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出不足金を集める

ドアノブにビニール袋が掛けてあった。配布するための県報と市報、一通の茶封筒が入っている。封筒には「溝掃除の出不足金の徴収をお願いします」と書かれたメモが入っている。

夕暮れ時、Aさん宅から始める。ドアの左右に塩が盛られている。一段と高くなっている。明かりがついている。ベルを鳴らす。中で足音がして「どなたですか」と声がする。60代女性のひとり暮らし。「〇号室の〇〇です」と私は言う。それからでなければドアは開かない。

「お休みのところ失礼します。〇月〇日に溝掃除がありまして、出不足金を集めに参りました」
「えっ、溝掃除あったんですか?雨でしたよ」
「たぶん降りはじめる前にやったんだと思います。8時からということになってますけど、7時半には始めてるんですよ」
「え~。どこからどこまでやるんですか?」
Aさんを表に連れ出し、すぐわきを流れる溝に案内する。
「あの角からずーっと草を取っていって、あそこに橋があるでしょ、あのあたりまで掃除して終わりです。だいたい30分です」
「どんな格好で?」
「長靴履いて、鎌もって」
「長靴も鎌も持ってません」
「溝の上で草を集めてごみ袋に詰めて運んだり、という仕事もあります」

Aさんは4、5カ月前に引っ越してきたばかりで、前回は回覧板を見ていなかった、入院していたとのことで徴収せず、班長さんにその旨伝えたところ了解を得たのだった。今回はAさんから出不足金500円を受け取った。

Bさん宅のベルを鳴らす。母子で1年前に越してきた。ドアの窓ガラスには内側から紙が一面に貼られていて、どの窓を見ても真っ暗だった。でも、自転車とバイクがあるので中にいる。思いのほか早くがちゃっとドアが開き、80代の女性が顔を出した。

「すいません。出不足金の集金です」
「出不足金?」
「はい」
「前に住んでたところは年一回で千円やった。業者が来てバキュームカーみたいなのでぶわっと吸い込んで終わり」
「そうですか。ところでアパートの世話人を1年ごとに回してまして、次からBさんにお願いできませんか」
「むりむり、めんどくさい」
「めんどうなのは私もです。息子さんにお願いできないでしょうか」
「むり。絶対にやらないって言う。続けてよ。お願い」

Bさんから500円を受け取り、Cさん宅に向かう。Bさんの次に入居した、70代女性のひとり暮らし。電気がついている。ベルを鳴らすと女性が顔を出した。出不足金とともに、世話人の交代のお願いを打診する。

「いややぁ。むりむり、やりたくない」
「やりたくないのはみんな同じです」
「うまいことやってくれてるから、これからもやって」

足が悪いこと、近くの整形外科が藪医者であること、毎日5千歩を歩いていること。しゃべり続ける。

「回覧板をまわして、出不足金を集めるだけです。5千歩歩ければできますよ」
「いや、やりたくない」

Cさんから500円を受け取り、Dさん宅のベルを鳴らす。アパートで一番長く住んでいる3人家族。50代の奥さんが顔を出す。出不足金をすぐに用意してくれる。次の世話人の話をする。

「先日班長さんが来られて、次お願いしますって言われたので了解しましたよ」
「いや、Dさんはずっとやられてますし、次も私でいいですよ。全然苦ではないので」
「いえいえ、私やります」

BさんとCさんに断られた件を話す。Dさんは納得がいかない様子だったが、年齢や健康のこともあり、ここは穏便にと私は言う。

私は変な人間である。旧弊を嫌い、コミュニティーに帰属意識はなく、町内会など突っつけば「不都合な真実」がぞろぞろ出てくると思っている。都市部で育ち、国内外を転々とし、ムラ社会の実態を目の当たりにして、小さな地方の街に移り住む。そして、年長の地元住民よりも物分かりの良いことを言っている。

町内会を脱会するとか、引っ越すとか、いざという時のカードは持っている。「募金や寄付金を会費に含めるとは言語道断」とアンケートに書いた時は、区長の命を受けた班長がすっ飛んできた。彼らとて、やりたくてやっているのではない。

カードを切る時は一発で、切らないのであれば楽しむことだ。回覧板をまわすとか出不足金を集めるとか、とんでもなく些末なことであり、何年でも闖入者の私がやってあげよう。もっともっと、広い世界があるのだから。

バリ島は夜になると、ガムランの響きに包まれた。音楽の歓び、篤い信仰心。共同体はごく自然に引き継がれる。旅人には心地よい抜け感と潤いがあった。外から見れば、日本にも共同体の美しさがあるのだろうか。

封筒に私も500円を入れ、班長さん宅に赴く。アパートの住人か溝掃除に参加しないことに苦言を呈した奥さんではなく、若いお嫁さんが出てきた。出不足金を渡し、世話人交代を告げて帰った。

生姜をすりおろし、新玉ねぎをスライスし、春キャベツを千切りにする。生姜焼きをつくった。

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