『はじめてのジェンダー論』

加藤秀一『はじめてのジェンダー論』有斐閣。
有斐閣ストゥディアという教科書シリーズの一冊。
政治学系の教科書は数冊持っていて、いつも授業準備でお世話になっている。このたび、授業で一回だけジェンダーを取り上げるということで、読了。教科書だけど教科書じゃない。そんな読み物なので広く読まれてほしい。

なぜジェンダーを考えなければならないのか―労働者としての受難

なぜこの本を読んだのか、さらには、なぜ学生にジェンダーについて考えてほしいと思うようになったのかをまずは綴っておきたい。少々長いがお付き合いいただきたい。

説教したがる男たち』を紹介した際にも書いたが、「フェミニズムなんて今の時代要らない」と会社員になるまで思っていた。先進国ではすでに女性はさまざまな権利は充分に得られている。投票権もあるし、教育も受けられるし、好きな仕事に就ける。こんな考えは証券会社という男性中心主義的な環境に飛び込んで一瞬で消えた。

【エピソード1】
ある日、課でカラオケに行った。直属の上司である次長と年次の近い人たちと一緒だった。女性は私を入れて二人で、もう一人は私の同期だった。同期とは仲良く、おしゃべりしながらカラオケでは隣に座った。その部屋には小さなテーブルが二つ、少し離れた位置にあり、同期と私は同じテーブルに座っていたが、次長は別の方のテーブルの席についていた。そこで次長は言った。

「こっちのテーブル女の子いないから、こっちにも一人女の子ついてー」

キャバクラ代をケチって部下の女性にキャバ嬢役やらせる男よ、五回地獄に落ちてから出直してこい。

そんなことを心の中で思ったのだけど、権力関係もあり、私だったか、同期だったかが次長のテーブルに移動した。

【エピソード0】
上のエピソードは入社してちょっとしてからのことだったが、それに先んじて、入社直後に出遭った衝撃的な場面があった。

新人研修時のこと。大勢の新入社員が集められ、一日中研修を受けさせられた。研修後、仲良しの女性同期と四人でラウンジでおしゃべりしていたら、知らない同期の男性が話しかけてきた。入社間もなかったため、話は出身大学に。私たちは一人ひとり出身大学の名前を伝えた。すると、男性社員は二人の同期に「じゃあ二人はバカなんだ!枕営業するの?」とさも面白いことかのように言い放った。標的となった二人は愛想笑いをしながらあいまいな返事をしていた。

この初対面の男性に激しく憤った。でも、なんといえばいいのかわからなかった。とりあえずその男性に「大学どこ?」と聞いたが、その後なにも言えなかった自分が今でもとても悔しい。

せめて一〇〇回業火に焼かれてほしい。

他にも抱きついてこようとする、手をつないでくる上司、「安産型」だとかと女性の体形を批評する先輩、慶應義塾大学の卒業生用クレジットカードを持っていることを新人女性に自慢する先輩、セクハラしまくっているのに「女はいいよな」と発言する上司、お酌を女性社員に強要する上司、自分よりも学歴が高い女とは付き合いたくないと発言する男性同期、避妊なんてしたことないと自慢する男性同期……地獄か!

以上のような悲しいエピソードからジェンダーについて考えていく必要性に気がつき、学生にもジェンダーをめぐる課題を検討してほしいと考えるようになった。

「ジェンダー」は死語なのか?

「フェミニズムはブスのひがみでしょ」とある女性の院生が言っていた。そうだろうか。フェミニストはブスだと科学的に証明できるのか。フェミニストをブスだと侮蔑する意義はなんだろうか。特権を糾弾し、人間としての権利を主張することはひがみなんだろうか。

本書は「ジェンダーなんてもう死語だよ」と言われた著者のエピソードから始まる。「死語」とはつまり、今更考える必要のない事柄、という意味だろう。本当にジェンダーについて考える必要はないのだろうか。2018年12月18日に発表されたジェンダーギャップ指数で日本は149ヶ国中110位、G7の中で最下位……また、複数の医学部で女子の受験生不利益を被った。

こうしたことを踏まえると、日本に住む女性が直面する問題はかなり深刻であり、「ジェンダーなんてもう死語」や「フェミニズムはブスのひがみ」なんて言っている人はとてもおめでたい。

ブスとかモテとか、男とか女とかと無関係に、一個人として生きたい人の主張に耳を傾けるべきだろう。女性だけではなくジェンダーをめぐる問題はすべての人に関わっている。

大海のように広い射程

本書はジェンダーを次のように定義している。

私たちは、さまざまな実践を通して、人間を女か男か(またはそのどちらでもないか)に〈分類〉している。ジェンダーとは、そうした〈分類〉する実践を支える社会的なルール(規範)のことである。

この〈分類〉が本書の中心的なテーマだ。とすれば、本書の射程は極めて広い。13章から成る本書は基本的な知識/前提の丁寧な説明を踏まえつつ、かなり具体的な例を詳細に検討している。たとえば、女性専用車両と映画館のレディースデイがなぜ男性差別とはいえないのか、なぜ両者が女性が受ける被害の是正措置として機能しているといえるのか、そしてなぜ両者が是正措置として最適とは言い難いのかを説明している。その他にも、セクシュアル・マイノリティ、リプロダクティブ・ヘルス&ライツなどを扱っている。

したがって、多様なテーマを薄く広く扱うわけではなく、むしろ偏ったテーマについてじっくりと紙幅を割いている。ジェンダーというテーマはあまりにも私たちの生活の中の多くの領域に関連しているため、こうした取り上げ方が最も好奇心をくすぐるのではないだろうか。

語るための言葉は必要だが……

本書は〈分類〉をテーマとしている。〈分類〉するとはつまり、人に「女」や「男」などの言葉を当てはめる、あるいは人を「女」や「男」などの言葉にはめる行為だ。

ある事象に言葉が当てはめられることは問題を認識し、問題を訴えるための重要な道具となる。著者がいうとおり、性にまつわるさまざまな課題、問題は「私たちが名付ける前には、そもそも存在しないもの 」だ。たとえば、セクハラに該当する行為は「セクハラ」という言葉が生まれる前から存在していたが、「性暴力としてのセクシュアル・ハラスメントは存在していなかった」。だからジェンダーをめぐる問題を考えるときに、語るための言葉を獲得する必要がある。

言葉はある事柄を他のものから識別し、固定化する効力も持っている。しかし、性に関する事柄は流動的だし可変的だ。著者はいう。

異性愛/同性愛/両性愛といったといった主要なカテゴリーのどれかに必ず当てはまるというものではありません。(中略)現実に生きる人々のセクシュアリティは無限に多様であり、しかもセクシュアリティと他のさまざまな欲望との境界線も定かではない以上、どれだけの概念を並べたところで、それらを完全に把握することなど、誰にもできはしないのです——風にそよぐ木々の葉の一枚一枚、一瞬一瞬をそのまま言葉に置き換えることなどできないように。

この最後の一文が好きだ。こうして言葉の限界を充分に理解した上で、著者は常に言葉の使い方に細心の注意を払い、断定的な表現を避け、誠実な説明に努めている。

セクシュアル・ハラスメントという性暴力

本書が取り上げているテーマは多岐にわたるが、ここでは一つだけ、セクハラについて言及したい。

まず、性暴力に限らない「暴力という現象は、〈被害者〉の視点をとることによって、はじめて存在する」という前提を共有しておきたい。「〈加害者〉の視点をとるなら、そもそも暴力という現象はこの世に存在しないことになってしまう」からだ。

これを起点にセクハラを考えたい。私は身体的接触を伴うセクハラにも、言葉によるセクハラにも遭ってきた。多くの女性が私と似た経験をしてきたと勝手ながら想像する。
私は親しい人にセクハラ被害の相談をした際にこうした言葉を投げつけられた。

「本当はうれしいんでしょー?」

「えり子が100%悪い」

「いやって言えばいいのに」

会社員時代に会社の内部通報制度を利用しようと考えた際には

「そんなことするよりも、退職するときに格好いい捨て台詞をいってやるほうがいい」

と言われたこともある。(実際には捨て台詞を吐くことなく、内部通報を行った)

本当にうれしくなくてむしろ苦痛だから相談してるんだし、私が仮にセクハラの遠因を作ったとしても悪いのは加害者であり私ではないし、権力関係などのせいでいやだといいづらい状況もあるし、格好つけたくて内部通報するんじゃなくて、もうこの会社の女性社員が被害に遭わないように相応の処分を下してほしいだけなんだ。

でも、信頼している近しい人たちにこうした言葉で殴られ、私は黙るしかなかった。

かれらの言葉は批判するべきだろう。でも、普段から私を大事にしている人たちだ。突然言葉で殴りかかってくるということは、性暴力に関わる社会的規範が強力だということではないだろうか。著者は「『本当は嫌だったが、恐怖や不安のせいでしっかり拒否できなかった』ような場合は『合意した』とみなされてしまうことになるでしょう 」と性規範について書いているが、たとえば「いやって言えばいいのに」という発言はまさにそうした規範から生まれているだろう。典型的な性暴力の二次被害だ。著者は「暴力の被害者に対するこのような心ない攻撃は、それ自体が悪質な暴力行為」だという。さらに次のように著者は論じる。

性暴力の被害を軽く見たり、面倒を恐れて被害者が告発することを抑圧したり、また被害者の側の「落ち度」をあげつらったりする傾向は、 たとえ性暴力の直接の加害者にならない人にも無縁ではない 〔のです〕。(中略)二次被害を引き起こすことは(中略) もう一つのあからさまな暴力です。そのような暴力に加担しないためには、ジェンダー・バイアスに満ちた性暴力観を乗り越え、 性暴力の被害者がそれ以上傷つけられなくても済むように、社会全体のあり方を変えていかねばなりません。

私の周りには幸いにして話を聴いて、痛みを想像をしてくれる人もいた。だが、二次被害がなかったことにはならない。二次被害は被害者の声をかき消し、加害者を放置し、性暴力の再生産に加担する。だから、もしこの文章を読んでくれている人がいて、ある日性暴力に遭った人から相談を受けることがあれば、絶対に被害者の勇気ある声を聴いてほしい。その人に沈黙を強いるような抑圧的な言葉を絶対に投げつけないでほしい。加害者が100%悪いから。

そして、もしこれを読んでくれている人の中に、性暴力の被害に遭ったことがある人がいたら、絶対に自分を責めないでほしい。

ロールモデルになる?

明るめのテーマで締めくくりたい。
「ロールモデルとして大嶋さんは期待されています」、「大嶋さんをロールモデルにします」と言われたことがある。女性で大学教員は少ないからだろう。
実際、本書でも紹介されているように、課程が上がれば上がるほど女性教員の数は減っている。「難しい勉強を教えるのは男の役割」と生徒や学生たちが捉えてしまうことはあるだろう。
だから、一つだけ思うことがある。思うというよりも、願っていること。ロールモデルになる、というよりも、当たり前の風景の一部として見てほしい。性別関係なく大学教員になれる、性別関係なく人間は好きなことをして生きていける、性別を理由にやりたいことを諦めたり、やりたくないことを選んだりしなくていいと感じてもらいたい。

「男らしい進路」も「女らしい進路」も実際の性差によるものというよりも、性役割という社会的規範により決定されたものだ。そもそも性差とは男性集団と女性集団を比較したときの差であり、女性個人・男性個人の資質を明らかにするものではない。集団にいえることが個人にあてはめられるわけではない、と本書は再三読者に訴えかけている。集団に見られる性差や、他人が勝手に決めた「男らしさ」や「女らしさ」に準拠しなくていい世界を作っていきたい。

以下のシャルロット・ゲンズブールの語りから始まるマドンナの "What It Feels Like For a Girl" の音源を添えて、本稿を終わりとする。
こんなに長い文章を読んでくれた人はいるだろうか。一人くらいいるといいな。

Girls can wear jeans and cut their hair short
Wear shirts and boots 'cause it's okay to be a boy
But for a boy to look like a girl is degrading
'Cause you think that being a girl is degrading
But secretly you'd love to know what it's like wouldn't you
What it feels like for a girl


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