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「正義のインフレーション」の時代に、民話の多様性を考える

 人がひと所に集まれば、自ずと育まれていくのが社会であるが、それは不変ではなく、集った人々によって意識的にも無意識的にも変化していく。そんな社会を生活の視点で眺めれば、自然環境の厳しいアジア、とりわけ山をひとつ越えれば生態系も異なるという日本の場合、地震に津波、火山の噴火、台風、豪雪など、これら「他者」との共存の上に成り立ってきた。小さな島国に住まう我々は、この強靭な「他者」との関わりに惑い、また習いながらこれまでを生きてきた。人と人とが集うことで構成される社会は、これから産まれてくる子孫を含んだ「幸せ」が最も重要な課題となる。つまり社会は、未来まで続く人間の「幸せ」を一番に考えて営まれる集合体だった、少なくとも近代以前までは。

 では、わたしたちがいまを生きる社会はどうだろうか? 山谷ごとに異なる環境に添いながら変化を重ね、独自性を保ってきた数多の社会は、特に明治期以降の日本政府によってさまざまな規定が為され、「国家の監督下にある社会」といった構図で並列/単一化し、膨張を続けてきた。一方、昨今では「多様性の尊重」が盛んに叫ばれる。それは「個人の尊重」「民族の尊重」「文化の尊重」など、これまで蔑ろにされてきた人権にまつわることばを主語とする。しかし、メディアやSNSによってそうした多様性の尊重が図られることで、我々は再び、明治期以来の並列/単一化の波に呑まれてはいないか? そうした他者を尊重する啓蒙的な情報に際し、ある種の義務感から納得できないままに自身を律するならば、そこに生じる「多様性の尊重」は虐げられてきた人々を含むわたしたちを最終的に「幸せ」へと導くだろうか? もちろん、この他者を尊重する気運によって改善された事柄も数多くある。しかし、その功罪を語る前に、そもそも近代以前の多様性と現代における多様性とは、開国から150年という時間を経ての変容があると思われる。

 2021年6月、『民話と演劇 この世界をもう一度紡ぎなおすための物語』と題したプロジェクトが長野県上田市で始まった。これは古くから語り継がれてきた民話を、参加者とワークショップを重ねながら現代に引きつけて演劇化し、いまの社会を見つめるプロジェクトだ。その初日、さっそく民話を伺おうと参加者とともに、塩田平民話研究所所長の稲垣勇一さんを訪ねた。稲垣さんは古くから当地に伝わるふたつの民話を語り聴かせてくれた。それに続いて、我々聴き手からの質問に応じながら、稲垣さんは民話の置かれてきた環境について話をした。近代以前の日本にはたくさんの旅人が存在し、彼らは土地から土地へと旅をしながら、民話などを通じて他所での話を伝えたという。興味深いことは、同じタイトルの民話でもその内容はひとつに規定できないことだ。なにせ、現代のように録画も録音もできず、書面で残すことすら容易ではない時代だ。記憶を頼りにその身体で以って語られる民話は、筋書きは同じであってもその行方は語り手によって、そして聴き手の側でも幾方へもその解釈は広がっていく。そうして人と人とが出会い、語り語られることで、民話の多様性は担保されてきた。つまり、「ひとつの正しさ」では規定できない環境下で、民話はその世界を拡げてきたのだ。

 稲垣さんはまた、「わたしたち一人ひとりが文化を選ぶために民話はあった」と言う。旅人たちの語る正解のない無数の民話は、人間がある土地に生きる上での知恵であり、その選択肢であった。いわずもがな、その民話に内包された解釈の余地は豊かな可能性であると同時に、先の大戦では国家に都合の良い解釈を施され、その戦時思想の形成に利用された「落とし穴」も抱える。わたしたちが生きる現代社会は「多様性の尊重」など美化されたことばを象徴的に扱いながら、民話をはじめとした伝統的様式が保持し継承してきた解釈や選択の余地を我々の思考法から奪い、「ひとつの正しさ」で充填しようとしているのではないだろうか?

 先にも述べたとおり、多様性ということばでも、その意味合いやそれを取り巻く環境はこの150年ほどで大きく変わった。旅人たちが語る民話が担っていた情報伝達としての機能は、いまやテレビやSNSといったより広範に人々へ素早く届けられる媒体に取って代わり、その傾向はこのコロナ禍でいっそう顕著なものとなった。リアルな時間と空間を他者と共有することで成り立ってきた民話は、「ひとつの正しさ」に規定することなど、その環境からしてそもそも不可能であったが、いまは時間も空間も越えていける。そうして溢れかえった情報を前に、必然的に情報の取捨選択が求められ、全体の流れのままに「ひとつ」へと収斂されてしまう。テレビはその最たるものであるし、youtubeなどの視聴回数などもその流れを助長する。

 「民話に真の善人も、真の悪人もいない」とは、同じく稲垣さんのことばだ。そもそも、人間は善悪の両面を併せ持つ生き物なのだから、実際にあった出来事に沿いながら民話もそのようにして創作されてきたのだろう。では改めて、いまのわたしたちの生きる社会ではどうだろうか? たとえば「多様性の尊重」を瑕疵のない正義のことばとして用いる行為は果たしてわたしたち人間にとって適切なのだろうか? 「ひとつの正しさ」を盲信する姿には、戦前戦中の反省から埋めたはずの「落とし穴」が再び影を覗かせる。

 多様性とは他者への想像力である。違いを互いに発見し、大事に認めていくことが多様性の尊重であると考える。しかし我々は現在進行中の、いわば「正義のインフレーション」を前に、「そういうものか」と思考を停止し、自身で認識を編みなおすことを放棄してはいないか? ここまでに述べてきた「ひとつの正しさ」に規定されない連綿とした積み重ねこそ、多様性ということばが指す意味ではないだろうか? 解釈はひとつではなく、正しさもひとつではあり得ない。この世界はそれだけたくさんの可能性に溢れている。それを踏まえて、我々は古来より日本に住まう多様で強靭な「他者」に、いまなにを惑い、また習うことができるのだろうか?

・次回は7月15日(木曜)あたりに公開する予定です。

・プロジェクト詳細はこちらから。
『民話と演劇 この世界をもう一度紡ぎなおすための物語』


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