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感じることの「非」重要性【コラム#054】

このテーマを含む講座前のひとときw
ショートコラムとして。


■「感じる」はどれだけ磨いても万能ではない


特に感じることに長けている人によく見られること。五感感覚で感じること、感情として瞬時に感じること、感性として感じ得るようにわかることの全てを含む。
は、

【感じるという一大体系のカテゴリ】

でしかない。重要であるとかないとかではなく、感じることで得られることは感じることの結末しかない。
感じることに長けていると、それが「正しい」だとか、「人が感知できないところまで感じ取れる→いろいろ知ることができる」とか、さも素晴らしいことにように思われている。

だけど、そういう人のほとんどが感じるカテゴリ以外、例えば考えるカテゴリが得意でないことは多い。
でも今回書きたいのはそういうことではない。


■感じるでも考えるでもない場所に真実への扉がある


感じることはなぜ感じているのかというと、外界を把握するためだ。把握するということは知るということで、知るの中にわかることが含まれる。
知る方法は感じることに頼らなくてもできる。例えばニュースを見るだけで知ることができることはたくさんあり、しかもその大半は感じることでは一生かかっても知り得ない。

「考えるな感じろ」とか「いや感じるな考えろ」というようなことを言いたのではない。

感じることに限界があるなら(あるからカテゴリだし能力値なのだが)、感じる以外、感じる以上のことは知りようがない。直感や霊感、超能力などもここに含む。全て感じることの上位互換でしかない。

それらで知り得ないものを知るのに、感じるでも考えるでもなく、第3第4の道に踏み込むのは当然のことだが、何しろ感覚のようなセンサーがないので誰もそうしないし、気が付いてすらいない。

超常現象のことを言っているのではなく、ただの心身機能として感じることや考えること以外に世界を把握する方法はある。カテゴリが違うのだから感じる延長や考える延長にはない。独立して別のルートがある。
ところが感じることに長けているだけで、このルートは全く無視されて葬られてしまう。感じることに自信がある人は、感じたことが正解だという傲慢な態度が見られる。限界のある物事で別の物事を測っているのだから、一面的には正しいとしてもそれが本当であるはずがない。このことに気がついていない「感じる人」は少なくない。

ということを(も)この後始まる知覚構造心理プログラムで論理的に、本質的なことを話す。



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