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日常を愛おしく思う瞬間にカメラはいらない。

 先日発熱をして、仕事を休んだ。夜中には39.7℃をマーク、接触の記憶もないが、もしかしてインフルかコロナか、と危ぶみ、家族とは別の部屋で休んだ。
 その部屋は子供部屋だが、まだ幼い2人にとってはおもちゃのある部屋で、そこで遊ぶというよりはそこからおもちゃを取って階下に降りていく、今はそんなふうに使われている。
 仕事を早引けして寝ていた僕の元に、ててて、と子どもたちがそれぞれにやってくる。

だめだよ、父ちゃん風邪引きさんだから、近づくとお熱出ちゃうよ。

 そういうと、3歳の息子も理解したのか、少しこちらを覗いたのちに、一階に降りて行った。長男もまたこちらを覗いて、頭を撫で撫でして降りて行った。撫で撫でされることの良さを、彼らは身をもって知っているのだ。

 翌朝、いくばくか体調を戻したので、早いうちに職場に行った。休むにしてもその日にやっておかねばならないことがあったのだ。熱のせいと、ソファで寝ていたこともあって体がバキバキになっていたが、運転席が妙にフィットして、楽に感じた。職場に着く頃にはふらふらだったのも幾分か楽に感じるようにはなっていた。作業を終えて、家に戻る。この時間なら長男の登校を見送ることができるかもしれない。

 一台の車が路肩に止まった。朝の混雑時にちょっと危ないとめかただなと思ったが、そこからひょこん、ひょこん、とランドセルを背負った子どもたちが出てきた。
 女の子がひょこん、と出てきて、てててて、と歩道をかけていく。今度は男の子、たぶんお兄ちゃんらしき子が、ひょこん、と出てきて、てててて、とまたかけていく。2人ともなにがそんなにと思わせるくらいに明るく、笑顔で、てててて、とかけていく。
 僕は右足をアクセルから自然と離していた。

 集団登校の集合場所は近くの公園で、すでに赤い帽子を被った子どもたちが集まっていた。大人たちも数名。息子に気づいてもらえずとも、昨夜ろくに子どもの顔を見れなかった分、一目見ておきたい。すると僕の車に気づいた息子は、にんまりと笑顔を見せてくれた。手を振るでもなく、にんまりとしたいつもの笑顔を見せてくれた。



 写真を趣味にしているが、ひょこんと子どもの笑顔が駆けていくシーンとか、息子たちのちょっとした仕草だとか、こういう日常が愛おしくなる瞬間には、カメラがない時の方が多い。スマホのカメラを起動する隙も与えてくれない。そんなときにこそ、愛おしい瞬間がやってくる。通学路の子どもたちのシーンはまた別だけれど、自分の子どもが、親である私たちに向けるまなざしは、カメラを介しては見られないものも多い。
 そうして、その瞬間を言葉にして伝えるのはとても難しい。子どもがひょこんと車から出てくるそのシーンにどうして心惹かれたのか、うまく伝えられない。息子のはにかむ姿がどんなふうに心にしみたのか、その実感をまるごと伝えるのは不可能だろう。
 でも、だからといって、写真でそれが表現できるか、それも難しいものだ。僕の息子が写っている写真を、僕は愛しく眺められるが、他の人から見たらとてもかわいい男の子だね(親バカ)で終わる話でもある。写真には、体験を伝える役割もあるが、体験がなければ伝わらないものでもあるのだ。

 萩原朔太郎は、詩集「月に吠える」の序文で、どういうわけで嬉しいかは伝えられるが、どんなふうに嬉しいかは伝えることはできないとした。それが伝えられるのは詩と音楽ばかりであると言い切った。
 なるほど然り、と思う。だがそれも本当の本当には、丸ごと感情を伝えてくれるとは思えない。いわんやカメラをや、である。

 だがそもそも、その感動を、日常の愛おしい瞬間を、他と共有する必要はあるのだろうか。僕だけ、あるいは子どものことなら僕と極近しい人だけでいいのではないか。それならば、写真は自分の言葉を補完する装置として充分に機能してくれる気がするし、そもそもカメラなんていらないとさえ思ってしまう。
 だって、ほんとにいい瞬間にはカメラを持っていないことの方が多いのだから。それなら記憶の中にしっかり焼き付けておく方がいい。

 それでも。僕らはまた、煩雑な日常を送ってもいるのだから、その瞬間を記憶の引き出しの奥にしまいっぱなしにしてしまいがちでもある。そしてどこにしまったかも分からないくらいになる。写真は、その引き出しの鍵くらいにはなるだろう。 
 あるいは。歳を食った息子たちが、幼少の自身を写真に見て、その写真のなかの自分の瞳に、カメラを構えた父の姿があったことを想像してもらえたなら、何よりも幸福だ。
 僕自身もまた、幼少期の自分が写った写真の向こうに、父の姿を思い浮かべることができるようになってきた。「僕の何に心が触れて父はシャッターを切ったのか」は分からずとも、君はきっと、その写真にまた違う思いを抱くことになるはずだ。僕の感動が、また違う形の感動としてまだ見ぬ息子の心に受け取られるのだと、そう信じるのである。


眼差しに身を固くして収まれりシヤツターはいつ、下るるものかと

写真機に振り向くこともなき吾子は団子の虫をつかみ給へり

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