見出し画像

エッセイ:汽水記 第3回/「彼岸のことはわからない」

 ふしぎなことに、子どもの頃に培ったイメージというのは大人になってもひっそりと続いている。

 たとえば「曜日」なる存在は未だに子ども時代の習い事別にイメージとして区分けされていて、月から土までいずれの曜日もひとつかふたつの習い事に行っていたわたしは、朝起きて今日が月曜日だと知ると「お習字の日」というイメージに包まれながらその一日を開始する。帰宅して眠り、翌日になれば、火曜日は「公文と英語の日」。水曜日は「絵の日」、明けて木曜日は「ピアノと塾の日」、金曜日は「公文と英語の日」、土曜日は「テニスとスイミングの日」。日曜日は自由の日。

 もうどの習い事にも通ってなどいないのにその習い事のイメージだけが頭にも身体にも色濃く強烈に染み付いていて、たぶんこれからも一生、わたしはこの感覚のなかで生きていくんだろうなと思う。

*******

 ところでわたしは、算数と数学が壊滅的にできない。

 「できない」と「苦手」はちょっと違っていて、何かしらのものごとに対してそれを「苦手」だと感じるには「ある程度のできる」まで辿り着かなくてはならないと思うのだけれど、わたしはその「ある程度のできる」まで進むことができず、子どもの頃に算数の道のりをぜんぜん歩けなくなって、その場に呆然としゃがみこんでしまった。

 どれくらい算数ができないかというと、羞ずかしいのを承知で正直に書けば、まず、いまこの年齢になってさえ二桁以上の足し算・引き算・掛け算・割り算が満足にできない。

 暗算できるのは一桁同士まで、といっても、手もとに電卓があれば二桁以上の計算でも正確な数字をはじき出すことは可能だし、紙に筆算を書けば「16+7」などの比較的容易なものであれば答えを出せる。けれどその数字のどこかに「9」が入っていたり、「28+37」など二桁同士以上の計算になってしまうと、筆算を用いても解を導き出すのに2分以上はかかってしまう。

 そもそも数字をイメージすること自体がわたしにとってはなんだかとても難しくて、その感覚を言葉にするのも難しいのだけれど、たとえば「みかんが10個あります」という言葉を示されても、現実に手もとにみかんが10個あって指でひとつずつ数えなければ、それを「分量」としてイメージすることがかなわない。個数でさえ戸惑うものだから、「花子ちゃんは10km歩きました」の10kmそれ自体だったり、「この瓶には水が1ℓ入っています」の1ℓそれ自体も理解できず、ましてや「1ℓは何㎖」などというのは、提示されたその瞬間、この世界に一体何が存在しているのかわからなくなってしまうので思考回路が完全にショートする。

 「みかんが10個」の数字とイメージと現象がどうしたって頭のなかで結びつかないために、たとえば「みかんが10個あります。そこに花子さんがりんごを9個加えます。その合わせた数の倍の数のぶどうを光雄くんが持ってきて、それを4人で分けることになりました。果物はひとりいくつに分けられるでしょうか?」という文章問題になった時、焦点を数字から計算へと移行することもできないし、なんとか移行できたところで、わたしにはそれをきちんと計算することができないのだ。

 実際に指でひとつずつ現物を触って数えなければわからない、というわたしの生まれつきの変な癖みたいなものは、算数をやるのにたぶん大きなマイナスポイントだった。

 現実にこの手で触れない四角形の面積を計算する時、マス目やチョークを使って図形をわかりやすく分解し、どんなに視覚的にその公式を説明してくれたとしても、それが数字であるという時点で、計算があるという時点で、そこで一体何が行われているのかを理解できない。

 「37800円」という会計が出された時、尻尾の0から左に向かって「一」「十」「百」とひとつずつの数字をゆっくり指で数えていかなければ、それが「さんまんななせんはっぴゃくえん」なのだと言葉に変換することができない。価格の数字の切れ目に「、」が入っていたら、数える時にまるで石につまずいたみたいに不安になってしまうから、二度三度読み上げてみなければわからない。

 小学1年生以降の算数や数学という存在は、わたしにとってはベタ塗りで潰された絵のように茫漠としたイメージだ。

 算数ができなさ過ぎるそのせいで、子どもの頃から生活のなかで数字そのものを見ることさえひどくおそろしい。数字を直視できなかったり、一般的に簡単だといわれる足し引き掛け割りの計算すらできないと、大人になった今でも、単純にいろんなことが難しい。

*******

 公文だの塾だのは算数が壊滅的にできないそんなわたしをなんとか人並みにもっていってあげなければという親の気遣いによる習い事で、そんな中、唯一わたしが自分からやりたいと小学3年生の時に申し出たのがピアノだった。

 ピアノは飛び抜けて月謝が高いと眉をひそめられたのを憶えている。それでも親はわたしの希望をかなえてくれて、見つけてきてくれたのは自宅から二駅先の乾いた川沿いにあるヤマハの音楽教室だった。

 ヤマハは雑居ビルの二階にあり、同じビルの三階には、のちに中学に上がってから同じ木曜日に通うことになる学習塾があった。三階の階段をのぼっていく小中学生たちはみなきびきびとした硬い顔をしていたけれど、二階のヤマハでとどまる子どもたちは、みなのんびりふんわりした空気を纏っていのが今でもとても印象的だ。

 小学3年生は、子どもが一からピアノを習うには少し遅めの年齢だということに小学生のわたしも気がついていた。ピアノを習っている友達はいずれも幼稚園頃からはじめていて、学校の音楽の授業の前にはその子たちが得意げにピアノを演奏してみせていたものだから、自分もようやく彼女たちのように鍵盤を触れるのだという喜びに心が躍る一方で、遅れて始めた自分がどれだけ練習したとしても絶対に彼女らの技量には追いつけないのだ、という羞ずかしさで、なんだか後ろめたいような気持ちだった。

 最初にわたしの担当になってくれたのは、仮名で久原舞子先生という女のひとだった。齢はたぶん二十代後半、といったところだったと思うけれど、子どもの目には大人の女のひとは誰だって母親と同年齢に見えてしまうものなので、正確な年頃はわからない。

 久原先生は「やわらかい」という言葉がそのまま擬人化したみたいな、やわらかく優しい顔立ちをしていた。やわらかくて、とてもおとなしいひとだった。通っていたヤマハ音楽教室は受付を通ると五つほどの防音室に分かれていて、緑色のぶ厚い鉄の扉を開けると、タテに三畳を並べたほどのあまりにも狭い部屋に、アップライトのピアノが一台据えられている。ほんとうに狭いので、生徒は蟹歩きでピアノの座席に近づいていくのがお決まりだった。防音室は異様な圧迫感があり、身を固くして入室するわたしを、久原先生はいつもやわらかな笑顔で出迎えてくれた。

 狭い防音室のピアノの奥に座ってわたしを迎えてくれる先生は、まるでお伽話のなかの、塔に幽閉されたお姫さまみたいだと思っていた。

 やりたい、と自分から申し出て、気後れはありながらも絶対に楽しく通えるはずのそんなピアノ教室だった。

 けれど、わたしは思いがけず初手の初手でつまずくことになる。

 原因は算数だった。

*******

 何かしらの音楽をやったことのあるひとならわかるはずなのだけれど、音楽は数学的な要素によって構成されている。音階を表象する記号、その記号を用いた譜面のしくみ、小節、調、拍。音楽のなかにひそんでいる数学的なものは挙げれば挙げるほどキリがなくなるし、それについて考えれば考えるほどわたしの頭が保たないのでひとまず割愛するけれど、とにかく、ひとつの初歩的な指練習曲を弾くにあたってさえ弾き手はその譜面を算数的に読解しなければならないのだということに、子どものわたしは衝撃を受けた。

 ドから音を五つ駆け上がればラ。たとえばそんな音符の初歩さえも、わたしは何年経っても瞬時に読むことができなかった。どれほど勉強をしても、壊滅的に(生理的に?)譜面が読めない。わたしは結局、その久原先生に担当してもらっていた五年ものあいだ、幼児向けの指練習曲集(某人間のイラストで有名な「バーナムピアノテクニック」)から卒業することができなかったし、同時並行で進めていたバイエルなどのクラシックのピアノ曲集は、楽譜をコンビニでコピーして、五線に記されている音符と記号のすべてを指でひとつずつ数えあげ、読み仮名をふり、独自の珍妙な記号を書き込み、先生にはそれがバレないよう暗記して、とりあえず鍵盤を押せば音は鳴るのだからと大部分を勘で乗り切るという、なんともお粗末な生徒だった。

 この音の並びであれは短調。ヘ音記号がついたからこの音はふつうのラではない。この音符とあの音符はオクターヴ。ここは何分の何拍子。そんな組み合わせで織り上げられるピアノの楽譜は、「みかんが10個あります。そこに花子さんがりんごを9個加えます。その合わせた数の倍の数のぶどうを光雄くんが持ってきて、それを4人で分けることになりました。果物はひとりいくつに分けられるでしょうか?」という算数の文章問題と、わたしにとってはまったく同じ謎の物体だった。

 バレないように、と書いたものの、たぶん確実に先生にはバレていたはずで、自分から習いたいと言ったにも関わらず、わたしは鬱々とした気持ちに押し潰されていき、やがてピアノは行きたくない習い事のナンバーワンになってしまった。

*******

 小学6年生の夏、バイエル終了程度のエステン「お人形の夢と目覚め」をようやくよちよち弾けるようになった頃、久原先生は出産のために退職することになって、通い出して五年目に担当の先生が変わった。

 新しい先生の名前は、驚くべきことに退職した先生とまったく同じ名前で同世代の「久原舞子」先生だった。

 二人目の久原先生は、一人目の久原先生とは正反対のとてもはっきりしたつよい顔立ちと表情をしていて、一人目がルノワールの描いた女のひとだとすれば、二人目はフリーダ・カーロの描いた女のひとであるくらいにまったく違う系統だった。新しい久原先生はとても饒舌で、闊達で、どんな仕草も凛々しく大きく、普段はオペラの伴奏者として年に数度はステージに立っていたらしい。

 久原先生(ここからの久原先生はすべて二人目)は、数度もレッスンをしないうちに、わたしがこっそりと自己流で練習していることに気がついた。

 ある日とてもさりげなく、今日は最初の1ページ目を鉛筆でぜんぶ書き込む日にしようか、と久原先生はわたしを見下ろし微笑みかけた。

 その言葉を聞いた時、心のなかで、驚きと安堵と、それから羞恥心の三つが混ざり合って、まるで爆発するみたいだった。書き込むうちに羞恥心がまさってきてわからない箇所を伏せたまま遠慮がちに音符や記号に読み仮名をふっていたら、久原先生は明るい笑みをたたえて「もっと細かいほうがきっと見やすくなるよね。ぜんぶ文字にしちゃお」と自ら鉛筆を取って、ひとつずつ口と指で説明しながらぜんぶの記号に読み仮名を書き込んでくれた。

 明るい瞳で真剣に鉛筆をもつ先生の横顔を見たその瞬間、わたしのなかの羞恥心がみるみる大きな安堵に覆われていった。

 自宅の電子ピアノに収録されているものを何度も聴いて勘で憶えて再現しているとわたしが言えば、久原先生は自分が演奏したその曲をテープに焼いて渡してくれた。耳コピできるほどの正確な音感はないけれど耳馴染みのある曲であればなんとか再現に近づけられる、というわたしのために、「エリーゼのために」の合格以降はクラシックを一切やらず、久石譲などヒーリング系のポピュラーミュージック、J-POPや有名な洋楽などの私物の楽譜をわざわざ印刷して持ってきてくれるようになった。ブルグミュラー程度の曲集もまともに終えられていないのに、こんなたのしいものを自分の好きなように弾いていいのか、というわたしの戸惑いを、久原先生はびっくりするような豪快さで包み込む。

 そんなユニークな先生だったからどんなことでも話がしやすかった。いつだったかは憶えていないけれど、わたしは「何年習っても、どんなに頑張って勉強しても、ぜんぜん楽譜が読めない。なんて書いてあるのかがほんとうにわからないし、拍とか調という記号のイメージが現実と繋がらなくて、ぜんぜんわからない」と自分の欠点をきちんと正直に伝えることもできた。すると先生はやっぱり明るい逞しい笑顔を見せながら、だいじょうぶ。と、わたしの髪をクルクル撫でるのだった。

 楽譜のなかで逆にどれならわかるのか、と久原先生は訊いてきて、ちょっと考えてからわたしは、「表現の意味みたいなのならわかる」と言った。クレッシェンドはだんだんつよく。デクレッシェンドはだんだん弱く。スタッカート。スラー。ピアノ。そういうのはなんとなくわかる。書いてあるのを見てすぐに手で反応はできないけれど、音符よりもなんとなく文字とか光景に近い気がするから。

 そうわたしが答えたら、久原先生はその日から、曲の部分部分について「せせらぎが石にぴちゃっと跳ねるみたいに」「遠くのひとを呼ぶように長く大きく」「フラットが付いてるから、ちょっとだけ暗く、ここは毎回、洞窟のなかみたいな音が鳴る」と様々な比喩を用いて説明してくれるようになって、さらにはその比喩を楽譜に文章で残らず書いてくれるようにもなり、それはとてもわかりやすく覚えやすくて、しだいに先生は、音が間違っていても楽譜とぜんぜん違っていても、全体の雰囲気がいい感じならそれでもう全然オッケー、とにかく気持ちよく弾こうよ、自分のイメージどおりに鍵盤押すのたのしいでしょ、みたいな大らかさでもって、仕上げた曲の楽譜に赤丸を付けてくれるようになった。

 大人になった今わたしはもうほとんどピアノを触ることはなくなって、代わりに小説を読んだり書いたりするようになったのだけれど、小説と向き合う時に、その「構造」や「仕掛け」や「テーマ」ではなく、なによりも文章自体の「比喩」や「描写」の表現に魅力を見出したいという意識や嗜好は、子どもの頃に体験したそんな久原先生の「比喩による表現重視の音楽メソッド」に、もしかしたらちょっと関係があるのかもしれないな、とふと思う時がある。

 もちろんそれらがけして対称的な存在ではないからこそ、要素同士を補完しあうことができるのだけれど。 

*******

 ピアノに通うのが少しずつ好きになってきていた。ちょうどその頃に読んだのが、江國香織の『神様のボート』だった。

 かつてある男と骨ごと溶けるような恋をした女・葉子と、その甘く熱い恋から生まれた娘の草子。母娘ふたりきりがまるで小さな木の手漕ぎボートに乗るようにして、東京周辺の郊外でたゆたゆと引越しをくりかえしてはその場その場でしずかに暮らしをたてていく。骨ごと溶けるような恋をした相手・必ず戻るといって消えた〈パパ〉をふたりは追いつづけていくけれど、何の手がかりも保証もないから再会できるはずもなく、けれどもう引き返せるはずもなく、音大出の葉子はピアノ教師として行く先の町でほそぼそとピアノを教えながら、夜はスナックやバー、カフェなどの飲食店接客で働く。どの町でも葉子はこのふたつの仕事にセットで就く。葉子はクラシックも教えるけれど、ふつうのひとの道からほんの少し外れて旅立ったように、ポピュラーミュージックやジャズをより愛し、弾き、教える。ロッド・ステュアートなどの甘ったるい愛惜を帯びたピアノのメロディに縁取られつつ、母娘は互いのスケジュールを日々、曜日で管理し、度々それを思い浮かべる。

 散歩から帰ると、あたしたちは一緒に朝ごはんを食べた。それからママはお店にでる。『ハル』は昼間もやっているので、ママは週末、昼間からいない。ママのスケジュールはこんなふうだ。月曜日 『ハル』の定休日。午前中にピアノのレッスン一つ。火曜日 夕方から『ハル』。水曜日 午前中にレッスン二つ。夕方から『ハル』。木曜日 夕方から『ハル』。金曜日 夕方から『ハル』。土曜日 昼間から『ハル』。日曜日 朝あたしと散歩。昼間から『ハル』。 今度生徒が三人ふえるという。木曜日と金曜日の午前中にいれるつもりなのだろう。仕事は大切よ、と、ママは言う。煙草とコーヒーとチョコレートがママの栄養源で、仕事がママの安定剤、パパがママの生きる理由で、あたしがママの喜びで宝物なのだ、と。(P174)

 恋の狂気に浸されつづける頼りなげな母親とは対称的に、娘の草子はたくましく、また理知的で、『神様のボート』では、そんな草子の小学三年生から高校一年生までの時間が描かれる。

 母親の恋の物語がまるで寝入り端に聞かされる日本昔ばなしのように同じトーンでひたすらくりかえされていく一方、子ども時代の草子の視点は毎回とても色鮮やかで新しい。そして懐かしい。曜日の感覚も、登下校に関する自分なりの細かなルールも、サイボーグの人形やくまのぬいぐるみをつかった寝床での空想遊びもなにもかも、自分の子どもの時の感覚に巻き戻されるように読んでしまうのが病みつきだ。

 甘くやさしい子ども時代。母と過ごした長い長い時を経て、まるで幹から独立するようにやがて「まっとうな感覚」を手に入れた彼女は、〈パパ〉という男はもうぜったいに自分たちのもとへ戻ってくるはずがないのだと気がつきはじめる。ふたりきりの小さなボートの生活は、草子が大人に近づくにつれて音をたててきしみ出す。永遠のような過去の恋のなかに生きる母の葉子も、いま自分が足をおろしているのが夢の波間ではなく現実の硬い地面であることに、子どもでなくなっていく娘の挙動を通して引き戻されるのだった。

 神社の石段をおりながら、私はあのひとのことを考える。二日ひげを剃らなかった三日目の顔や、歌をうたってくれるときのやさしい声や、煙草をすうときにすこしだけひそめる眉や、ベッドで足をからめたときの、びっくりするほどの体温の高さを。――いつも一緒だよ。そう言ってくれるときのまなざしの真面目さを。それから草子のことを考えた。白いブラウスに紺色のチョッキ、紺色のプリーツスカートという制服を着て、毎日学校に通う草子のことを。――ママはもうすこしリアリストになった方がいいと思うな。そんなことを言うようになった草子のことを。人形のアリーもピンクのくまも、草子はいつのまにかどこかに片づけてしまった。いつかあのひとに再会し、草子のことを告げたら、あのひとは何て言うだろう。(P193)

『神様のボート』を初めて手にした小学6年生の時、この物語の世界の人間たちがほんとうは一体どう絡みあっているのか、一体どのような関係性のもとに結ばれているのか、わたしは何度読んでも理解することができなかった。

 おもな登場人物は先に書いたように母親の葉子、娘の草子。そしてそんな彼女たちの旅を守護するようなふたりの男が登場する。骨ごと溶けるような恋の相手〈あのひと(パパ)〉と、 葉子の音大時代の指導教員でありかつての結婚相手でもある〈桃井先生〉だ。草子はあのひとの子どもで、母の結婚相手である桃井先生の子どもではないけれど、葉子があのひとと出逢ったのは桃井先生との結婚生活の最中だった。あのひととの恋にとろけ落ちた葉子はあのひとと駆け落ちするものの、「かならず戻ってくる」と言い残してあのひとは突然葉子のもとを去り、桃井先生のもとへ帰った葉子は彼に見守られながら草子を生み、しかし、あのひととふたたびめぐり逢うため、赤ん坊の草子をひとり抱き、桃井先生のもとを立つ。そしてつぎつぎに町を移っていく。

 文庫で300ページ近くもある『神様のボート』で、ふたりの男は葉子の「過去の物語」としてのみ語られつづける。葉子の言葉のなかにしか彼らの光景は存在しない。過去の恋にイカれてしまっている葉子はあのひとについても桃井先生についても、くりかえしくりかえし、ほとんど同じ台詞でもって娘の草子に語り続けるけれど、自分に都合のいいように過去の記憶をねじまげているから、彼らについての肝心な情報はすべてぼやかせてしまうのだ。

 葉子による情報のぼかしと、甘い嘘で塗りかためられたわずかな記憶。『神様のボート』では〈語られないこと〉があまりにも多すぎて、草子の子どもとしての視点や日常が鮮やかに描写されるぶん、母親葉子の恋愛事情はよりいっそう不穏さを帯び、小学6年生だったわたしは葉子の激しい恋愛の構図をまったく理解することができなかった。それはたぶん娘の草子が母親に抱く理解不能さとシンクロしていた。

 『神様のボート』がいわゆるダブル不倫的な物語であるのだということ、あのひとと葉子は〈地中海のなんとうかいう島の、リゾートコテッジ〉のプールサイドで〈午後の戸外の飲み物として、あんなに幸福なものはない〉シシリアンキスというカクテルを飲み睦みあっていたのではなく、おそらくは貧しいアパートかラブホテルのどこかに身をひそめて束の間の恋をむさぼり、疲弊し、草子ができて別れたのだということ、それらの〈真実〉をわたしが理解したのは、二十歳を過ぎて久しぶりに再読したその時だった。

 子どもだったかつてわたしは本に記された文字や光景を単純に追うことはできても、葉子のすむ世界を何ひとつ感じとることができていなかったのだ。彼女の物語のその狂気は語られなかったそのぶんだけ、大人になってこの世界を把握しはじめたわたしのもとへ強烈な目醒めのように押し寄せた。精神的あるいは肉体的に大人になったことで、ようやく物語の構図が理解できた小説。たとえばそれは、電気を消された座敷部屋で寝たふりをしていた子どもが、隣の薄ら明かりの点く部屋で家族や親戚の大人たちが夜中でもまだ起きていて、たのしげに何かをしているのを感じ取ってはいても、彼らが一体そこで何をしているのかがぜんぜんわからなかったのとよく似ている。自分が大人になってみれば、あの頃幼い自分たちが寝静まったあとに大人たちが一体何をしていたか、それを想像することはとても容易く、またとてもありふれた、陳腐な光景なのだ。

 子どもには、そして他人にはけしてわかりえない、恋愛という閉ざされた底知れぬ狂気。

*******

 理性よりも感性のつよかったピアノの久原先生は、わたしが中学二年になった頃、突然調子をくずしてしまった。

 毎週木曜日にヤマハの防音室の扉を開ければいつでも笑顔で迎え入れてくれていた久原先生のその顔から、急速に生気がうしなわれていった。輪郭のはっきりしていたユニークな指導も徐々にぼやけ、わたしが鍵盤の上で何分も指を迷わせていてもそれをただひたすらしんと眺めていることが多くなった。隣り合うその身体が異様に痩せていっているのもわかった。ついにはわたしが楽譜をひらくまで貧血患者のように無言で椅子にもたれかかるようになっていて、ある日、久原先生はわたしにレッスンすることをやめた。

 今日はピアノは弾かないのだと前置きして、「これは磯貝さんには言っておかなきゃいけないことなんだけど」と、先生はわたしの手を自分の膝に引き寄せた。

 どうしても芸術にすがらなきゃいけない時が来ると思うの。

 先生は唐突にそう言い放った。その時の先生の、鱗みたいにぬるりと暗く光った眼の色をわたしは今でも鮮明に憶えている。

 どんなにしんどくても自分のなかでなんとかしなきゃいけない問題っていうのは絶対に存在していて、そんな時に芸術はなによりも自分の支えになる。

 そのようなことを久原先生は宙を一点見つめながら一心に語りはじめ、わたしは完全に動揺した。ぶ厚い防音扉のむこうにはすぐそこに受付カウンターがあって、そこにはヤマハの社員のお姉さんたちがいるというのに、久原先生はレッスン開始から三十分以上経過してもその日はまったくピアノを触る気配なく、ただひたすら、感情からどろどろに漏れ出したような得体の知れない言葉をわたしに吐露するばっかりで、話を聞いているうちにそれがおそらく彼女の恋愛絡みの内容なのだということに薄っすら気づきはしたものの、中学の制服を着ていたまだほんの子どもだったわたしは、病んだ彼女の放つ異様なオーラにただただ圧倒されて、ぽかんと口を開けていた。

 わたしには芸術しかない。誰かを愛して傷ついた時、助けてくれるのは芸術しかない。そして「磯貝さんもそういうことを知っておかなければいけない種類の人間だと思う」などと一時間ほど語り続けた久原先生は結局その日はひとつもレッスンすることなく、翌週は少し鍵盤に触れたもののやはり後ろ暗い恋愛と芸術の話をどろどろ語って、その半年後に開催された定期のピアノ発表会が済むとわたしはじきにヤマハの教室をやめた。

 久原先生の変貌ぶりに引いてしまったからピアノをやめたわけではない。20人くらいの所属生徒が出演するピアノ発表会で自分がいつのまにか最年長の生徒になっているのだと知り、単純にそれが羞ずかしくなって、教室はもうやめてしまおうと思ったのだった。自分よりずっと齢下の子が達者に鍵盤を叩き、ベートーベンの難しいソナタを弾きこなす中、わたしは久原先生から最後に習ったポピュラーミュージック、アンドレ・ギャニオンの『めぐり逢い』と西村由紀江の『せせらぎ』を力まかせによちよち弾いた。

 あの唐突な変調の日を境に先生はわたしにピアノを教えながらいつも恋愛と芸術の話ばかりするようになって、だからどちらの曲も彼女の情念による抑揚が染み付いてしまい、発表会ではなんだかどろどろした仕上がりだったし、いまでも時おりこの二曲を弾くと、自分の隣に久原先生が腰をおろしてわたしに恋愛の呪いをかけているみたいな気持ちになる。

 『神様のボート』の世界で何が起きていたのかを大人になって初めて理解した時と同じように、久原先生にあの頃何が起きていたのかを、わたしは自分が恋愛をするようになってようやく理解しはじめる。病んだ自分自身の心を慰めるように先生がわたしに語っていた恋愛と芸術に関するふしぎな話は、はっきり言えばひどく陳腐な内容と台詞だったし、15歳ほども齢の離れたピアノ教室の一生徒に「磯貝さんもそういうことを知っておかなければいけない種類の人間だと思う」とまで口にしたのはあまりに異様で、公私混同のきわみだとしか思われない。けれどあの時彼女が語った言葉は妙にわたしの記憶に刻み込まれていて、それがぜんぜん嫌な感触ではないのだった。久原先生の存在はいまもいつでもわたしのなかに強く在る。

 彼女と過ごした時間はそんなに多くはないけれど、ひとつひとつの記憶が屹立している。子ども時代、薄ら明かりに照らされた大人だけの隣室をこっそり覗き見たノスタルジックな記憶のように、久原先生のいた光景が今でもふいに蘇る。そして少しずつ、当時彼女の対峙していたものが何であったのか、それがゆっくり解きほぐされる。

 一度だけ伊丹のイベントホールに久原先生が伴奏で出演するオペラを観に行った。とても寒い夜で、放課後、凍えながら迷いながらなんとかホールにたどり着いた。受付で配られたのは久原先生自身が翻訳したポール・エリュアールやボードレールなどのフランスの詩のプリント冊子で、舞台ではそれらに曲をつけられたものが歌われていた。訳された言葉の端々に異様な気迫が漂っており、そこでもまた、先生の芸術に対する執着と依存を感じた。

 終演後のホールで先生と挨拶した時、達成感に満ち満ちた彼女のそばに寄り添っていた四十代の品のいい男性は、きっと彼女の家族でも正式な彼氏でもなかったのだと大人になったわたしはようやく思い至る。

 それに気がついた時のふしぎな感触は、大人になったわたしが『神様のボート』のページを手繰った時ととてもよく似たものだった。

 『神様のボート』の葉子のパートが、まるで何かから自分の存在を頑なに守るかのように、すべて異様に陳腐な台詞で満たされていたそのわけは、きっと大人にならないとわからなかった。いまでもわからないことはたくさんある。わからないことはおそらく永遠にありつづける。

 ボートはどこへ行くのかわからないし、此岸のことはわかっても、彼岸のことはわからない。

小さな、しずかな物語ですが、これは狂気の物語です。そして、いままでに私の書いたもののうち、いちばん危険な小説だと思っています。  一九九九年 初夏  江國香織  (あとがき)

 

引用:江國香織『神様のボート』/新潮社, 新潮文庫, 2002年7月1日発行

イラスト:ヒキコモリーヌ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?