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山の神


朝から昨日とは質の違う寒気を感じていた、最近は毎日とは言わないまでも数日の度に質の違う気温、気圧、空気がたちこめている。

気候に体調や感情が左右されるのは年のせいだろうか、それにしても寒暖差に気圧差に、さらに僕の場合は仕事柄、標高差まで加わってくる

しかし、社会の仕組みというものは気圧、寒暖、標高差、出勤移動距離などというものはパーソナルな問題に過ぎないと断じて、日常はあくまでも日常であると平均均質的な労働を僕らに求める。

山に向かうそばから雨だ。午前までの予報だったので半日は我慢しようかとアクセルを踏む足に力が入らないけれども、なんとかあと2日で終わらせたい現場の進捗もあって無理強いをしてこの身体を草刈機やカッパで武装して山に放り込むべく車を移動させる。

標高が400ほど超えたあたりから、小雨はみぞれに、標高500ほどの現場に1時間半ほどで到着する、横ざまの風が強い、みぞれはほぼ雪で、雪ならまだしもその「ほぼ」の雪になりきれない水気が体を濡らす、三角形の5ヘクタールの現場の後半上の方は吹雪にかすんでいて、まじでこれから俺が身一つであそこにいってこの現場を終わらせていくのか、と他人事の気持ちが離れない。

雨の日にはスパイク長靴を履くのだけれど、この長靴はもう5年履き続けてズタボロで、足首の辺りはビリビリに破れていて履いても外からくるぶしが見えているような具合だ。

それでも長靴と呼ばれるだけあって何故か多少の雨でも足の指先は濡れずに済む程度には長靴なのだ。

現実を健やかに生きるためには現実逃避が必要だ、僕は身ひとつで何の保証もない数十キロに渡って人の気配がない、電波もない山奥で危険な草刈機を一日振り回す仕事をするという現実を生きるために、YouTubeプレミアムのサブスクに加入して電波のあるところでオフラインに東京や色々な快適そうな場所で言論や政治や筋トレについて対談したりひとり語りする人の動画を保存しておいてノイズキャンセリング機能付きのBluetoothイヤホンを耳にはめてそれを聴きながら草刈りをする。

草刈機のエンジンをふかし、草木を刈り払う、そう言ってしまえば簡単に思えるけど、実際は背丈を超えるイバラやタラを刈っては全身に浴びて、全身いたるところに刺さったり引っかかったり引きずったりしながらも前進する、崖のような傾斜、岩場、それだけじゃないこの山を切り出した際に残った枝葉や丸太のゴミが表土から多いところでは2メートルほども積み重なっていて、全面にゴミは累積しているその中を踏み歩いていく。

雨に濡れた枝や丸太のゴミは表皮が腐って、バナナみたいに足がすべる、崖の上のタラの木を切り飛ばしたら、顔に飛んできたので紙一重でかわしたかと思いきや鼻先とくちびるにトゲが引っかかって顔をもってかれそうになった、、

回転する刃に枝の端切れが引っかかってすっ飛んで向こう脛を強打する、その時は一瞬うずくまる程度なのだけれど、帰宅して確認するとぽっこりスネにタンコブができていたりする。

作業中はアドレナリンが出てるからだろうか、トゲもぶつけた痛みも、なんとかなるものだけど、ちょっとした痛みも後々すごく痛めてることに気がつくこともある。

体はまさに足先数センチに死がチラつく戦場にいるのだが、耳や脳は快適な部屋でソファに身を沈めて語り合う人たちの対談の空間にいる。

そうしていると、流しそうめん流れるそうめんのように気がつけば夕方になっている、時間の容易い流れ、体の緊張と脳の弛緩、こことここじゃないところ、地方と東京。山奥とオフィス。

ただ、しないといけないことをしないといけない、日が暮れはじめて焦りに襲われる、このままじゃとても終わらない、まだ山の頂上は遠い。落ち着いた対談に耳を澄ませながら、意識を現実に持ってきて、身体を急がせる、左右に振る刃をはやく、はやくはやく、陽が暮れていく、気がつけば5時が過ぎて暗くなる、ずっとみぞれ吹雪で濡れた足先と手袋で寒くて一瞬も止まっていられない。風が冷たくてしかたない。

山の向こうに月が登って、YouTubeを停止する。これほどの孤独があるだろうか、渋谷交差点や路上の端っこで感じる孤独とは質がちがう、冷たい夜空にみぞれ雪、濡れた手足、全身から立ち上る湯気、振り返れば刈り終えた山の辺に刈り残した杉の苗たちが風に揺れている、この世には、俺と山しかない。

風の音と暗くなった向こうの山の輪郭、冷え切ってもう半日以上感じられない足先の感覚。こんな日が現場の終わり頃に必ずある。

現場に入ったはじめの頃はサボり気味で朝遅くにきて、夕方はやめに山を降りる、それは現場の最後の頃には未来の俺がなんとかするだろうという楽観。

そしてしわ寄せられた、未来になった今、やっぱりなんとかする自分がいる。

なんとかなるのはもちろん自分のおかげだけではない、作業不可能ではない程度の吹雪、身体が凍って止まるほどではない冷たさ、見えないでもない暗さ、車も草刈機も天候も体調も全てが共同して今日を成功させているのだから。

自分が成し得たことの自分以外の要因の背景に山の神を感じる、そして成し得た自分への誇りそのものが山の神との共同作品なのだ。

全身がブルブルするほどに疲労している、あとは明日だ、ここまでやれば明日に完了することができるだろうか、不安に祈る気持ちだ。

暗い山の作業道を20分ほど降りないといけない、下山途中に気がつく、見えていない足元には作業道とはいえ無数の石や木が落ちているのになんの迷いなく足が進んでいく。見えてないのに歩けるのは何故だろう、経験、足の感覚だけで歩いている。

軽トラに辿り着く、とりあえず早めにエンジンをかける、鍵どこだっけ??真っ暗の中、不安が胸をかすめる、あったここだった、バッテリー上がってないよな?不安、、
鍵をひねる、かかる。。安心。。

ジャックロンドンの短編「火を熾す」を思い出す、まるで同じじゃないか、習慣というモルヒネで覆われているが、現実は厳しくひとつのミスが命の距離を近づける、その時にはもう遅い。という瞬間もあるだろう。

11月初めこの現場のとりつきの斜面はさっそく崖のようでそこに大量の枝葉のゴミが散らばっていて、そこに身の丈をこすイバラの木々の中で埋もれて動けなくなるようなところで、少し勢いがでていた時、がっと踏み出した足元に神経を掻き鳴らす存在を感じて、咄嗟に足を引いてそれを見た。薮の視野の悪いさなかに突然地面に置かれたような具合で巨大なスズメバチの巣が姿をあらわした、表面に50匹とはいわぬ大群のスズメバチがびっしり巣を覆っている。

僕は飛び退いて、考えるよりはやく崖から飛び降りるようにして、足元を確認する間もなく逃げた。

嫌になった、あと数センチ踏み込んでいたら踏んでいたに違いない、そしたらあの表面を覆う大群に襲われていたに違いない、YouTubeプレミアムサブスク、Bluetoothイヤホン、ノイズキャンセリング、ノイズキャンセリング!ノイズキャンセリングしていた習慣というモルヒネが一気に醒めて、現実の毒が全身を駆け巡る。

ここはどこだ!?9月ごろに指先をパックリ現場で切り裂いた時も同じ感覚に襲われた、指じゃなく足を切っていたら、止血する術もなく、現場から車までも遠く、電波もなく、どうやってミッションの軽トラを運転して公道にでて、人に助けを呼べるのか。

スズメバチに数カ所ならまだしも、数十箇所やられた時には、どうなるのだろうか。。蓋をしていた考えないようにしていたあらゆる不安に押し潰されそうになる。

しかし、それが日常でもあるのだ。このような巣に、この現場で僕は6回ほど出会うことになる、寒くなってきたことも幸いしてか、一度も刺されはしなかった、先月はオオスズメバチに一度に3箇所刺される被害には遭ったけど。

僕を守ってくれるのは山の神しかいない、なにもないから山の神しかいない、どうしようもないから手を合わせるしかない。

手を合わせる余裕がある時は良いけれど、吹雪の夜の山の上で全身が疲れ切った時には、ただ山の稜線に目をやるだけで祈るような気持ちになる。

そこに感じる、恋愛に似た感情、これは恋愛なのだと思う、山の神と僕との、僕がやってることは特別なことではない、先人達も、師匠も30年ほどひとりで山をやっていた。そういう意味で孤独ではない、僕だけじゃないから、山の神を感じる、山の神と書くこと、呼ぶこと、そのたびに山の神という存在が僕から遠ざかる感覚になる、それじゃない感じがする。命が近づくほどに何かに観られてる気がする、山の稜線にそれを1番感じる。山の神、それは視線、見つめ返すことのできない不可逆な視線。

匿名、一本一本の草木ではない、ひとつの山でもない、名称を預け得る何か対象ではない、もちろん人格ではない、ただ恋愛、恋愛のカンカクだけが胸に去来する。

心拍のひとつひとつに不安など感じていたらキリがない、それでも次の心拍がやってくるのは必然か偶然か当たり前か奇跡かもしれない、人はその不安の上に習慣のベールを包み込んで無いようにして生きている。

僕の日々もまるで同じだと思うようにしている、生きるべくして生きている、ただそれだけだ、僕のベールは時折り隙間をみせる、山や吹雪や死を感じることによって、その隙間から人が生きていることなど泡沫のごとく失われるもののひとつであることが垣間見える。でも生きているということ、それでも生きているということに恋愛を感じる。

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