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パターナリズム(あるいはマターナリズム)の起源

お出かけをしていると、時々、子どもを怒鳴りつけるお母さんの姿を目にすることがあります。

こないだ見かけたのはおもちゃ売り場で遊んでた子ども(おそらく幼稚園児ぐらいの年頃)がなかなか遊ぶのをやめなかったのか、お母さんが「3時になったらおしまいって言ったでしょ!」と怒鳴りつけて、子どもがそれでギャン泣きになって床に突っ伏して抵抗するという場面です。

江草も子どもがなかなか公園やおもちゃ売り場から離れないのに日々手を焼いてるので気持ちは重々わかるものの、そこまで鬼の形相で怒ることはしてないので(多分)、本格的に大声で怒鳴りつける親御さんの姿を見ると、こっちまで驚いてしまいます。

こういう時に「子どもを怒鳴りつけずに優しい言葉で誘導してあげましょう」と言うのが正論ではあるのでしょう。

人気保育士Youtuberのてぃ先生もそうしたガイドをする動画を数多くあげてらっしゃいます。

ただ、こうして子どもを怒鳴りつけるようになってしまった潜在的な背景を想像すると、その正論だけ言っても仕方ないのかもしれないと考え込んでしまいます。


人が怒鳴る理由

人がどういう時に他人を怒鳴りつけるかと言うと「その人が自分の思い通りに動いてくれておらず、そしてその行動を直ちに修正させたい時」ですね。一分一秒が大事な場面では、根気強い説得や優しい言葉で傾聴する余裕がありませんから、とにかくすぐに行動を修正させようとして怒鳴りつけることで対処しようとするわけです。

こうした怒号が飛び交う系の組織として代表的なのはおそらく軍隊でしょう。軍隊では一瞬の油断が命取り。各自が統率が取れた行動を取らないと個人の生死はもちろんのこと部隊の壊滅、ひいては戦争自体の敗北にも繋がりかねないので、上下関係(ヒエラルキー)を徹底し、怒号も用いながら部下の動きをコントロールする文化になるわけですね。

軍隊以外でもこの構造が見られるのが何を隠そう医療界です。

救急や手術の現場は、やっぱり一分一秒の差やちょっとしたミスが明暗を分ける世界ですから、悠長に話を聞いたり優しい言葉をかけてる余裕がないことが日常です。それがガンガン怒鳴りつける系の医師が少なくないことにつながってると見られます(外科系の先生には多いですね)。

なお、江草の親族のお一人が医師なのですが、こないだ会った時に、日常的な場面でも家族を急に怒鳴りつける「不適切にも程がある」仕草をしていて、人というのは長年の人生経験で培った慣習を、場面によって切り替えることは容易ではないことを実感しました。

また、医師に限らず、看護師さんの世界もほぼ軍隊ばりの上下関係で統率されてると聞きます。

これらは『ティール組織』の分類での「アンバー組織」にあたると言えますが、こうした上意下達のヒエラルキー組織になりやすい一つの要因としては、このような一分一秒の差が明暗を分ける、余裕がない業務内容や環境であることがあるでしょう。


余裕がない親たち

さて、話を子育てに戻しますと、親が子どもを怒鳴りつける要因として、やはりこうした「余裕がない」という要素が強いんだと思うんですね。

先ほどは、てぃ先生の動画をちょっと「優等生的ポジション」かのように紹介した感じになってしまいましたが、てぃ先生もちゃんと「こうした対処法を取るためには心の余裕があることが重要」とコメントで強調されていて、この問題意識は共有されてると言っていいでしょう。

いつ何をしでかすか分からない子どもと対峙する育児というのは常に「目を離すな」「手を離すな」という緊張感と共にある営みです。でも、当然ながら親側のキャパシティは有限なんですね。

「目を離すな」と言っても、出先で買い物なり調べ物なり荷物を整理したりもしないといけないから、ずっと厳密な意味で子どもだけ見てるわけにもいきません。「手を離すな」と言っても、手は2本しかありませんから、何か作業をしようにも物を運ぼうにも子どもの手を握ってると無理な場面は山ほどあります。

ので、親が目を離した隙、手を離した隙に起きるトラブルや悲劇は後を絶ちません。

こうした報道に対して、(同情的なものも少なからずあるのですが)往々にして「目を離すな」「手を離すな」「保護管理義務を怠った親の責任」という「正論」コメントがまあまあ目立つんですね。(まあ店の責任というのも無理はあります)

ただ、世の親たちは「目を離しちゃいけない」とか「手を離しちゃいけない」とか、皆そんなことは言われなくても分かってると思うんです。でも、現場ではとにかく余裕がないから、ふと目を離したり手を離したりしてしまう瞬間ができてしまう。

それぞれの場面だけを切り取れば、確かに注意を怠ったと言えばそうでしょう。しかし、世の育児は往々にして休憩なく延々と「目を離してはいけない」「手を離してはいけない」状況が続く過酷な環境なので、そんな中で時に油断が発生することをどうして避けられるでしょう。

仮に軍事基地で連日24時間体制でずっと見張り役をさせられてた者がある時うっかり敵影を見逃したとして、それはその見張りの責任なのでしょうか。休みなく見張りを続けさせるような体制の方こそが問題であり、当人の責任に帰したり、精神論で努力を促すのではなく、できる限り無理がないように見張りを交代するシフトを組むのが妥当な感覚と思います。

ところが、(両親二人がかりでも時に大変というのに)育児をワンオペで担っている親御さん(おそらくほとんどがママ)が少なくありません。なんなら、ワンオペで複数の子どもたちを見ないといけない人もいます。

これで「目を離さない」「手を離さない」なんてことが可能かと言えば、まず無理なわけです。明らかにそんな余裕はありません。


余裕がないから怒鳴りつける

で、そうした余裕がない場面で登場する方法こそが「怒鳴りつける」になるんですね。目も手も足りないなら、自然と心や魂のレベルで人をコントロールする方法に至るわけです。目を離しても手を離しても大丈夫なように。

そして、「怒鳴る」は非常に原始的手法であるがゆえに強力かつ即効性があり、使う側のリソース消費も省力化できるという特徴があります。

即効性については「一分一秒を争う現場で使われやすい」ということで先ほど説明しました。

強力さという意味では、大声で怒鳴りつけられた時に一瞬頭がフリーズして体が固まった経験は誰もが持っているでしょうから説明は不要でしょう。怒鳴られる恐怖は何か本能に響くものがあります。

そして省力化の点。これも説明不要かもしれません。つまり「怒鳴る」のは頭を使わなくていいので楽なんですね。怒鳴る側もほとんど反射的に行なってるところがあります。

たとえば、先のてぃ先生が紹介してるような子どもを導く手法というのは極端に難しいということはもちろんないんですが、それでもワンクッション受け止めたり創意工夫を凝らした声かけをしたりといったちょっと複雑な動作ではあるんですね。どうしても親側にいくらかの意思力や認知的負荷、創造性が要求されてしまいます。

でも、今はまさに「余裕がない場面」の話をしているのを思い出してください。究極的に余裕がないと、こうしたちょっとした負荷さえも重荷になってしまうんですね。だから最小力で子どもを動かせる「怒鳴る」という手法に、親も知らず知らずのうちに導かれてしまうわけです。(このメカニズムが分かってるからこそ、てぃ先生も心の余裕の重要性を強調されてるのでしょう)


「怒鳴る」の背景にあるパターナリズム

さて、「怒鳴る」というのは非対話的なコミュニケーション、すなわち「強制」や「命令」に近いものです。「親の言うことに子どもは従いなさい」という上下関係(ヒエラルキー)を前提としています。

もちろん、親は親の考えがあって怒鳴っています。危険を回避するためであったり、次の予定に間に合わせるためであったり、社会に適応できるよう躾する目的であったり、あくまで子どもにとって良かれと思って怒鳴っていて、決して悪気があるわけではないのです。

こうやって良かれと思って強制したり半強制的に導こうとする姿勢はよく「パターナリズム」と呼ばれます。

パターナリズム(英: paternalism)とは、強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益のためだとして、本人の意志は問わずに介入・干渉・支援することをいう。

「パターナリズム」 -Wikipedia

(なお、本稿は実はこの「パターナリズム」の話が書きたくて始めたので、ようやく本題に入ったことになります)

上に示したように、パターナリズムは英語で"paternalism"と綴られます。Wikipediaによればラテン語の pater(パテル、父)が語源なんだそう。日本語では父権主義と言ったりもします。

父というワードが入ってることから分かるように、これは親子の上下関係を想定していると言えましょう。つまり、親は子に良かれと思って強制したり導いたりする存在であるというのは古今東西で通じる社会通念であることがこの用語の存在から示唆されます。


「怒鳴る」と「パターナリズム」は癖になる

先ほど上下関係に厳しい「アンバー組織」の慣習をプライベートの家庭シーンにも持ち込んでしまう医師のエピソードを出しました。このことは、「怒鳴る」慣習が当たり前の環境の中で、自身も長い年月をかけて繰り返し繰り返し行なっていると、それが癖になってどこでもいつでもつい簡単に怒鳴ってしまうようになる可能性を示しています(もちろん必ずしも環境要因だけが原因とは言えないですが)。

だから、子育てシーンにおいても「余裕がない時に怒鳴って子どもに言うことを聞かせるようになったこと」をきっかけに親がついいつでもどこでも怒鳴るようになるというのもあり得ない話ではないでしょう。つまり、さほど余裕がないわけでもなく、危険が迫ってるわけでもなく、急ぎの事情があるわけでもなくても、怒鳴ること、パターナリスティックに振る舞うことが癖になってしまうのではないかと。

そして、「三つ子の魂百まで」と言うように、この「パターナリズム」の構図は受け手の側、すなわち子どもの側にも癖として染み付く可能性はあるでしょう。つまり、「世の中はパターナリズムで動いているんだ」という感覚を幼少期から身につけてしまうわけです。将来、自分の子どもに対してそのようにパターナリスティックに振る舞うだけでなく、社会的な文脈でも、「上下関係で言う、上の方に自分は昇らないといけない。昇りたい」と大人になる頃には思うようになっていてもおかしくはありません。


家庭の余裕のなさが社会のパターナリズム蔓延につながってる仮説

要するに江草が何を言おうとしてるかと言うと、こういうことです。

社会の中で、たいしてその必要がない場面でさえ命令や強制が用いられるパターナリズム仕草が少なからず見られる。それは、家庭での育児環境の余裕のなさから、親が「怒鳴りつける」に代表されるようなパターナリズム手法を子どもに対して用いざるを得ないことで、その癖が親子ともに心身に染み付いてしまっているのではないか。そして、それがひいては社会の中でのパターナリズムの保存と(思想的)遺伝につながっているのではないか、という仮説です。

実際、冒頭のおもちゃ売り場の状況を振り返ってみるに、そこに真に怒鳴るべき理由はあったでしょうか。熊に襲われてるわけでも、火砕流から逃げてるわけでも、戦火の中を駆け抜けてるわけでもなく、そこはただのおもちゃ売り場です。現実に命や事故の危険が特段あるような、一分一秒を争うような場面ではありません。でも、約束だったり予定だったりという大人が作った架空の設定によって子どもは怒鳴られたわけです。

これは「約束だとか予定だとかそんな理由で怒鳴るな」と言ってる話ではありません。そうではなく、「そんな理由で怒鳴るようになるぐらい余裕がない家庭環境になってるのではないか」ということです。普段から余裕がなくて怒鳴るのが日常的になってるからこそ、おもちゃ売り場のような安全な場所で本来は一分一秒を争うわけでもない理由でさえ怒鳴る体質になってしまうのではないでしょうか。


社会全体が自縄自縛的に余裕を失ってる

同様の構図で互いを縛りに縛ってる様は社会の大人たちにも見て取れます。

過去に何度か参照してますが、始業時間と子どもの登園時間をクリアするために毎日が分刻みのスケジュールとなっているご家庭の例が出てるこの記事。

JRのダイヤが改正されるとこうした分刻みのスケジュールが成り立たなくなるからと、JRに対して怒りの声が上がったわけです。なんなら千葉市が市民の声を代弁して公式に決議まで出しています。

こうした中、千葉市議会では、1月26日に開かれた臨時の本会議で、JR東日本に対する決議案が提出されました。

決議案では、次のように記されています。

全国的にも異例な対応として、ダイヤ改正の一部変更が発表されたが、早朝時間帯の快速2本が運行継続するのみであった。
この改正は、本市の都市基盤や都市経営を揺るがすもので、利便性の著しい低下を招くと想定できる。通勤時間を考慮し、住宅を購入した市民も多く、沿線住民の生活を前提から覆す唐突で極端な改正で、改悪と言わざるをえない。
快速・通勤快速のダイヤ改正を再考し、利便性を確保するよう強く望む。

採決では賛成47、反対1の賛成多数で可決。市議会の代表が、JR東日本千葉支社に決議の文書を提出したということです。

これ、予定が予定通りに行かなくなったから子どもに怒鳴ってる親とそう変わらない態度だと思うんですよ。

戦争や災害、急病、怪我などの直接的、現実的な脅威が目の前にあるわけでもないのに、大人たちが互いに互いを約束や予定で縛って一分一秒を争わないといけないような「余裕のない社会」にしてしまってるんです。そして、その実、互いに相手に自分の言うことを強制的に聞かせるべく「怒りの声」を提出しあっている。あるいは予定や約束を破ったら「お母さん」に怒られるぞという無意識下の恐怖に誰もが至極怯えている。これぞ、ヒエラルキーやパターナリズムを前提とした社会と言わざるを得ないでしょう。

つまり、子育て家庭だけでなく、実は社会全体にも余裕がなく「静かな怒号」が満ちています。誰もが「俺(私)の言うことを聞け」と押し付け合う、こうしたパターナリズム社会は、実はその起源は子育て家庭にこそあるのではないでしょうか。人生の最初に世のことわりを学ぶ場所だからこそ、そこが余裕がなく怒号に満ちてるところであれば、そのように子どもたちは学習し、大人になるわけです。

だから、おもちゃ売り場で怒鳴ってたお母さんももしかしたら、お母さん自身が心の中の誰かの怒鳴り声に怯えていたからこそ、そうしてしまったのではないかと思ってしまうのです。その正体は、もしかすると、そのお母さんのお母さんから「ちゃんと約束を守りなさい」と過去に怒鳴られた経験かもしれないし、「ちゃんと約束を守るべきだ」と強迫してくる社会の空気かもしれません。

「怒鳴り声」の背後にはその前の誰かの「怒鳴り声」がある。そうした負の連鎖が私たちの社会を覆っているとするのは考えすぎでしょうか。


まず子育て環境に余裕を与えよ

まあ、もっとも、この話はあくまで「仮説」と称してるように、江草が推測に推測を重ねたストーリーでしかありません。

でも、実際、多くの育児家庭に余裕がないことは事実ですし、それが子どもに対して怒鳴りつける仕草を誘発してることもおそらく間違いはないでしょう。

てぃ先生の動画でも「どうしたら叱らずに子どもと向き合えるか」系の動画が人気のようであることを見ても、親だって誰も怒鳴りたくて怒鳴ってるわけではないと思うんですね。つい子どもを怒ってしまった後で罪悪感を覚えて、なんとか抑えたいと願う。でも、余裕がなくて追い詰められてついまたやってしまう。そういう皆様の葛藤が透けて見えるわけです。

だから、やっぱり子育て環境に余裕を与えることは社会全体で取り組むべき重要プロジェクトだと思うんですね。

特に江草が問題視するのは、ワンオペ育児です。育児に関してはたまに「パパママダブルで育休してやることあるの?」みたいなことを言う人もいるんですが、それはワンオペ育児の余裕のなさを甘く見ています。

それに、理論上ギリギリ成り立つ体制を狙うのではなく、ある程度余裕がある体制でこそ子どもを怒鳴らずに済む期待が生まれるわけですから、十二分に余裕がある体制を図るのはおかしくもなんともないでしょう。

冒頭の怒鳴ってたお母さんだって、どうもワンオペでお出かけしてたっぽい雰囲気でした。ワンオペは極端に余裕を無くす条件なので、とにかくワンオペ育児を避けるのを前提に子育て環境を社会的に設定すべきかと思います。


「パターナリズム」の語に潜む母性強制パターナリズム

さて、実際にはこうしてお母さんが子どもを怒鳴ってるシーンを目撃することが少なくないわけですが、にもかかわらず「パターナリズム」という用語があくまで「父」であるという点は非常に興味深いところがあります。

確かに父親が進路なりなんなりで子どもに対し上から目線であーだこーだ言うこともたくさんあるでしょうから、「父」が出てくること自体は不思議ではありません。

ただ、では「母」はどこに行ってしまったのか。事実として子どもを怒鳴ってるお母さんもいらっしゃる以上、「マターナリズム」ではなぜダメなのか。

おそらくですけど、「母」は心優しく子どもを温かく包み込む存在であるというイメージがあって、それであえて「父」が選ばれてるんだと思うんですよね。

もちろん、世のお母さん方が心優しくないとか、子どもを温かく包み込む存在であってはならないとは思いません。心優しい方は多いし、子どもを温かく包み込む存在であった方が当然良いでしょう。

でも、このあえて「父」を語源に選んでる「パターナリズム」という言葉自体に「母は子に優しい存在であるべき」というパターナリスティックな視線が含まれてるように思うんですよね。

逆説的ですが、そうした「母は子に優しい存在であるべき」という視線こそが、母親にばかり育児を一任し、果てはワンオペ育児環境に押し込め、その余裕のなさから子どもを怒鳴りつけるように追い詰めてる気がしてなりません。ひいては、心に植え付けられた母性信仰と自身の行為のギャップに罪悪感を抱かせ、さらに心の余裕を失わせてしまっている。

だからほんと、色んな意味で「パターナリズム」という概念は問題だと思うんですね。社会を命令と強制で窮屈にしてる意味でも、言葉自体が上から目線である点でも。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。