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卒論のテーマが検閲だった私がここ1ヶ月思うこと

卒論が太平洋戦争を起点とした日本の文学検閲についてだった自分は、最近ゾッとすることが多く、雑多ですが未来のために記しておこうと思います。

北京オリンピック、ROCの金メダル大本命・ワリエワ選手のドーピング問題に揺れる中で起こったフィギュアスケート女子フリー。私は昔からフィギュアスケートファンで、今回のオリンピックもすごく楽しみにしていました。そんな中でドーピング問題が起こり、意図せぬ形で世界が注目してしまいました。結果ワリエワはフリーでミスが重なり、4位。しかし1位も2位もROCの「エテリ組」の選手でした。エテリというのは今まで何度も教え子に金メダルを獲らせてきた名コーチです。ワリエワは演技直後から涙を流し、エテリコーチがワリエワを叱責する場面が世界中で批判されることとなりました。が、異例だらけの試合はこれにとどまらず、事件は全ての結果が決定した後。2位だったアレクサンドラ・トゥルソワ選手が、涙を流しながら何か叫び、エテリコーチの腕を振り払う動画が拡散されました。ロシア語話者の通訳によると「あなたは全て知っていた」「こんなスポーツ大嫌い」「2度とリンクに戻らない」といったようなことを叫んでいたようです。ゾッとしたのは、その動画がリアルタイムでTwitterにて拡散された直後、10分後にはその動画たちは、見れる限りはほぼ全て削除されたことです。

彼女が泣いた原因は恐らく4回転を5本降りたのに2位だった意味がわからない。ということだろうとされていますが、理由がどうであれ、一選手がコーチの腕を振り払った動画が一瞬の間に削除された。この事実が恐ろしかったです。個人レベルでそんなことが出来るとは考え難いので、何かしらの大きな力が働いた結果でしょう。ロシアのドーピングは組織的なもので、国家がスポーツに干渉しています。ワリエワの件だって、15歳の少女が、恐らくは、大人に教育されて禁止薬物を飲んでいる。「大人」側に反抗した選手などお国としては言語道断、ということかな、と誰でも簡単に推測出来てしまいます。(イカロスを観たからこう言ってしまっています)

最近ピロシキーズさんの動画を見ます。ロシア出身日本育ちのYoutuberです。彼らはロシアの政治についても語ってくれるのですが、ロシアがクリミア侵攻を行った際、日本や欧米ではロシア軍の戦車が突き進んでいくような映像がニュースで繰り返し流れていたのに対し、ロシアのニュースでは戦車から降りてきたロシア兵士にクリミアの子供たちがハグしたり、お花を渡したりする映像が繰り返し流れていたそうです。そのどちらも嘘だとも思わないけれど、とにかく立場によって発信の仕方が全然違っていて、それぞれに彼らなりの正義があること、を丁寧に発信されている素晴らしい動画です。

そして今回のロシアによるウクライナ侵攻。ロシアのテレビでは、現在、ウクライナで起きていることは戦争とは呼ばない、とか、住宅破壊はロシア軍のせいではないとか、ロシアに責任を負わせるような情報はフェイクだとか、そういう報道がなされているようです。我々は現地に居ないし、プーチンやロシアのテレビ局の人と話したこともないので、真実はわかりません。けれど、国家が違えば報道が180度違う。このことは奇妙なことです。真実は1つじゃないけれど、事実は1つなはずです。

また、中国で4日に行われた北京パラリンピックの開会式で、国際パラリンピック委員会のパーソンズ会長がスピーチで平和を訴えたものの、中国の国営テレビによってメッセージの大部分が同時通訳されなかったり、音量を落としたりなどの検閲が行われたと報道されています。

現代で、まだ、稚拙な検閲が行われている。そして、80年前には無かったインターネットが、ソーシャルメディアがある今、検閲の可視化が起きている。教科書の墨塗りと一緒の、あまりにも強引で、無謀な検閲が行われている。それで騙せる国民がいると思われている。子供たちを教育出来ると思っている。いや、権力側が本気でそう信じてはいなかったとしても、何より統制が優先だと思っている。このインターネット社会で。今更何を、と思う人もいるかも知れませんが、私は、検閲の怖さを初めてリアルタイムで、身近に認識しました。それも、この1ヶ月の間に何度も。

検閲が、机上で認識していた遠い昔の事件ではなくなりました。

私が卒論に書いたことの本質は単純で、太平洋戦争前、戦時中、戦後で分け、それぞれのフェーズでの日本政府、又GHQによる文学検閲の比較と、政府が芸術を殺すことの無用性です。細かいことは書きませんが、戦時中は従軍文学者集団「ペン部隊」が作られ、戦争で事実上職を失った作家たちは勇敢で美しい日本軍の様子を書いたり、南京大虐殺の様子を描いた石川達三の『生きてゐる兵隊』の発禁処分が起こったりしました。そしてそれは、太平洋戦争が開戦してからいきなり起こったことではなくて、日露戦争の少し前から、小説、脚本には厳しい検閲が入るようになっていました。政府は物語の持つ力を知っていたのでしょう。勿論文芸だけではなくて明治に「新聞紙法」が施行、新聞もラジオも政府の検閲の対象となり、軍や政府の批判は書けなくなっていきました。個人の手紙まで検閲の対象となりました。
検閲は、もしかしたら今の日本でも行われているかもしれません。国家機関やメディア業界で働いてもない一般人の我々は、そんな事実があるかなんてわかりません。けれど確かに、少なくとも戦時中の日本では強固な検閲システムが作られていました。
検閲が一概に悪か、と言われれば私個人としては、政府による検閲が行われる世界は恐ろしくてしょうがない。そんな世界に生きたくないと思うだけです。
ただ、例えば子供向けの本に過激なことが書いてあったり、新聞で人道に悖る表現をしたり、過激な主観を書いたりするのは問題だと思います。そういった意味での、各社による自己検閲体制というのは必要だと思います。
戦時中の政府からしてみれば、そんなこと言ってないで国民の意識を一つにしなければならない時代なのだから、政府による検閲は必要不可欠だったのでしょう。戦争に勝つことが目的なら、それは正義です。

一概に悪なことというのは本来それほど無くて、どんな暴力にも、一応はそれぞれの正義があります。

五輪から地続きのように今日も感じるこの検閲問題には、世界中でNOを押し付け続けなければならないと思う一方、たとえばなぜロシア国民がプーチンを選んだかというと、無秩序が1番怖いことだというソ連崩壊時代を知っている世代の主張から、というブラスさんの話には大いに納得がいきます。ロシアは広すぎるし寒すぎる。ただでさえ統制が難しく、無秩序が起こりやすい。

結局政治とは、「何を1番怖いと思っているか」だなあとつくづく思います。

私は検閲のような言論統制が1番怖い。でも私は無秩序な世界に生きたことがないから、こんな呑気な主張が出来るのかもしれません。所詮は体験していない人間の言うことです。

では歴史を学ぶ意義とは何でしょうか。私たちの世代は戦争を体験してないけれど、歴史を学んだから、唯一の被爆国だから、修学旅行で原爆ドームに行ったから、子供だって当たり前に、戦争が怖いことだと知っている。今だって、むしろ若者の方がNO WARを叫んでいるように感じる。暴力は時に正義かも知れないけど、個人に降りかかる悲劇を考えれば暴力が正義だなんて口が裂けても言えないことも知っている。これは、先人が残した、血を流さずに生きていくための遺産だと思います。

事態はいつだって想像より複雑で、何かを1番怖いと思っていても、それを排除すれば良いというような極論では立ち行かないということ。だから結局、極論に走り切らずに、絶妙にバランスをとってどちらかに倒れないようにしていきましょうね、という結論に至るだけです。

このバランスを崩してきた愚行の数々を、学び続けなければならない。バランスを崩して倒れるのは、誰にでも出来る簡単なことです。簡単なことに走ってはならない。と、ニュースを見るたび、思います。


[ちなみに、世界的な成功を収めた初の中国人ヒップホップアーティスト、HIGHER BROTHERSの『Made in China』のPVや歌詞は中国のネット検閲を揶揄している感が凄くかっこいいです。ヒップホップとは、このこと。。と思います]


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