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ファッションの持つ両義性「ファッションにおける身体とは彫塑の対象」

自宅待機を余儀なくされてから一月と半月が立つ。食料調達以外に外出はしていない、二週間に一回近所のcarrefourに行くくらいだ。毎日20時から始まる医療関係者に対して賞賛の拍手に参加をする、唯一誰かと時を共有したと思える時間だ。言語学の二項対立、例えば昼と夜、富と貧、他人があっての自分なのだ。どうも他人を意識する(見る、見られる)ことがないと社会的道徳観が薄れていくらしい。

ファッションとは最も表面に現れる社会との距離感の可視化である(ヤンキーによる制服の着こなしが最も分かりやすい例かもしれない)。そのような考えを持っている筆者なので共同体から断絶されている今自分がどのような人間であるかファッションというツールを使用する必要はなく徐々に原始的装いに退化しつつある。リモートワークにズボンは必要ないと締まりのない生活を送っている。


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余談はこれぐらいにして前回取り上げた服を着ることの両義性の続きを書いていこうと思う。

服とは社会的に隠さなければ部分を隠蔽しながら強調し本当は隠すことは何もないという真実から注意をそらすという役割を担っているのだ。この宙吊りの状態に常にしておかなければならないということがファッションにおいて重要なことなのだ。隠蔽(拘束)と強調についてまで前回の記事で取り上げた。このような手法を用いてファッションとは肉体という私たち人間の持つ自然との関係を媒介しながらその自然を根底から変更させるのである。それでは今回の主題につい書きおろすに際し身体認識についてまずは紹介していく。

肉体という私たちの自然

私たちの肉体とは絶えず動揺し、絶えずその容姿を変容させる不安定なもの。自分自身の皮膚を見ようとした時部分的にしか認知することができない。それゆえ、自身の身体全体を対象的物体として経験できるのは例外であり、身体と身体でないもの境界線を意識した時に私たちは非常に曖昧な感覚を持つ。身体とはわたしという見えないものに浸透されて初めてわたしの身体として可視化する。この見えないわたしは、衣服や身体それらの変化、変異のような、可感的(感覚主体が自ら諸事物の諸形相をそれらの質料なしに受け入れる能力)な物質の布置の中で意味として紡ぎ出される。つまり、衣服=身体は意味の源泉でありながら意味を吹き込まれるもの、つまり意味の生成プロセスそのものなのだ。

そしてこの機能を利用して自己へと回帰しながら、自己から外れ、異貌の他者へと変身を遂げる。小難しい言い回しになったが、この両義的なプロセス、自らを設定することが自らを瓦解させることにつながるような運動を絶えず繰り返すのだ。

わたしを設定する時イニシアティブを持つのはモデルである。私たちは見えないモードという規範に従い不在の理想的プロポーション「モデル」をめがけて身体の諸部分を象り、変形し、再編成してゆくような造形的意思を持ち、衣服を用いて身体の変形を要求する。

今回も両義性の記事について書いた、うまく伝わればいいが、長文を書くのに中々の時間と労力を必要とするのと、まだ出来たてほやほやの自論のため精度が低いような気もしている。どうか暖かい気持ちで読んでほしい。少しずつ分量も増やしていこうと思っているのでできるだけ多くの人にこの記事が読まれることを望む。 



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