透明人間の春

僕は透明人間だ。
誰も僕を見ないし、僕の声は聴こえない。
僕の名前も……僕に名前があったことさえ、もしかしたら知らないかもしれない。
並ぶ窓枠は牢獄みたいに空をいくつにも区切る。
トリミングされたガラス越しの四角い空をひっそり見上げながら、僕はひたすらに春を待っていた。

「次の数学、プリント提出だっけ」

休み時間、誰かが言った。

「あー、リコ持ってくんの忘れたかも」

甘ったるい、佐伯莉子の声が言った。
その途端、高い声が次々飛び出してはじける。

「まじで」
「あたしやってない!」
「リコはちゃんとやったのにい」
「本当に忘れたの?」
「えー、プリント見つかんない」
「じゃあさー」

高い声の一つが、隠しきれない笑いをはらみながら言った。

「誰かのもらえば?」

その瞬間、教室の空気が透明なまま、レジンを流し込まれたように硬質なものへと変わった。三十数人のクラスメイトが、一瞬にして「それ」を察知して、彼女たちの会話に注意を向ける。
見えないけれど質量のあるたくさんの視線をたっぷりと浴びながら、佐伯莉子は首を後ろに傾けた。艶で光る茶色い髪が肩から滑り落ちる。
「浦田さん、宿題やったあ?」

その言葉に導かれるように、三十数対の視線が移動する。
佐伯莉子の斜め二つ後ろに座る、浦田しおりのほうへ。
浦田さんの、セーターの上からでもわかる、平べったくやわらかさの少ない肩が小さく震える。

「浦田さあん。宿題やったの?ってば」
「ねえ聞いてんじゃん」

佐伯の横に立っていた吉池茉希名が、苛立った声を出す。
浦田さんは、大げさなほどゆっくりと息を吸って、小さな声で答えた。

「……やった」
「貸してよ」

吉池が、二歩で浦田さんの目の前に立ち、手を差し出した。
膝の上の浦田さんの掌が、ぎゅ、と握り込まれる。

「貸してってば」

吉池がさらに手を突き出す。浦田さんは微動だにしない。浦田さんと吉池の向こうで、佐伯は自分の席に横座りしたまま自分の爪を見ている。その光景を、三十数人分の視線が突き刺す。
やがて浦田さんはのろのろと鞄を開け、クリアファイルに入ったプリントを差し出した。吉池はそれを一瞬でかすめ取り、ありがと、となんの感情もない声で言って、それを佐伯に差し出した。

「はい、リコ」
「ありがとー、浦田さんも」

場違いなほどやわらかな声音で、佐伯は優雅にそれを受け取った。

「――でもごめん、リコやっぱプリント持ってきてたから、いらない」

爪の伸びた細い指が、プリントの真ん中をつまみ、割いた。
二つになったそれを二枚重ねて、また真ん中からぴりぴりと。
神経質なほどに丁寧な手つきでプリントを粉々にしていく。
やがてひと山になったそれを握りしめ、斜め後ろに向けて無造作に放る。
プリントは紙吹雪となってはらはらと舞い、床に落ちた。
浦田さんはうつむき気味に座ったまま、微動だにしない。
小柄な柴田愛美が耐えきれないと言うように、佐伯の肩を揺さぶって笑った

「ねえ、リコやばすぎ」
「なんでえ? いらないから、ゴミじゃん。シュレッダー」
「シュレッダー雑すぎ!」
「ていうか、そもそもリコ忘れ物しないし」
「たしかに!意外としっかりしてるよね」
「意外じゃないよお」

何事もなかったかのように、佐伯と取り巻きたちが自分たちの会話に戻っていく。
張りつめていたものが緩み、三十数人分の視線がまた教室中に散らばっていき、ざわざわと雑談が生まれ始める。ほとんどのクラスメイトの関心が他へうつったところで、浦田さんは静かに立ち上がって、足元に落ちたプリントの欠片を拾い集めた。
這うように紙片を拾う横顔を、長い髪がのれんのように隠している。
馬鹿だな。浦田さん。
誰にも聞こえない声で呟いて、僕も浦田さんから目をそらした。

*

目が大きくて髪がつやつやで頭の回転が早くて甘ったるい声で話す佐伯莉子は、高校入学してすぐに男子と教師と一部の女子を味方につけて、女子の中のトップになった。教室にいても廊下にいてもイベントごとでもいちいち目立つ佐伯が逆らったらまずい相手だってことは、察しのいい生徒なら一年の早い段階から知っていたことだ

そんな佐伯に浦田さんが目を付けられるようになった明確な理由はいくつか噂がある。漫画を貸すのを断ったからだとか、新しい髪型を誉めなかったからだとか、掃除をさぼろうとしたのを咎めたからだとか色々言われているけれど、正確なことは僕にはわからないし、明確な理由なんて存在しないのかもしれない。

思うに、浦田さんはたぶん、佐伯の視界に入ってしまったのだ。
佐伯の目に、自分に平伏して迎合する人間は映らない。だから注意深い同級生たちは、彼女と接することがあったら、目を見ずに、「うんそうだね」と同意する。それで彼女の視界から消えることができた。

でも浦田さんはそれができなかった。
だから、彼女の高校三年間はめちゃくちゃになった。

浦田さんは数学の教師に、プリントを忘れたことを謝っている。それを見て、吉池や柴田や何人かの男子がくすくす笑う。頬杖をついた佐伯も、唇をゆがめて笑っている。チューニングをミスったみたいな耳障りの悪い笑いが、ひっそりと教室を覆っていく。
そのさざ波は、透明人間の僕にまで、お前も笑えと伝播してきて、僕は自分の表情を隠すようにうつむいた。

その時、ふと腕を動かした拍子に消しゴムがすべり、隣の石井さんの席との間に落ちた。石井さんが、床の消しゴムに一瞬目をやる。僕の鼓動は一瞬にして鼓動が早くなる。
石井さんはすぐ、何事もなかったかのようにまた手元に視線を戻した。
僕は先生の話し声に紛れるように慎重に椅子を引いて、消しゴムを拾った。埃のついた消しゴムを握りしめて椅子に戻る。石井さんがこれを拾ったりしなくて良かったと思った。

――馬鹿だよ、浦田さん。

浦田さんも透明になればよかったんだ。
僕みたいに。

中学の時、透明人間ではなかった僕には友達が一人いた。
地味で、ぱっとしなくて反応が鈍い、僕に似たやつだった。
実際には僕のほうが少しせっかちで、あいつのほうがぼんやりしていたけれど、はた目から見たら僕らの違いなんてどうでもよかったと思う。
僕らは僕ら以外には友達がなかなかできなくて、それでも一人でいるわけにはいかなくて、消去法で友達になった。
僕らの間に大した友情はなかったけど、「必要性」というそれ以上に切実な理由によって結びついていた。二人組になってとか、班に分かれてと言われたとき、とりあえず一緒にいることで、僕らは色々な場面を乗り切ることができた。

ある時、あいつの給食袋から女の子のハンカチが出てきた。それは何日か前、クラスの女の子がなくしたと騒いでいたものだった。たぶん、何かの拍子に紛れ込んでいただけのことで、それをそのまま言えば収めることができたことだった。でも、普段僕らはお互い以外にはろくに会話しなかったから、とっさのことにうまく言い訳できなくて、あいつはドロボー呼ばわりされて、クラス中から批判された。

――こいつと一緒にいたら僕も標的にされる。

僕はそう思った。
だから、僕はすぐにそいつから離れた。
いつも一緒にいた僕がそいつを見限ったことをクラスメイトは敏感に察知して、翌日からそいつは孤立して、クラスの共通の敵になった。
僕たちふたり、昨日まではいてもいなくても同じような存在だったのに、クラスの雰囲気の変わり様に僕はおびえた。足を引っかけられたり、上履きに砂を入れられているそいつを見るたびに、僕は自分がその対象でないことにほっとした。あの時離れてよかった、と思った。

だけど、そこからほかのグループに入れるような器用さはなかったから、僕は結局一人になった。あいつは友達を捨てる裏切り者だと、次はあいつが標的だと、そう言われないために、僕は誰にも見えないように、いないみたいに存在するしかなかった。

あいつが僕のことを恨んでるんじゃないかと思うとうつむきがちになった。みんながどんな目で僕を見てるのか知るのが怖ろしくて、前髪を伸ばした。変なことを言ったら次は自分がターゲットになると思ったら、声もどんどん小さくなって、人と話せなくなった。

そうやって僕は、透明人間になっていった。

あの時もし僕があいつのそばから離れなかったら、もしかしたらあの一件は冗談で済んでいたかもしれない。
そんなことを考えるには、その可能性はすでにあまりにも遠くなっていた。
中三の春、そいつは何人かの男子にふざけて髪を燃やされて、それ以降学校に来なくなって、夏の終わりに転校していった。
そして、透明人間の僕だけが残った。

*

胸に何かが詰まったような感覚がずっと続いている。
そいつがあるせいで、息が細くしか吸えないような、そのせいで酸素がうまくいきわたらなくて、いつも視界がすこしぼやけて、頭が上手く回らないような。
この四角い教室から出られたら、その感覚から逃げられるんだろうかってずっと考えている。だから僕はずっとずっと、ここから出られる春を待っている。

*

掃除当番の時、最後に一回にある集積場に持っていくのは、いつの間にか僕の役目になっていた。みんなおざなりに教室を掃いてゴミ箱にゴミを捨てたら、それで帰ってしまうからだ。教室に誰もいなくなったあと、僕はいつもひっそりとゴミ袋を抱えて、階段を三階ぶん下りて、棟を渡って集積場へ行き、コンクリート打ちっぱなしのうっすらと生臭い部屋にゴミ袋を置いて帰ってくるのだった。
その日も、下げていた机を全部戻した後、掃除の班の4人はそのまま教室を出ていった。
誰もいなくなったあと、僕がのろのろとゴミ箱に向かった時、廊下から話し声がした。

「そういえば、最後ゴミ捨てしなきゃいけないんじゃなかったっけ?」

もうみんなすっかり帰ったと思っていた僕は驚いて、ゴミ袋の口を閉じようとしていた手が止まった。

「あれ? でも俺一回も捨てたことねえよ」
「あれだよ、あいつがいつもやってるから」
「あーそっか。ていうか、あいつ、名前なんだっけ?」
「え……なんだっけ」
「忘れた。てか、あいつまだ教室いるんじゃね?」
「やべえ、行こう」

上履きのゴムがリノリウムをこする音が遠ざかる音がする。それが完全に聞こえなくなって、はあ、と息が漏れる。自分が呼吸を止めていたことに、そこで初めて気づいた。

――僕は、透明人間だ。

そう言おうとしたけど、声の出し方を忘れていて、「ぼ」もうまく言えなくて、止めた。
僕は今度こそゴミ袋の口を縛り、それを抱えて階段を下りた。
外では部活をやっている人の声がするけれど、校舎内は静かだ。ゴミを捨てて戻ってきて、トイレに行きたくなったので、教室から一番にトイレに向かうと、そこから物音がすることに気づいた。
今日は注意力が散漫なんだろうか。人の気配に気づけない。なるべく誰とも対面せずに済むように恐る恐る近づくと、音は女子トイレのほうからしていることがわかり、僕はほっとして、男子トイレに入った。
用を足していると、壁を挟んでも向こう側の音がかすかに聞こえてくる。普通、トイレでここまでの物音が出るだろうか。疑問に思いながらトイレのドアを開けようとしたとき、あの甘ったるい声が聴こえて、僕は固まった。

「だからあ、その髪型、一回リセットしたほうがいいって」

佐伯莉子だ。
ひそめた笑いが教室に広がる時と同じ、あの嫌なさざ波が、音もなく僕の胸に忍び寄ってくる。

「そのほうがかわいいってえ、浦田さん」

――浦田さん。なにやってんだ。
とっとと逃げろよ、浦田。なあ。

「ねえリコ、ほんとにやんの?」
「大丈夫でしょ、夏だし」
「そっか。じゃあいきまーす」

柴田の間延びした合図の直後、水の激しくほとばしる音がした。
水音とねじが飛んだみたいにケラケラ笑う柴田の高い声の隙間に、一瞬だけ、浦田さんの飲み込みような叫びが聞こえた気がした。
ドアの取っ手に手をかけて、僕は固まっていた。
固まったまま、脳が突如急加速を始めたみたいに、色んな想像が、色んな記憶が、頭の中を駆け抜けていった。

架空の摩擦で火照る視界に、髪に火をつけられたあいつの姿がよぎる。
あの日も、僕は見ていた。委員会を終えて帰ろうとして、物音がするから窓から下を見たら、校舎の裏で、あいつは二人に腕を押さえられて、三人目がライターで前髪に火をつけた。人の髪があんなふうに燃えるって知らなかった。三人は笑っていて、あいつは火を消そうとして、狂ったみたいに頭を壁にこすりつけて喚いてた。


僕は見てた。
僕は逃げた。
それが、僕があいつを見た最後だ。

――透明になりたい。
透明人間になりたい。
何も見たくない。何も見られたくない。
体を支えられなくなり、ドアに持たれてずるずるとしゃがみこむ。
水音と笑い声。止めて、という、僕にはすくい上げられない声。
早く終われ。早く終わってくれ。
ぼくをここから消してくれ。

――水音は止んでいた。笑い声も、人の気配もなくなっていた。
感覚がおかしくなっていて、自分がどれくらいそこにいたのかわからなくなっていた。
僕はよろよろと立ち上がり、そっと扉を開けた。校舎の中は、何事もなかったようにしんとしている。
廊下に出て、すぐ隣にある女子トイレの入り口にそっと近づく。
息をひそめて、目も閉じて、耳を澄ます。
ほんのかすかに、嗚咽が聴こえた。
はじかれたみたいにドアの前から飛びのく。
自分がここにいたことを、ここにいることを知られたくない。
もう裏切り者だと思われたくない。
教室まで一気に駆け戻って、そして立ち止まる。

――もう、裏切り者だと思われたくない。

心臓がドクドクなっている。必要以上の血液がいっぺんに流れて、血管が膨れているような錯覚をする。
僕は熱に浮かされたようにふらふらと、廊下に備え付けの自分のロッカーを開けてタオルを取り出した。
僕は汗っかきで、それを1年の時に一度からかわれたことがあって、それ以来常備しているタオルだった。
それを持ってトイレに戻る。廊下の床は相変わらず渇いていて、浦田さんがトイレを出てきた気配はない。
眠る猫の首に鈴をつけようとするネズミみたいに、僕は息をつめてタオルを女子トイレのドアの前にそっと置く。
置いた瞬間、教室に向かって駆けだした。上履きと床が摩擦でこすれる音がする。学校でこんな風に走ったことなんて一度もない。自分の鞄をひっつかむと、そのまま学校を飛び出した。

校門を出て少ししたところで、普段運動をしない体は悲鳴を上げた。細い道の途中で立ち止まると、膝ががくがくと震えた。
さっき感じた、しんとした廊下の静けさと、水音と笑い声と悲鳴と、校庭から聞こえる部活の声と、色んなものがぐちゃぐちゃになってよみがえってきて、頭がおかしくなりそうだった。
あんなタオル一枚、なんになるっていうんだ。
いつまでも整わない呼吸を抱えながら、心の中で吐き捨てた。

家に帰ってから、あのタオルが僕のものだとばれたらどうしよう、という考えが沸き上がった。浦田さんに少しでも味方したと知れれば、あっというまに「あちら側」になる。ここへきて、何よりそれが怖かった。
あの時、佐伯やほかの人間の気配はもうなかった。あのタオルだって量産品だ。誰のものかわかるはずがない。いくら言い聞かせても、不安は募るばかりだった。
学校に行きたくない、と久々に心から思った。だけど、一度行かなかったら、もう戻れなくなる気がした。あんな四角い場所に戻りたくなんてないのに、行かないという選択もできなかった。

翌日、吐きそうになりながら登校すると、浦田さんはきちんと自分の席にいた。佐伯たちも、ほかのクラスメイトも、いつもと同じように笑っていた。
何もかもは今までと同じ日常のルートの上にあって、何一つ脱線はしていなかった。
浦田さんはまた別の嫌がらせを受けていたし、クラスの多数は佐伯側だったし、僕は透明なままだった。
そりゃそうか。
僕は僕の透明な掌を見て、ため息をついた。
そうして、早く春になってほしい、と強く思った。

年明け七日、始業式。
今日を終えれば、学校は自由登校になる。必須の登校日はあと卒業式予行と当日だけなので、受験を終えるまでもうここに来なくていい。それだけで、朝の気分はいつもよりずいぶん軽かった。
その日、浦田さんはいなかった。でも、それは浦田さんだけじゃなく、この大事な時期に風邪をうつされてはたまらないと、佐伯を含む何人かの神経質な生徒たちも休んでいて、教室は歯抜けだった。

担任は、今までやってきたことを信じて、落ち着いて試験に臨むように、と神妙な顔をしてありきたりなことを言った。その後、登校日がほとんどないことに触れて、卒業式までに荷物を全部撤収するように、とも言った。
帰り、下駄箱に上履きを突っ込んだら、奥で何かがちり、と鳴った。中を探ると小さなビニール袋があって、中身は鈴の付いた小さな鍵だった。はっきりとはわからないけれど、冬休み前にはなかったはずだ。

なんでこんなものが。いつからここに。

鍵僕の親指より小さいくらいのもので、いかにも安っぽく、扉の鍵とかではなさそうだった。
なんとなく意味深だし、間違って入っていたとは考えにくいけど、今の時期に余計なことに気を取られたくなかったから、それは見なかったことにして、下駄箱の奥に戻した。
そのまま、その鍵のことは忘れた。

*

受験が終わるのはあっという間だった。
こつこつ勉強していたのが功を奏したのか、僕は第一志望の大学に行けることになった。
卒業式の予行も、当日も、浦田さんは現れなかった。
どこを受験したのか、受かったのかどうか、もちろん誰も知らなかったし、誰も口にしなかった。

そうして一人欠けたまま、僕らは高校最後の日を迎えた。
桜はまだほとんど咲いていなくて、寒々しい枝をさらしていた。
それでも、気温だけは生ぬるく、冬が終わったことを感じさせた。
卒業式には、同級生や教師や在校生のたくさんの顔が並んでいたけど、どの一つにも、何も感じることはなかった。佐伯の顔を見たときさえ、何も思わなかった。僕の心は、一足先にこの場所から切り離されていた。

――ああ、そうか。
僕は、自分だけじゃなく、自分の周りのすべての人も透明人間にしていたんだ。
全員透明にして、何も見なくていいようにした。

涙ぐんだり肩を組んだりする同級生の隙間に突っ立って、透明な場所に、僕はたった一人で立っていた。

*

最後のホームルームを終え、教室は空っぽになった。
誰にも見えない僕は誰にも見えないまま一人残されて、それから教室を出た。
廊下も静かだった。
壁に並ぶロッカーも、プレートや鍵を外されて、もうどれが誰のものかもわからない。

――いや。

一つだけ、扉がへこんだ、明らかにいびつなものがある。
浦田しおりのロッカーだ。数えきれないほど何度も蹴られたり、落書きされたり、鍵を壊されたりするうち、いつしか浦田さんはロッカーを使うことをやめた。だからその中身はずっとからっぽだった。
そのはずだった。
だけど。
空のはずのそのロッカーにだけ、小さな南京錠がかかったままになっていた。
鍵がかかったままの……。
鞄が手から滑り落ちる。僕はそれを放置したまま階段を駆け下りた。
昇降口まで一気に下りて、自分の下駄箱に手を突っ込んだ。そこには、小さなビニールに入った小さな鍵があった。
それはちょうど、小さな南京錠に使えそうな。
僕はそれを握りしめ、今度はゆっくりと、階段を上った。
誰もいない廊下に戻り、浦田さんのロッカーの前に立つ。
うまく動かない指先で、鍵を鍵穴に当てる。
かちりと、あっけないほど軽い音を立てて鍵が開く。

――この中に何が入っているっていうんだ。なんで僕に鍵なんてよこしたんだ。

思考がまとまらないまま、僕は恐る恐る取っ手に手をかける。歪んだ鉄の扉は、力を入れて、ようやく開いた。
そこには、たった一つのものだけが置かれていた。
青いタオル。
あの時、僕が浦田さんのいるトイレの前に置いた。
それが、丁寧にたたまれて、置かれていた。
タオルに向けて手を伸ばす。ただそれだけの動作で、油の足りないブリキみたいにひじが軋んだ。
タオルを手に取ると、何かがかさりと音を立てた。
タオルを開くと、中から宛名も何もない、白い封筒が現れた。
体のどっかをいじられたみたいに、五感が急に鋭敏になった気がした。血液が血管の中をすごい勢いで流れていくのが、頭のなかにごうごうと響く。どこかの窓が開いているのか、外から卒業生のはじけるような話し声も聴こえる。それに対して、廊下は耳鳴りがするほどに静かで、封筒を開く小さな音が、果てしなく響いていくような気がした。

『松島くん

あの日、タオルを置いて行ってくれてありがとう。
すぐ返そうと思っていたんだけど、下手に返すと、松島くんまで何か言われてしまうかもしれないと思って、どうしたらいいかわからなくて、ここに置きました。
あの日、本当に助かりました。
ちゃんとお礼が言えなくてごめんなさい。

もうすぐ、自由登校になりますね。そしたら私、もう一回も登校しないつもりです。
それで、受かったら、関西の大学に行こうと思っています。
そうしたら一人暮らしして、旅行サークルとかに入りたいなって思っています。
そんなことを考えていると、勉強は苦じゃありません。

こんなこと書かれても困りますよね。ごめんなさい。
でも、どうしても残しておきたくて、迷ったけど、書きます。
じゃないと、私の三年間、どこにもなくなっちゃうような気がして、

ごめんなさい。
松島くんもきっと受験するんだよね。
がんばってね。

浦田しおり』

初めて読む浦田さんの字は、浦田さん本人みたいに、どこかに消えたがってるみたいに細くて小さかった。
その手紙を、僕は読んだ。
何度も何度も。
ぱたりと水が一滴落ちて、ただでさえ薄い文字をさらに滲ませる。
慌ててそれをぬぐおうとしたら、また水が落ちた。ひとつ、ふたつ、白い便箋に落ちてまたそこを汚す。

『松島くん』
『ありがとう』
『ごめんなさい』
『がんばってね』

喉の奥から、つぶれたような音が漏れる。それは、自分でも忘れてしまった、自分の声だった。
言葉を知らない獣みたいな嗚咽を漏らしながら、僕は廊下にうずくまった。

浦田さん。

春になる前に僕がこの手紙を見つけていたら、あなたは今日この場所にいたのだろうか。
春になる前に僕がこの手紙を見つけていたら、僕は透明人間じゃなかったのだろうか。
春になる前に僕がこの手紙を見つけていたら。
僕たちは友達になれたんだろうか。

「うらたさん、ごめん……」

ずっと言いたかった。
ずっとずっと、この言葉が胸につかえていた。
かさかさに乾いたその言葉が、誰にも聞かれることなく、リノリウムの床にただ落ちてゆく。

四角い窓は開け放たれて、あんなに待ち望んでいた春を、どこかから運んできていた。

〈了〉

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ハッピーになります。