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正確な民話とはなにか?

前回の記事で触れたように、ワークショップ初日は塩田平民話研究所所長の稲垣勇一氏を訪ねた。そこでは『デイダラボッチと後家さん』と『小泉小太郎』の2編の民話を語り聴いたが、その物語に登場する地名は上田市内にいまも存在する土地であり、聴き手の内包するイメージを誘い出す稲垣氏の手練の語りもあって、現代にも通じるリアリティを伴って展開していった。『デイダラボッチと後家さん』では、そのタイトルのとおり、デイダラボッチと夫と死別した未亡人/後家さんが登場する。夫亡き後の生活を立てるために、誰の土地か判然としない荒地に蕎麦の種を蒔こうとせっせと荒れ果てた地を耕す後家さん。その翌朝、さあ種を蒔こうと畑へ出てみると、ほくほくに耕したはずの土はなぜか固く締まっている。そんな繰り返しの日々が続いて36日目、後家さんの夢の中にデイダラボッチは現れたーー。

デイダラボッチ伝説は日本各地に伝わっている。その呼び名はデイダラボッチ、ダイダラボッチ、だいだらぼうなど、様々に存在するが、いずれも巨人を指す。山や湖沼などをつくった伝承が多く、国づくりの神に対する巨人信仰がデイダラボッチに繋がるとも言われる。実際、語り聴いた『デイダラボッチと後家さん』の冒頭においても、デイダラボッチは背中に夫神岳を、両手に女神岳を、とこちらもいまなお存在する山々を抱いて、集落の境に置いている。

このように呼称は異なれど日本各地に伝わるデイダラボッチの物語に取り組んだのは、民俗学の祖とされる柳田國男である。柳田は昭和2年(1927年)に中央公論で発表した論考『ダイダラ坊の足跡』において、巨人譚を扱っている。柳田は東京の新宿から高尾へと走る京王電鉄の停車駅・代田橋は「ダイタ」橋であり、ダイタラボッチの足跡が残る土地として、実際に調査をおこなっている。

甲州街道は四谷新町のさき、笹塚の手前にダイタ橋がある。大多ぼっちが架けたる橋のよし言い伝う云々とある。すなわち現在の京王電車線、代田橋の停留所と正に一致するのだが、あのあたりには後世の玉川上水以上に、大きな川はないのだから、巨人の偉績としてははなはだ振るわぬものである。しかし村の名の代田は偶然でないと思う上に、現に大きな足跡が残っているのだから争われぬ。

私はとうていその旧跡に対して冷淡であり得なかった。七年前に役人をやめて気楽になったとき、さっそく日をトしてこれを尋ねてみたのである。ダイタの橋から東南へ五、六町(約五四五、六五四メートル)、そのころはまだ畠中であった道路の左手に接して、長さ約百間(約一八〇メートル)もあるかと思う右片足の跡が一つ、爪先あがりに土深く踏みつけてある、と言ってもよいような窪地があった。内側は竹と杉若木の混植で水が流れると見えて中央が薬研になっており、踵のところまで下るとわずかな平地に、小さな堂が建ってその傍にわき水の池があった。すなわちもう人は忘れたかも知れぬが、村の名のダイタは確かにこの足跡に基づいたものである。

柳田はダイダラボッチの足跡とされるこのダイタの地を訪れた際の情景を、読み手にも想像しやすいよう具体的に記述している。この柳田による論考は各地に残るダイダラボッチの足跡とともにその土地土地に伝わる山づくりの伝承に言及した後に、こう記している。

この種巨人譚の比較から、どのくらいまで精密に根源の信仰がたどっていかれるか。それを究めてみたいのがこの篇の目的である。必ずしも見かけほどのんきな問題ではないのである。

続けてもうひとつ、論考をここで引く。『現代ダイダラボッチ考 ~巨人譚が成立しない現代における教育的役割~』と題した、大正大学教授の高橋正弘氏の論考だ。同じく、上に引いた柳田の論考を引用している。それによると柳田が調査したダイタの足跡は「時間をかけた開発圧力の結果」として、現在では微塵も見出すことができない。そのうえで、「『現代』と『ダイダラボッチ』という結び付きにくい二者ではあるが、それでも多くの人が気付くのは、現代のエンターテイメント作品の中にいまなお巨人が多く登場しているところ」として、宮崎駿監督の『もののけ姫』に登場したダイダラボッチなどの事例を引いて、「ダイダラボッチが自然地理を作り上げてきたという理解は特に具体的には示されておらず、あくまで人間と対立する役悪を担う存在、として描かれていることに注目すべきである」とし、以下のように続けている。

かつての日本人はプリミティブな自然認識の段階で、当時の知識や認識で説明することが不可能な事象を何とか説明するために、過去に巨人が存在したのだ、ということを語り、それが語り継がれることで集団的な思考を育て上げてきたのである。そして現在はそのような自然認識が古いものであり、科学的な自然認識を把持する現代人にとっては当然ながらダイダラボッチの話は虚構でしかなく、そういう状態であるならばもはやダイダラボッチのような巨人は、アニメ作品などで消費されるだけの存在、ということになる。この考え方は一面で正しいものであろう。

しかしながら、柳田のダイダラボッチへの関心の中で、伝説の進化のプロセスを提示する可能性がある、と喝破していることに注目することができる。日常の中で突発的な何らかの要因によって自然地理が変化する。そうした場合の民衆の理解の中で、人知を超えた存在を考える、というのが柳田の見立てである。具体的には、地下水の流れの変化によって、湧き水が出てくる場所が変化し、そのことをダイダラボッチの歩行に結び付けて伝説を考えた当時の人々の科学的自然理解の痕跡を、柳田はこれらの口碑に見出しているのである。

したがって、ダイダラボッチの足跡の現代的な意味については、それが単なる語りや伝説であって、今日では意味をなさないと処理することができる一方で、自然環境管理の方向性を定める際に、民俗譚によって共通認識の形成を地域で図ったもの、と解釈することも可能である。

「柳田のダイダラボッチへの関心の中で、伝説の進化のプロセスを提示する可能性がある、と喝破している」とは、上述した柳田が『ダイダラ坊の足跡』を書いた目的と通じる。高橋氏は自然科学の進展に際して、どのように巨人譚の価値を現代において図ることができるかを、幼児教育と環境教育に則して述べている。幼児教育においては「巨人が単なる悪でなく、何らかの形で自然地理にも力を加えうることができたという存在であることを示す」点において、いまなお有用であると述べ、環境教育においては、正確性の観点からはその役割をすでに終えているが、「自然地理の成り立ちを説明する際に、過去においてはそのような自然認識がなされていたということをトレースすることができる素材としての有用」としている。「必要性という点ではあまりにスコープの小さな教材」と前置きをしつつ、現代においても一定の意味は持つと述べている。

さて、巨人譚を含む民俗譚、言い換えては民話の、現代における有効性に対するこの見立ては適切なのだろうか? そもそも、語り手によって紡がれる民話は、その語り手各人の固有性に負託されるところが大きい。そうして数多存在する民話に、果たして我々の祖先たちは正確性を求めていたのだろうか? 先ず持って取り巻く社会環境から捉えれば、現代における正確性と、かつての正確性とはその認識に大きな違いがあることは否めない。確かに高橋氏の指摘する「当時の知識や認識で説明することが不可能な事象を何とか説明するために、過去に巨人が存在したのだ、ということを語り、それが語り継がれることで集団的な思考を育て上げてきた」側面はあるだろう。一方で、人間の行為に起因した災厄など、因果関係を認識した上で、そうした事態を二度と起こさないための後付けの物語としてダイダラボッチなど抽象的な事物を引くこともある。単に自然科学の未発達から、巨人譚を含む民話が生まれたという理解だけでは不足だろう。そして前者後者いずれにせよ、ある種のフィクションとしての物語を共有しつつ、現実に近づくという演劇的な遊びの要素を民話は当時から孕んでいたのではないだろうか。

民話とともに市井の人々によって育まれてきた民俗芸能において、たとえば盆踊りは供養と娯楽の両面を併せ持つ。遊びに祈りが内包され、祈りに遊びが内包される鶏と卵のような関係性だ。遊びと祈り、どちらに身を委ねているかもわからないまま、その行き来を繰り返す曖昧な関係性によって盆踊りは継がれてきた。つまり、正確性は民話からも、民俗芸能からも求めるべくはなく、「自然地理を説明する際の旧来型の自然認識は、今日の自然科学の説明としてはもはや間違っていると共通で理解されており、その点では現代の科学が巨人譚をはるかに乗り越えてしまっているので、正しい認識を与えるものとしての巨人譚というものは妥当ではない」という高橋氏の指摘は、ズレていると言わざるを得ない。現代に限らずかつてにおいても、自然地理の正しい説明や、その民話の正誤に人々の着眼はなかったものと考えられる。

上述の「正確性の曖昧さ」という観点を踏まえると、『もののけ姫』など高橋氏が論考で引いているアニメ作品におけるデイダラボッチは、氏の指摘する消費の構造に組み込まれているのかは再検討の余地がある。筆者としては、『もののけ姫』で描かれたデイダラボッチは消費に組みされたのではなく、作品を通じて「現代における民話の語り直し」を図っていると捉えているが、その検討は次回に譲りたい。

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民話と演劇 この世界をもう一度紡ぎなおすための物語

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