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服を着ることの両義的意味

現在フランス全土において厳しい外出禁止令が出されており自宅待機を余儀なくされている、職業的にアナログのため自宅でやれることが少なく熟考する時間が増えているためnote使用して色々な意味で溜まったものを消化していこうと考えている。

たまたま日本から持ってきていた構造主義、ポスト構造主義の著書を読んだので少し無理やりかもしれないがこの文献を参考にモードにおいての制度、関係性について以後まとめていく。一記事にまとめ上げるのは流石に骨が折れるので徐々に記載していきたい。

今回記載するのは服を纏う行為が生む両義性についてだ、さっそくにして構造主義とは無関係に思えるかもしれない記事だがファッションに関わる人に自明でありながら、特に消費する側はあまり意識されない知見であると考えているのでこれに関して再度取り上げることは非常に重要なことだと筆者は考えている。

人が着る行為をすることによってどのような両義性を生むのか?

まず人はなぜ服を着るのか?機能性、身体を保護するためか確かにそれも一理あるだろう。しかしなぜこれほど服とは人の身体を拘束するのだろうか。例を挙げてみよう、例えばヒールだ。なぜわざわざ歩行し難いフォルムを好んで選び、ましてや靴擦れなど履き続けたなら指の形まで変えてしまう恐れもある。地面から足を保護すると同時に自分自身の体を傷つけているのだ。衣服を纏う、身体を守り、保護するはずのものが、同時に、身体を傷つけ歪めるような機能を果たしているのだ。

そして次にいつに起源があるのかわからない道徳、人間の身体には公共の場で見せてはならないとされる局部がある。人間はこの部分を隠蔽(拘束という言葉にも置き換えられる)しなければならない、しかしなぜだろうかこの肉感性の排除が逆に人を肉感性の創造へと駆り立てはいないだろうか。サスペンスや袋とじ真実を知る一歩手前が人間にとって最も興味がそそられ一番楽しい状態なのである、真実を知ってしまったら大したことのないつまらないものなのである。本当は隠すことは何もないということを服は隠蔽する、制度や道徳的に隠さなければ部分を隠蔽しながら強調し本当は隠すことは何もないという真実から注意をそらすという役割を服は担っているのだ。この宙吊りの状態に常にしておかなければならないということがファッションにおいて重要なことなのだ。

話が逸れてしまったが、つまり着ると言う一つの行為に隠蔽しながら強調すると言う二元性が生まれているのだ。これを活用して発展してきたのが西洋のファッション史ではないだろうか。

今回は初回ということで余り長く書くことをせず深掘りもしない、そしてこの文献もソシュール風に一言で言うと私たちは他人の言葉を語っていると言うことで今回鷲田清一さんのモードの迷宮を読んで構造主義の知見を引用していて非常に面白い一冊だったので自分なりに噛み砕きながら引用させてもらった。皆さんも是非一度読んでみてほしい。次回この内容の続きを書く、興味があれば是非また目を通してほしい。





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