コンプレックスから生まれた髪型がコレです。【ユーモアエッセイ】
人間とはコンプレックスという原石を身につけて産まれてくる。
原石を磨いてこそ自身が光輝くものだと思うが、そう簡単にいかないのが原石の硬さであり、人間のサガでもある。
動物と違って、他者と比較してしまう癖を持ってしまっているから仕方がないが、年齢を重ねるごとに魅力的に見える人は、コンプレックスを削らずに大切に磨いてきた輝きなのだろう。
私もそんな大人になりたかったものだ。
私はコンプレックスの塊である。
じゃらんじゃらんの重い首輪は、濁った石の連なりで出来ている。
肩が凝るから捨てようとするが、わんわん泣き叫ぶため、外せない石。
どうやら私から離れたくないらしい。
腐れ縁の賜物。
可愛いじゃないか。
所々角度を変えると光るのは、そんな私でもいつか磨いた功績が紛れ込んでいるのかもしれない。
さて、数え切れないほどの私のコンプレックス。
先天性と後天性が複雑骨折した、世界にひとつの、色彩豊かに錆び付いたネックレスだ。
髪の毛がその一つ。
私の髪の毛は、針金だ。
時々指に刺さる。
太くて硬く、細かなボコボコがあって真っ黒。
極め付けは多毛過ぎて美容師さんが悩むほどだ。
すきバサミですいてもすいても、一向に減らない毛。広がる毛。キューティクルを存じない毛。
赤ん坊の頃の写真を見ても、らしくない剛毛に萎える。
ボコボコ毛探しに熱中していた時期は長かった。
気づくと髪の毛を触っては、ボコ毛を発見すると躊躇いなく抜いていた。
ボコ具合が強烈であればあるほど、それこそ鉱山で原石を見つけたくらい高揚する。
「ハゲるからやめなさい!」
と、母に怒られながらも飽きずにボゴ毛を抜いては、テーブルの上に並べ、どれが一番ボコっているかなどと吟味していた。
過去一のボコ毛は、ティッシュに包んで大事に保管していた。
ある日、意を決して処分したが、アレに勝る毛が未だ見つけられない今、とても後悔している。
時々触りたくなるのだ。人差し指と中指と親指で挟むようにしてスーっと撫でるボコ毛は私に快楽を与えてくれる。
母の言いつけは守るものだった。
抜きすぎて薄くなってしまった部分があり、悩みが増えてしまった。
多毛と薄毛のダブルスで悩むのは、中々なレアケースかもしれない。
(ルート治療のおかげか、最近増えてきた)
それはそうと、縮毛矯正やストレートパーマなどの最先端なことは、特別な日以外(七五三など)縁の無かった幼少期のことだ。あれは小学3年生。
腰まであった髪を、母に大反対されながらも、おかっぱヘアに憧れて近くの美容室でカットしてもらったことがあった。
「ショートにしなさい!絶対におかしくなるよ!絶対に!」
と、母が言っていたことが、ここでも現実となった。
金太郎そっくりになってしまったのだ。
担任の先生は意地悪で、私の髪を見るなり、クラスメイト全員の前で大笑いした。
「おかしいわねその髪型。まるで金太郎じゃない!」と。
この時、確実に自尊心が抉られたが、何かと風変わりだった私は、無表情でぽーっとして、続いて笑みをこぼした。
先生が気まずそうに視線を反らした表情を、まだしかと記憶されている。
非常に扱いづらい生徒だったことだろう。
私は長い髪が好きだった。
毎日母がヒーコラ言いながら編んでくれた剛毛多毛を、バッサリとおかっぱに踏み込んだのは大失敗だったのかもしれない。
なぜなら、おかっぱは家族からも大不評で、見かねた母が強引に、襟足長いショート、要するに、昔のヤンキー子供のような髪型にしてしまったからだ。
ウルフショートとはかけ離れたモンチッチヘアに襟足を足したような、これまた先生に失笑される頭となってしまった。
モンチッチと言えば、幼い私の大親友だった。(人形である)
常に持ち歩き遊んでいたら老朽化し首が取れ、母に接着剤で手術してもらった覚えがある。
「息できなくて苦しんでいる!早く治して!」
と、私は号泣していた。
あぁ懐かしい。
最後までお読みいただきありがとうございました!
また来てね♡
~おまけ~
コンプレックスなんてラララ~♪だ。
私の多毛剛毛は、今現在、ルート治療との出会いのおかけでガラリと変わった。
ボコ毛も少なくなり、艶も生まれ、薄かった箇所も蘇ってきた。
残すは白髪を減らすことだ。
少しずつ目立たなくなってきたように思うが、それでも多く、白髪染めをしている。
年齢的に仕方のないことだが、私は20代から白髪が目立つようになった。それだけ頭の凝りが強い証拠でもある。
これもコンプレックスだから個性なのだろうが、白髪とは別に頭の凝りはどんどん減らしていきたい。
私にはまだまコンプレックスがある。
最近思うことがある。
コンプレックスは、受容し、開き直ることで楽に生きられる。
人生に怖いものなど無くなって、いつでも頭の中はお花畑でスキップして外を歩ける。
しかしそんなことを100%消すことは皆無だろうし、コンプレックスというのは、本来は人間として生きていく上でなくてはならないものなのだろう。満足し思い上がらないために。
コンプレックスをどのように料理し、どのように盛り付け、どのように飾り、どこまで愛せるかによって、不思議と善きシナリオが描ける。改善に導く道が新たに作られるし、個性と自慢できる日が来る。と、私は思う。
今の自分が素晴らしい。
誰もが素晴らしい。
自分らしさだけは忘れずに生きたいものだ。
サポートいただいた暁には喜びの舞を心の中で踊りたいと思います。今後の活動のパワーになります。