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【100回】読書日記(190325)〜「命の選別」の怖さ

長女のスマホデビュー。LINEが届く。「ありがとう」お礼の言葉。
なんだろう。涙腺が緩んでしまった。

スマホ使う目的をしっかりと設定し、スマホを僕が長女に貸し与えるというシステム。
ネットの怖さを学校でも学んでいる。しかし、まずは、ネットが人生を楽にさせる、潤す、便利であるということを感じてほしい。

小木曽健「11歳からの正しく怖がるインターネット」という本がある。書店で立ち読みして気になったけれども、購入しなかった。しっかりと買って読んで、長女と対話したいな。


○雨宮処凛「自己責任社会の歩き方」(七つ森書館、2017年4月)

これでもか、これでもかと僕の心の中に「そうだそうだ」という杭を打ち込んでいく。
弱い者が排除される社会のおかしさ。
自己中心な僕は、自分が弱い者になったとき(いやすで、精神疾患で仕事を休んだところで、社会的には弱者の位置にいるのだが)、排除されるのがこわい。
自分が嫌なことを他人にしたくない。
他の人を排除するような言葉をぶつけたり、行動をするのは違う。
以上が自分中心から発する考え方である。

障害者、お年寄りには優しくしましょうという一方で、社会保障費の増大は、常に「お荷物感」満載で語られる。長時間労働や過酷な労働環境は是正しましょうという一方で、企業社会は「どんなに長時間労働をしても倒れない強靭な肉体と、どんなにパワハラを受けても病まない強靭な精神を持った即戦力」しか求めていないという身も蓋もない現実を誰もが知っている。生存は無条件に肯定されるべきなのに、「役に立たない者は生きていてはいけない」というようなメッセージは、手を変え品を変え、政治家や経営者の口から、そしてあらゆるメディアから発される。家族や友人だって言う。(p6)

命の選別の思想がある。日本国憲法には生存権が認められているのに、役に立たない人は社会にいることを許されない空気がある。
著者は言う。「植松容疑者の言ってたことと同じじゃないの?」(p6)と。

2016年の相模原障害者施設殺傷事件。19名の当事者が殺害された。植松容疑者は、彼らの命が「この社会に必要ない」から殺したのである。
多くの人は、さすがに、殺人を実行することはないが、それでも、役に立たない人は、近くにいてほしくないと思いがちではないか。僕も人のことはいえない。無意識に、似たようなことを考えているかもしれない。

意識していたいのだ。
命を選別しなくないのだ。
僕だって、生き続けていけば、高齢者になる。高齢者はできることが減っていく。高齢者は障害者と同じ。
今、役に立たないなら、高齢者も似たような存在として、「選別される」可能性がある。
姨捨山か…!?
ただただ、怖いのだ。

「迷惑をかけるな」
「お金を稼げ」
「会社に貢献しろ」
ここに対応できる人だけが許される社会。生き残るのは、ロボットだけではないか?

いろいろな人がいたから、ここまで人類は生存することができたのではないか。


働く学習に取り組み、社会に出ていく生徒たちに、安易に「強くなれ」「社会の理不尽に耐えろ」「貢献しろ」と言うことが、できないな、と思う。