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『外国語を学ぶための言語学の考え方』

黒田龍之助『外国語を学ぶための言語学の考え方』中央公論新社。
かねてよりこの新書を読みたいと思っていた。
ただ、読むまでこの本のコンセプトをあまりよくわかっていなかったし、読み終えた今になっても説明が難しい。
不思議な本で、「〈〇〇〉ではない」という説明から始めた方が良さそうだ。

典型的な言語学の〈研究書〉や〈入門書〉ではない

そもそも新書なので研究書ではないが、中公新書には研究書に匹敵する優れた著作が多数ある。たとえば、小菅信子『戦後和解――日本は〈過去〉から解き放たれるのか』は歴史研究としてとても重要な書籍だと思っている。だが、『外国語を学ぶための言語学の考え方』はそうした類の新書ではない。

また、言語学入門書として著者は本書を位置付けているが、典型的な言語学の入門書、すなわち教科書とは異なる内容になっている。私自身はまったく言語学の素養がないが、言語学の諸分野(音、意味、文法など)についてそれぞれの重要な概念や理論を、具体例を絡め、言語学者の名前を挙げながら紹介していくのが通常の入門書ではないかと推測する。私が専門とする政治学の教科書ではそのような内容が一般的だ。

したがって本書は、言語学を勉強したい、言語学研究に詳しくなりたい、という読者には向いていないだろう。

〈いろんな外国語を紹介する本〉ではない

私は言語が好きだ。結局そこそこできるようになったものは英語しかないが、学習を始めた順番に従えばラテン語、ドイツ語、古典ギリシャ語の学習歴を持つ。ヨーロッパで育ったため、ヨーロッパの言語しか学習したことがないのが残念だが、第一言語である日本語とフランス語を含めると、今までの人生で密接に接してきた言語はそこそこあるといえるだろう。
このようにいろんな言語に接したり、外国語学習に力を入れたり、いろんな文化を知ることに喜びを覚える人にとって、いろんな外国語の文字や言葉との出会いは楽しくてたまらない。私は一言もしゃべれないが、ベルベル語のティフィナグ文字が好きで、自著にわざわざ一箇所だけティフィナグ文字を無理矢理入れたくらい知らない言語と接するのが好きだ。
だが、本書には外国語の例があまり出てこない。英語やドイツ語、フランス語、ユピック・エスジモー語、チェコ語、スロベニア語などの例は出てくるが、意外と数は少ない。もちろんこれら以外の言語への言及はあるが、具体的な例の多くはむしろ日本語のものだ。

したがって本書は、いろんな外国語の例を眺めて楽しみたい読者には向いていないだろう。

〈最強の勉強術を紹介する本〉ではない

著者は多くの外国語を学習してきた人だ。外国語を勉強する際のテクニックを持っていると推察できる。世の中には多くの外国語を比較的短期間でそれなりのレベルに達した人が、どのように勉強したのかを紹介する本が多数出版されている。そういった本にあまり興味がないため、手に取ることは少ないが、たとえば一日どのくらいの時間を割くのか、どういったノートを作るのか、どういった教材やツールを使うのか、どういった目標を設定するのか、どういった順番で何を学習するのか、などといった外国語学習を成功するための術を教えてくれるものは大量にある。
だが、本書はそうした〈最強の勉強術を紹介する本〉ではない。著者が今までどういった外国語学習術を駆使してロシア語などを習得してきたのかはこの本ではわからない。

したがって本書は、外国語学習のための具体的な勉強術を知りたい読者には向いていないだろう。

結局、どんな本?

言語学を勉強したい人、いろんな外国語を眺めて楽しみたい人、外国語の勉強法を知りたい人には向いていない、と書いてきたが、本書はこれらの人にとって無意味なのか、と考えると、そんなことはない。むしろこうした人たちには勘違いして本書を手に取ってほしい。

本書は大変に読みやすい。内容が簡単だ、という意味ではまったくない。もちろん、言語学という学問を難解なまま提示する内容でもない。難解な言語学の本を読みたいならソシュールやチョムスキーを読んだ方がよいだろう。本書の読みやすさは、まず構成にある。外国語学習あるいはもっと単純にいえば言語を使うという行為に着目し、「間違えるのが怖い」や「空気を読む」といった章が設けてある。上述のとおり、音に特化した章や、意味に特化した章、文法に特化した章はない。ゆえに、言語学を知らない読者にはなじみやすいだろう。さらに、読みやすさは言葉遣いからも来ている。学問を土台にした本書は専門用語から逃れられないが、重要な概念を具体例とユーモアと喩えに包んで提示してくれる。文体の柔らかさは最初のページから現れるのでとっつきやすい。とにかく読みやすいので、私のように読書が苦手でも短時間で読める。

本書の形式に触れたが、内容はどういったものか。言語学の本というよりも、書名にあるように「考え方」に関する本だ。言語学の知識を身に着けるというよりも、言語学の考え方を身に着ければ、外国語学習がより豊かになる上、読者は母語を振り返ることもできる。
たとえば、語用論に関する箇所で著者は日本語の例を多用している。辞書に載っている意味を越えた意味を言葉は持っており、言葉を発する人の表情やジェスチャー、文脈などに応じて言葉の意味は変わるという話をするために、著者は「今日はだいぶ冷えますね」という文を例としている。場合によって、この文は「ストーブと入れてもいいですか」を意味するが、他の文脈では「夕食は鍋にしませんか」を意味するかもしれない。こうした例から、我々の言語活動が母語であっても、何語であっても、極めて複雑だということが再確認できる。母語/外国語を問わず、言葉を使うという行為は複雑で、その複雑さがどこから来てるのかを知るとより外国語と近しくなれる。

抵抗する本

本書はいくつかの考え方に抵抗するものだと考える。まず、本書は「ことば道具論」への力強い批判を展開する。前述の語用論に触れているのは、言語の複雑さを示すことを越えて、「ことばなんてただの道具」とする考えに抵抗するためだ。言葉そのものに熱中する意味がないとする人たちに著者は「道具にしては複雑すぎる」と反論する。道具ではない、とは書いていないが、この道具を操るには、その複雑さから多く時間と労力を費やして道具を知る必要があると主張している。昨今、グローバル人材となるためにその必要不可欠な道具として英語を身につけよう、とする中等・高等教育の一部関係者の主張に対する重大な批判だと思う。

そして、本書は偏見へも抵抗する。三つ取り上げたい。まず、日本人は巻き舌ができないという偏見。私は最近まで、そのような偏見があることすら知らなった。もっと難しい発音が世の中にはあふれているように思うが、どうやら日本人にはできないと信じる人たちがいるらしい。そんなことはなく、発音は練習でどうにかなる、と著者は述べている。(余談だが、巻き舌に関しては「サッポロラーメン」を勢いよく発音すると練習になると著者はいうが、初期の椎名林檎の曲には巻き舌が多いため、歌いながら練習できると私は思っている。たとえば「本能」には巻き舌が複数回登場するので聴いてみてほしい)
もう少しまじめな話に移ると、多くの人が持っている言語に対する差別的な考えに本書は抵抗している。たとえば、フィジー語。フィジー語を話す人たちは自然に囲まれて生きており、単純な言語を話しているに違いない、と考えてしまいがちだが、人称代名詞には、単数と複数に加えて、二人を指すための両数とさらに三人を指すための三数がある。したがって、フィジー語の複数は四人以上のときに使用する。気が遠くなりそうな複雑さ。エキゾチックな場所の言語は単純に違いないとする考えは偏見に満ちたものだ。
最後に、クレオールに対する偏見に言及しよう。たとえば、ハイチ・クレオール語はフランス語とその他の言語による混成語だ。多くの言語が混ざり合って作り上げられた言語は不純で劣ったものと考えられがちだ(本書で言及はないが、こうした考えの定着に言語をめぐる政治は当然無関係ではない)。だが、言語に優劣はないし、立派な言語と思われているものの多くも混成によりできあがった。フランス語だってガリア語とラテン語の混成で、ある種のクレオールだといえる。

なぜ外国語学習に言語学の考え方が必要なのか

私の独断と偏見に基づき、本書がどのような内容ではないのか、そしてどのような内容なのかを紹介してきた。最後に、本書を読んだ上でなぜ「外国語学習に言語学の考え方が必要」といえるのかを考えたい。

ある領域を理解し、実践につなげる、という営みは実に骨が折れる。本書の冒頭に料理の話が出てくるが、料理には食材、調味料、調理器具が必要だ。そして、食事を作るには、調理器具を用いて食材を適切に処理し、調味料で味をつけなければならない。そのためには、各調理器具がなんの役に立つのか、どのように使用するべきなのか、どのように使用してはいけないのかなどを知る必要がある。たとえば、プラスチック製のタッパーウェアは電子レンジで使用できるが、オーブンに入れてはならない。他にも食材や調味料をどう使うとよりおいしくなるのか、何をしたらまずくなるのか、などのそれなりのルールがある。料理は多くの人が行うもので、みんなが三ツ星レストランのシェフになる必要はない。基本をおさえていれば、それなりの食事を毎日作ることができる。逆に、知識がなければ出来上がった食事は、奇跡でも起こらない限り、まずいものになるだろう。
外国語学習も同じで、どういったルールに則って、何をどう使用したら、うまくコミュニケーションがとれるかを知らなければならない。何も知らずに料理をすることができないのと同じで、どういった品詞があり、どういった格があり、どのように動詞を活用するのかなど、無数の知識が外国語学習には必要だ。頭に入れるべきこれらの知識を言語学は上手に分解し、分析し、整理してくれる。細かいルールや変な例外も、言語学を知っていれば学習者は「あー、なるほど!」と納得できるし、新しい知識も覚えやすい。言語学の基礎は外国語学習において遠回りどころか、最短距離を示してくれる道しるべだ。だから、言語学者たちによる蓄積がなければ、私たちは外国語の習得に今以上にてこずっただろう。著者は「ことばは文脈の中で生きている」と終章で述べている。これに対し「生きているから、変動するから言語学が提唱する概念や理論を知る必要はない」という人がいるかもしれないが、本書を読んだ者として、言語学は言語の生き方を見出してくれる学問なのかな、と感じた。

そんなわけで、来来来世くらいには言語学者になりたい。

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