これと言ってこだわって聴くものもない。
村上春樹さんの小説やエッセイを読みながら、いつも途方に暮れています。
本と同様、音楽は無限すぎて、どこから手をつけてよいか私にはわからない。
でも、ねじまき鳥を読みながら、ロッシーニの「泥棒かささぎ」を聴いてみたりもする。
何かきっかけを与えてくれるものを、ちょこっとつかまえて聴いてみよう、というのが最近思っていること。
今朝は、すてきなjazzの一曲に出会えたので、それを聴きながら短編集の二話目、まさに「愛の夢とか」を読み始めました。
偶然というか、気付かない私が教養がないだけか、リストのピアノ曲「愛の夢」からきていたタイトルでした。
川上未映子さんは、先日『夏物語』を読んで、ぜひ他も読みたい、となったのだけれど、一文一文読み進めて、やっぱり好きだと思えてうれしい。
読書のしあわせは、物語がおもしろい、というのもひとつだけど、文体や選ばれる言葉がひとつひとつ噛みしめるように好きだなぁ、と思えてはじめて、この作家さんが好きだ、となる気がする。
それがないと、この作品が好きだ、で終わってしまう。
音楽で言うと、この人の出す音が好き、声が好き、ということになるのかな。
短いその話を読み終わったあと、リストの「愛の夢」を聴いてみた。あ、この曲だったのか。
ピアノが弾けるっていいなぁ。
そう思ったあといつも、子どもの頃、自分がピアノを習っていたことを思い出す。
忘れそうになるくらい、今では楽譜すらまともによめない。
まったくひどいものです。
それでも、4歳のときに始めて、高校生になるまで一応やっていた。
あまり好きだと思うことも、夢中になることもなかったけれど。
なぜか、年に一度来る調律師のおじさんに気に入られていたけど、自分が上手くないことも知っていたし、中学生になってからは部活が忙しく、いつも家にレッスンに来てくれる先生を待たせて、しかも練習をほとんどしていない、というひどい生徒だった。
それでも思い返すと、中学生のときの2回の発表会で弾いた、ショパンの「幻想即興曲」と「革命」はとても気持ちよく弾いていて、好きだった記憶がある。
そう思い出して久しぶりに聴いてみたら、自然に指が宙を弾いた。
なんだか泣きたくなりました。
もっとせっかくなら真面目に弾いていたら、と大人になって後悔もあるのだけれど、でも、つまりは私にとってはそういうことなんだと思う。
でもこうやって、思い出して少しうれしく切なくなるということは、それだけで無駄なことでもなかったのかもしれないな。
今日は音楽をたくさん聴いて、さらに現実から遠いところに来てしまいました。
危ない危ない。
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