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おべんとうの時間

あのころ私は、仕事でも私事でも、選べる場合はANAに乗っていた。マイレージカードを持っていたからだ。そして、機内誌『翼の王国』に連載されている『おべんとうの時間』に出会った。

写真は阿部了さん、文は阿部直美さん。夫婦である。発表する場のあてもなく全国の「お弁当の人」を取材し、その後『翼の王国』で連載が始まり、NHK『サラメシ』に繋がっていく。

機内で読んだ漆掻きをする人の記事が、鮮烈な記憶として残っている。ポートレイト、弁当、取材文。機上に私がいる今、地上に漆を搔いている人がいる。

空港の売店で、書籍化された『おべんとうの時間』を発見したときの驚きと歓びは今も忘れられない。知らないうちに3巻も出版されていて、迷わず全巻買ったのだった。現在、4巻まで出版されている。

子どもの頃ね、母が帰ってくると「かあちゃん、かあちゃん、弁当箱ちょうだい」って言ったの。「ほらよ」ってくれた弁当箱の中に、焼いたさざえが入ってた。海女小屋で焼いたんだよね。なんか嬉しかったのを覚えてる。でもね、あの頃、私が海女小屋に行くと怒られたの。ここは子どもの来る場所じゃないって。今はそれがわかる。小屋はひとつの社会で、私も先輩たちから、いろいろ教わってここまできたから。

海女

実はこの前、かぶらの収穫をしてきたんですよ。そう、この酢漬けにしたかぶらが、それです。うちは山焼きした畑にかぶらを植えてあるので、熊がいたらどうしよう、なんて思いながら山の中に入りました。

伶人補

江ノ電に乗ろう。朝、突然思ったんです。仕事が休みで、今日は何をしようかなって思った時、無性に江ノ電に乗りたくなりました。鎌倉で降りてぶらぶらして、ジャムを買おうと思ってここへ来たら、「スタッフ募集」の張り紙。近くの喫茶店で、しばらく悩みました。当時は、パンとケーキの店でケーキ作りを担当していたんですけど、体も心も疲れちゃって。決心して喫茶店を出て、「働かせて下さい」ってお願いしました。1年前のことです。

ジャム造り

当時の家賃は焼酎2本だったのに、それさえ滞ったよ。米も、ろくに買えない。カミさんが、ジャガイモをすりおろして、パン粉と混ぜて、フライパンで焼いて「ハンバーグだよ」って、まだ小さかった子どもたちに食べさせるんだ。「おかーさん、ハンバーグって美味しいねえ」って。参ったね。つむじが過熱するってわかる?金がどうしても必要だっていう時、考えに考えていると頭のつむじが燃えてくるんよ。知らないやろうなあ。

写真家

毎日毎日、弁当箱が腐るくれェ、梅っこ入れたんだよ。弁当箱の同じとこに、梅干し入れるだろ。蓋にまあるく穴があいたの。本当だよ。私ら子どもンころは、黄色いアルミの弁当箱でさ、どの人の見たって、穴あきだ。それくれェ、みんな梅っこばっかりだった。

昔語り部

7年前、新潟県中越地震が起きて村民全員が避難した時には、牛が心配でした。何度目かにヘリコプターで帰ってきた時、牛を繋いでた綱を切って離そうって親父とふたりで決めました。あの時のことは、ちょっとね。気持ちが強すぎて、言葉にできない。

土木作業員

ある時、旅行用の古いタイプの目覚まし時計を持ってきた女性がいたんです。「今だけでもいいから、動かして下さい」って言って、作業してる僕の手元をじっと見ている。うちは店の入り口で修理をするので、見られるプレッシャーもありますけど、お客さんと対話できるのがいいんです。「この時計、遭難してたんです」って言うんですね。捜してた時計が見つからんで、やっと出てきたって話かなあって思ったら、ご主人が登山で事故にあわれて、数年後に本人の荷物が奥さんのもとに戻ってきたってことでした。何とか動きだして、アラームも鳴るようになってね、その方は涙を流して走るようにして帰られたんです。

一級時計修理技能士

実は今の移動車「やまびこ2号」の前は、絵本の「ぐりとぐら」から名前をいただいた「ぐりぐら号」として、皆さんに親しまれていたんです。ところが、使用年数の関係で日本では走れなくなって、アフリカに寄付することになったんです。子どもたちにその話をした後「やまびこ2号」で小学校を巡回したら、「あれ、車が違う」「名前も違う」「タマちゃんがいない」って子どもたちが騒ぎ出したの。ふふふって、物陰で聞いてたら、「やっぱりタマちゃんもアフリカに行ったんだよ」「そうだよね」って、皆で納得してるんですよ。子どもたちにとって、私と移動車はセットなんだなあって思いました。(引用者注:タマちゃんは司書の愛称)

図書館司書

実は私が小さかった頃、父は冬になると出稼ぎに行ってたんです。小学校1年の時かな、父が帰ってくる直前に、大きな箱が何個も家に届いたんですね。「わ(俺)帰るまで開けるな」って手紙もあって。ところが、私が妹を幼稚園まで迎えに行って帰ってくると、あば(祖母)がさっそく箱を開けてました。「2か月も給料送らねえで、こったらもん送って」って。7段飾りのお雛様だったんです。皆びっくりしましたよ。私は嬉しかったですねえ。

公園緑地課作業員

子どもを大学にやれたんも、うちに調理場を建てられたんも、村のお客さんあってのことだからさ、俺にも責任っつうもんがあるよ。俺がやってる間は回るよって言ってるの。

移動販売

うちは、子ども5人が全員男ばっか。子どもほっぽらかして、夫婦で船に乗ってたけど、兄弟仲いいし、何でもできるようになったな。島の店で子どもらがツケで買うだろ。後で伝票見ると肉、肉、肉で参ったよ。あの頃、うちのが「ご飯だよ」って声かけると、2階からやたら大人数の男どもがドドドって下りてきた。「お前らいつ来たんだ」って聞くと、隣から2階の軒づたいに入ったって言うの。皆で食べてると、今度は隣から「ご飯よー」って声がする。うちにいた連中が、次は隣へとドッと押し掛けてくの。大人も子どもも、とにかく人が集まったよ。昔、島に1軒あったスナックに客が2人って時、うちに10人はいたもん。

船頭

中学3年生の時にね、受験勉強しながらラジオの深夜放送を聞いていたんです。そうしたら、離島の妊婦さんが急に産気づいてヘリで本島の病院に緊急搬送されたってニュースが流れたの。島に助産婦がいたらお産ができるのになあ、って思ったんです。私が子どもの頃はまだ自宅出産でね、弟が生まれる時、階段に座ってじっと待ってたの。産声が聞こえてすごく嬉しかった。

助産師

うちは今、息子が4人おるの。ホンマは女の子欲しかってん。嫁に出す時、泣きたかったんやな。でも男ってええで。涙、出るで。年頃の時には、難しいこともあった。でもな、僕が嫁はんに「今日の米、硬かったわ」なんて弁当の文句でも言うたら、息子らはお母ちゃんの味方や。優しいわ。今日のエノキの肉巻は、料理好きの長男が作ってくれたんや。

坏土工場・工場長

今まで、いつも港で見送る側でした。島外に住んでるお姉ちゃん達は年に2回くらいしか島に帰ってこられないので、船が出る時はいつも泣いてましたね。船って、余韻があるからかなり寂しいです。留学生が帰る3月も辛いです。毎年3月に別れて、4月には新しい留学生が来るから気持ちを切り替えなくちゃいけない。小5からずっとそうでした。今度は、次の春に私が行く番で、それはちょっと嬉しいかな。もう寂しい思いをしなくていいんだなって思って。見送るほうが、寂しいんだと思う。

中学生

稀有な本である。全国の働く人や子どもたちを訪ね、お弁当を撮影し、お話を聞く。お弁当の向こう側には、その人だけの物語が広がっている。とても些細なことが心のどこかに引っ掛かっていて、呼びさまされ、語りはじめる。宮本常一のフィールドノートを読んでいるようだ。

お弁当をつくること、つくってもらうこと。それは、続けることだった。何があっても、今日を続ける。

父が亡くなり、忙殺された諸手続きが一旦落ち着き、私はひとり暮らしとなった母に『おべんとうの時間』1~2巻をレターパックで送った。すぐに母から次を送ってくれと催促が来て、3~4巻を送った。

なぜ、母にこの本を送ったのだろうか。母と私の記憶を呼びさます何かがあった。誰よりも遅くまで寝ず、誰よりも早く起き、母は私たちのお弁当をつくった。私が『おべんとうの時間』の取材を受けたなら、何を話すだろう。こんな話になるだろうか。

ある日、台所で母がうずくまってしまいました。ぎっくり腰でした。悶絶する母を見て私たち子ども3人はどうすることもできず、立ちすくんでいました。母はよろよろと立ち上がり、晩ご飯をつくりはじめました。

abashigoya

今月、お金が足りないの。お年玉を貯めてる通帳から少し貸して。母はそう言いました。

abashigoya

本に添えて母に手紙を書くとしたら、封筒を分けて2通書くだろう。1通は、感謝の手紙。心身を削って私たち子どもを育て、生かし続けてくれたこと。そこには、深い愛情と覚悟がありました。

もう1通は、こうなるだろう。あなたはこの世の終わり、ハルマゲドンがすぐに来ると信じている。信者は生き残り、永遠の命を約束される。信者ではない人たち、信じなかった人たちは滅ぼされる。『おべんとうの時間』に載った人たちは、全員その場で死にます。

あなたの信じる真理は、もしかしたら本当かもしれない。仮にそうだとしても、この人たちが一瞬にして死ぬ運命にあるならば、私は一緒に死にます。真理を信じず、邪悪な誘惑に負けたとされて死んでゆく、こんなにもいとおしい人たちとともに。


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