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阿佐ヶ谷・とある事件を目撃した神社~東京を念入りに散歩する~

馬橋稲荷神社(阿佐ヶ谷)


東京を、誰よりも念入りに散歩してみようと思う。

はじめての試みなので、個人的に思い入れのある場所から始めたい。
十八歳で上京した僕が、一人暮らしを始めた街、杉並区阿佐ヶ谷である。

若かった僕は、この街でたくさんのお酒を飲んだ。そして、たくさんの人と出会った。「一番街」では何度酔いつぶれたか分かったもんじゃないけれど、楽しい思い出は数えきれないほどたっぷりある。

JR阿佐ヶ谷駅から高円寺方面に6分ほど歩くと、ひっそりとした住宅街のなかに、馬橋稲荷神社が現れる。

馬橋稲荷神社入口/撮影はすべて北山

このあたりは、かつて馬橋村と呼ばれており、当社は村の鎮守だった。

境内に一歩足を踏み入れると、参拝者は本殿まで続く細長い参道を歩くことになる。入口に聳える龍の巻き付いた石鳥居は有名らしく、なにやら「東京三鳥居」のひとつに数えられるそうだ(が、これはあまり重要ではない)。

参道の脇には背の高い木々が整然と立ち並んでおり、ふらふらと一本道を歩いている参拝者は、やがて都心にいる感覚を失ってしまう。とくに灯篭に明かりが灯される夜に参道を歩くと、まるで夢の中にいるような感覚に陥る。

有名らしい石鳥居

当社の創建は鎌倉末期だと伝えられている。祭神は宇迦之魂神と大麻等能豆神だ。

稲荷社が農耕と関わりの深い神社であることは、よく知られている。
いまではその面影すらも感じることができないが、延宝三年(一六七五)の年貢割付状(大谷家文書)をみると、馬橋村には六町三反歩の水田と、六〇町の畑があったことが分かる。一町は三千坪だ。

ここはかつて、広大な畑作地帯だったのである。

馬橋稲荷の神殿の先には、桃園川という雅な名前の川が流れ、さらにその先には一面の田圃が広がっていた。桃園川には、清冽な川にしか住むことができない、イトヨという魚が暮らしていたという。

農業に従事する村人たちにとって、桃園川は農業用水を超えた神聖な存在だった。
日照りが続くと、村人たちは神社の脇からざぶざぶと川へ飛び込んだ。

先達が「帰命頂礼、六根精浄」と音頭をとると、一同が「サンゲ、サンゲ、六根精浄」と続く。
やがて川を出た人々は、用意した井之頭の弁天様のお水をばらまきながら、「アマツノリト、アマツノリト」「六根精浄、ホー、ホー、ノーホイ、ホーホツ、ノー、ノーエ」意味の分からない念仏を唱えながら、村を練り歩く。これが馬橋村の雨乞いだった。

現在の桃園川は暗渠の中

村人たちの中心にあった当社は、数々の歴史的場面の目撃者でもある。

慶応四年(一八六八)五月のある日、彰義隊の敗残兵らしき侍三人が、高円寺村の農家に押し入り、金品と食料を強奪したうえで婦女子に暴行を働いた。怒った村人たちは、竹槍などの武器を持ちより、神社付近で侍たちを殺害したという。彰義隊というのは、平たく言えば幕府の残党である。
何事もなかったかのように佇む住宅街の神社にも、消費されることのない歴史がある。

境内の祠を覗くと、壁に「征露凱旋」と書かれた扁額が掲げられていることに気づく。菊の御紋と、クロスした日の丸と旭日旗。その下に、四名の男性の名前が記されている。これは、日露戦争に従軍していた村の青年たちが、無事に帰還したことを祝って奉納されたものなのだろう。

お気づきだろうか。先ほど引いた史料群の名前は、「大谷家文書」だ。名字から、うち二人は村の有力者の子弟であることが推測できる。
地域の歴史は、こうやって立体感を帯びていく。

教科書の年表からではなく、僕はこうした街場の記憶の断片から、むせ返るような濃度の歴史を感じる。

「征露凱旋」と記された扁額

本殿の前で、僕は村の青年たちが、褌ひとつで川に飛び込む姿を想像してみた。青年たちの肉体は引き締まっている。夏の日差しを受けた水面が、瞳に煌めく。

「歴史など知らない」とすまし顔をしているこの街に、ついこの間までそんな日常があったことを考えると、得も言われぬ心地良さを感じる。

馬橋村の宅地化が進み始めたのは、いまから凡そ百年前のことである。考えて見れば、所詮は百年ぽっちだ。
当たり前だが、この町は農村としての歴史のほうがはるかに長い。

このあたりには、関東大震災をきっかけにして、あっという間に多量の人口が流入した。
やがて桃園川は生活排水が流れ込むドブ川となり、幾度か氾濫を繰り返したのちに、蓋をされてすっかり閉じ込められてしまった。
かつて生息していたというカワウソたちは、住処を失った。イトヨたちもきっと、死滅したことだろう。
地下をひっそりと流れる桃園川に思いをはせる人も、いまとなっては、ほとんどいない。

桃園川を忍んで作られたのか、馬橋稲荷神社の参道の両脇には、チロチロと小川が流れている。なんてことはない溝のようなものなのだが、このおかげで、初夏には蛍が境内を飛び交う。
当社は、密かな蛍スポットとして近所では有名になっている。

どうやら小川にはヒキガエルも住み着いているようで、雨が降るとよく神社の前で立ち往生している。放っておくと車に轢かれてしまうので、これを見かけると足で突っついて境内に帰すのが僕の日課だった。個体の区別はつかないが、多分5匹は助けたと思う。

桃園川にはカワウソもいたという。これは河童だが……。

あのヒキガエルたちには、僕に助けられた歴史がある。

念入りな散歩は、町の魅力を引き立てる。

※散歩はリクエストがあれば続けようと思っています。
散歩場所のリクエストがあれば、コメント欄にお願いします。
(円)


北山:1994年生まれ。ライター。「文春オンライン」、「幻冬舎plus」、『歴史街道』などに寄稿。文系院卒。平日でも1日8時間くらいは寝る。休日だと10時間は寝る。署名は(円)。


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