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つくば万博(国際科学技術博覧会)

テーマ 「人間・居住・環境と科学技術」



〈目次〉
1.はじめに
2.開催目的とテーマ
3.おもなパビリオンや目玉
4.成功はインフラ整備 
5.おわりに


1.はじめに

私が中学生の時、同級生たちと一緒に「つくば万博」へ遊びに行きました。

ある安い旅館に前泊で素泊まりした記憶がある。
私たちと同級生にとっては、ちょっとした冒険でした。

当日、富士通パビリオンを見学するために、2時間以上、行列にならんだと思います。

そして、ようやく富士通パビリオンに入場できました。たしか、紙のメガネをかけて、3Dの空間を眺めてびっくりした記憶があります。

私にとってのよき思い出。
つくば万博について、どんな万博だったのか、振り返ってみたいと思います。


2.開催目的とテーマ
1985(昭和60)年、日本で3度目の万国博覧会にあたる、「国際科学技術博覧会(以下:つくば万博)」が、茨城県の筑波研究学園都市で開催されました。

つくば万博は、科学技術に対する理解と協力を深め、人類の輝かしい未来の創造に寄与することを目的としました。

「人間・居住・環境と科学技術」を統一テーマに掲げ、世界48カ国と37の国際機関が参加する大規模なイベントでした。


3.おもなパビリオンや目玉
会場内には、多くの企業や国のパビリオンが立ち並び、当時の最先端技術を駆使したアトラクションが観客を楽しませました。

とくに人気があったのは、NEC C&C パビリオン、富士通パビリオン、鉄鋼館、日本アイ・ビー・エム館、住友館、松下館といった映像展示を主としたパビリオンで、会期中を通していつも長蛇の列ができるほどでした。

そのほかにも、未来の乗り物・リニアモーターカーが会場内に設置された専用軌道を走り、空を見上げればスカイライド(ロープウェイ)やビスタライナー(モノレール)が稼働していました。

また、ロボットシアターでは、二足歩行ロボットが歌い踊り、まるで未来の遊園地のようでした。

こうして参加各国の研究者や企業人がもたらした科学の熱気は、会期中まったく衰えることなく、最終的に、約2033万人の観客を動員したのです。

4.成功はインフラ整備
つくば万博が成功した要因は、もちろん各パビリオンの魅力が一番でしたが、筑波の立地のよさも見逃せません。

会場となった筑波研究学園都市は、東京から100km圏内(筑波までは約60km)という場所でした。

ただ、当時の筑波は、首都圏からのアクセスがすこぶる悪く、「陸の孤島」と呼ばれていました。そこで、つくば万博の開催に合わせて、交通インフラの整備を行い、交通の便を格段に向上させました。そのことで、多くの来場者を呼び込むことに成功しました。

①エキスポライナー
国鉄(当時)常磐線の牛久(うしく)駅〜荒川沖(あらかわおき)駅間には、会場の最寄り駅として万博中央駅(現・ひたち野うしく駅)を新たに設置。

上野駅〜万博中央駅までは、臨時快速の「エキスポライナー」が運行され、万博中央駅からは2両連結バスのスーパーシャトルが観客を会場へと運びました。

②エキスポドリーム
会場付近の宿泊施設不足を補うため、おもしろい施策もとられています。

寝台列車をホテル代わりにしたのです。21時台に土浦駅で寝台列車「エキスポドリーム」に客を入れ、留置線で翌朝まで待機。翌朝に万博中央駅へ向けて出発するというものでした。

③常磐自動車道の開通
鉄道だけでなく、自動車道も整備されました。開催前には常磐自動車道が部分開通し、東京方面から筑波までの車でのアクセスが容易となりました。

国、県、関係市町村が一丸となり、万博の成功に向けて動いていました。そしてこの成功が、科学の街・つくばの存在を日本国中に知らしめるきっかけになりました。

5.おわりに
私が中学生の時は、よき思い出の一つだったつくば万博。

振り返ってみると、当時の日本の力強さとエネルギーを感じます。

現代の日本にとって、時代は違えども、この力強さとエレルギーは、参考になることが多々あると思います。


以上

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