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ソーカル事件・サイエンス・ウォーズとは、こちらのブログに詳しい。


ソーカル事件

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ソーカル事件(ソーカルじけん、: Sokal affair)とは、ニューヨーク大学物理学教授だったアラン・ソーカル[注釈 1]が、1995年[注釈 2]現代思想系の学術誌論文を掲載したことに端を発する事件をさす[1]
ソーカルはポストモダン思想家の文体をまねて科学用語と数式をちりばめた「無内容な論文」を作成し、これをポストモダン思想専門の学術誌に送ったところ、そのまま受理・掲載された。その後ソーカルは論文がでたらめな内容だったことを暴露し、それを見抜けず掲載した専門家を指弾するとともに、一部のポストモダン思想家が自分の疑似論文と同様に、数学・科学用語を権威付けとしてでたらめに使用していると主張した。
論文の発表につづいてソーカルは、フランスのポストモダン思想家を厳しく批判する著作を発表し、社会的に大きな注目を浴びた。

事件の経緯[編集]

ソーカル論文の掲載[編集]

1994年、ニューヨーク大学物理学教授だったアラン・ソーカルは、同じくニューヨーク大学教員のアンドリュー・ロスが編集長をつとめていた学術誌『ソーシャル・テキスト』に、「境界を侵犯すること:量子重力の変換解釈学に向けて」("Transgressing the Boundaries: Towards a Transformative Hermeneutics of Quantum Gravity") と題した論文を投稿した。
この論文は、ポストモダンの哲学者社会学者達の言葉を引用してその内容を賞賛しつつ、それらと数学理論物理学を関係付けた内容だったが、実際は意図的にでたらめを並べただけの無内容な疑似論文であった。
この論文に使われていた数学・物理学用語は、専門家でなくとも自然科学高等教育を受けた者ならいいかげんであることがすぐに見抜けるお粗末なもので、また放射性物質ラドン数学者ヨハン・ラドン (Johann Radon) を混用するなど、少し調べるとであることがすぐ分かるフィクションで構成されていた。
ソーカルの投稿の意図は、この疑似論文がポストモダン派の研究者によってでたらめであることを見抜かれるかどうかを試すことにあった。しかし論文は1995年に受理され、1996年5月発行の『ソーシャル・テキスト』にそのまま掲載されてしまった[2]

暴露・スキャンダル[編集]

掲載からまもなく、ソーカルは別の雑誌においてこの論文がまったく無内容な疑似論文であることを暴露し、大きなセンセーションを巻き起こした[3]。『ソーシャル・テキスト』誌自体は、発行部数が当時800部ほどに過ぎなかったが[3]、ソーカルが別の雑誌で自分の行動を告白すると社会的な注目を浴び、ニューヨークタイムズやル・モンドなど有力紙で報じられた[4]。ソーカルは後に「一般向けのジャーナリズムと専門家向けの出版界に嵐のような反応を引き起こした」[5]、と振り返っている。
ソーカルの疑似論文が掲載されたのは、科学論における社会構築主義に対する批判への再反論や、ポストモダン哲学批判への再反論をあつめた特集号で、「サイエンス・ウォーズ特集号」と題されていた[5]。そこにソーカルの疑似論文の無意味さを見抜けず掲載してしまったことを、ソーカル自身は、編集者にとって「考えられるかぎり最悪の自滅行為」だったと嘲笑している[5]
疑似論文を掲載した『ソーシャル・テキスト』誌は査読制度を採っていなかったために失態を招いたと言われ、事件からまもなく査読制度を取り入れた[3]

『知の欺瞞』出版[編集]

その後、1997年にソーカルは数理物理学ジャン・ブリクモンとともに『「知」の欺瞞』と題する著作を発表した(原題は "Impostures Intellectuelles"で「知的詐欺」の意) [6]。この中でソーカルは、ジャック・ラカンジュリア・クリステヴァリュス・イリガライブルーノ・ラトゥールジャン・ボードリヤールジル・ドゥルーズフェリックス・ガタリポール・ヴィリリオといった思想家を俎上にあげ、ポストモダニストを中心に、哲学者、社会学者、フェミニズム信奉者(新しい用法でのフェミニスト)らの自然科学用語の使い方が、自分の作成した疑似論文と同様にいいかげんで無内容だと主張した。
こうした批判の真意は、思想家が数学や物理学の用語をその意味を理解しないまま遊戯に興じるように使用していることへの批判だった、とソーカルは後にコメントしている。ポストモダン・ポスト構造主義の思想家であっても、ジャック・デリダロラン・バルトミシェル・フーコーは、ソーカル事件においては直接批判対象になっていない(ただし、ソーカルは事件前にデリダの批判を行っている。#反応 参照)。
ソーカルとロスは、2020年現在、ともにニューヨーク大学の教員である[7]

ソーカルへの批判[編集]

ソーカルの一連の行動に対しては、文芸批評家・法学者のスタンレー・フィッシュを中心とする研究者から、学術論文のでっちあげには破壊的な影響があるといった反発が起きて、ソーカルの行動をめぐって大きな論争となった[8]
上記のようにソーカルは「ポストモダン哲学」において使われる比喩やアナロジーを執拗に嘲笑しているだけで、思想そのものの検討や批評はまったく行っていないため、ソーカルの行為は「単なる揚げ足取りにすぎない」「本そのものを読んでいない」として事件当初から厳しく批判されてきた[9]
実際に、その後もデリダを中心とする「ポストモダン哲学」の学術的重要性が減じることはなく、現在にいたるまで彼らの思想が重要な研究対象でありつづけているのは、ソーカルによる批判が本質的なものではなかったためだとも指摘される[3]
また近年では、そもそもソーカルが行った疑似論文発表は本人が言うような「いたずら」「ささやかな実験」といった軽いものではなく、研究者間の信義を裏切るきわめて悪質な行為で、現在ならば間違いなく重大な論文不正として学界追放の対象になるとも指摘されている[3]。また『ソーシャル・テキスト』の編集長がニューヨーク大学におけるソーカルの同僚だったため、ソーカルの単なる個人的な確執が事件の背景にあったとも指摘されている[10][11]

「知」の欺瞞[編集]

ソーカルとブリクモンは『「知」の欺瞞』の中で、著作の目的を次のように述べている:

われわれの目的は、まさしく、王様は裸だ(そして、女王様も)と指摘する事だ。しかしはっきりさせておきたい。われわれは、哲学、人文科学、あるいは社会科学一般を攻撃しようとしているのではない。それとは正反対で、われわれは、これらの分野がきわめて重要と感じており、明らかに事実無根のフィクションと分かるものについて、この分野に携わる人々(特に学生諸君)に警告を発したいのだ。— アラン・ソーカル & ジャン・ブリクモン 2000, p. 7

ソーカルによれば、彼ら(ポストモダン思想家)が執筆しているのは科学の論文ではなく、従って彼らの科学用語は比喩としての役割以外のものはない。従ってその厳密な科学的意味を求めても意味はなく、イメージを介して表現しにくい物事を語っているだけである。それは「用語の本当の意味をろくに気にせず、科学的な用語を使って見せる」行為であり[12]、ポストモダン思想家たちは「人文科学の曖昧な言説に数学的な装いを混入し、作品の一節に「科学的」な雰囲気を醸し出す絶望的な努力」をしている[13]
しかしポストモダン思想家たちの科学的なナンセンスぶりは単なる「誤り」として見過ごすことができるような代物ではなく、「事実や論理に対する軽蔑、といわないまでもひどい無関心がはっきりとあらわれている」[14]
さらにソーカルは、ポストモダニストの中には、比喩以外の文脈で科学用語を乱用しているものもいると主張する。ソーカルによれば、ラカンは神経症がトポロジーと関係するという自身のフィクションについて、「これはアナロジーではない」とはっきり発言している[15]。また、ブルーノ・ラトゥールも、経済と物理における特権性に関する自身のフィクションについて、「隠喩的なものでなく、文字通り同じ」[16]と隠喩でないことを強調している。また、クリステヴァ[注釈 3]は、一方で詩の言語は「(数学の)集合論に依拠して理論化しうるような形式的体系」であると主張しているのに、脚注では「メタファーとしてでしかない」と述べている[17]
ソーカルとブリクモンはこれらの思想家の著作における「科学」がいかにデタラメか繰り返し批判しているが、比喩や詩的表現そのものを批判したわけではなく、批判の焦点は、ポストモダニストが「簡単なことを難しく言うために比喩を使っている」[18]という点にあった。ポストモダン思想家による数学や物理学のアナロジーは、「場の量子論についての非常に専門的な概念をデリダの文学理論でのアポリアの概念にたとえて説明」して失笑を買うようなものだ、とソーカルは述べている[19]

反応[編集]

デリダは、ソーカルらが初期の「欺瞞」攻撃を展開しはじめた雑誌論文では、自分のことを標的としていたにもかかわらず、1997年10月19日の「リベラシオン」紙上では「フリリューとリメは我々がデリダに不公正な攻撃を加えたと非難しているが、そんな攻撃はしていない」とし、アルチュセール、バルト、デリダ、フーコーらを取り上げなかったとしたこと、そしてその記事の原文(タイムズ・リテラリー・サプルメント紙)ではデリダの名前を外し、そのフランス語訳においてデリダを標的としなかったことを指摘したうえで、「なんというご都合主義でしょうか。お二人は真面目じゃない」と断じた[20]。また、ソーカルらの批判活動の初期における対象であったデリダの言説は、1966年の講演でイポリットからの質問への即興的な応答のみを扱ったもので、デリダはソーカルらの批判の展開を予期し、議論を準備していたが、そうはならなかったこと、またゲーデルの公理や決定不能性について、デリダは幾度も言及しているにもかかわらず、それを問題としなかったこと、つまり「読む作業をしなかった」と非難[21]した上で、「悪戯が仕事の代わりになるとは、なんとも悲しむべきではありませんか」とソーカルたちの手段を皮肉っている[22]
しかし、ジャック・ブーヴレスは、ソーカルたちを擁護する立場から、デリダのこの発言を不誠実な対応だと批判している[23]
また、ソーカルによればクリステヴァは「偽情報」を提供したとしてソーカルたちを批判したという[24]
ソーカルの『「知」の欺瞞』は、認識論における認識的相対主義も批判の対象にしているが、この分野に関しては「素朴実在論」「クーン以前」と批判する論者も存在する[25]

イグノーベル賞[編集]

1996年、「ソーシャル・テキスト」誌の編集長はソーカル事件の件に関してイグノーベル文学賞を受賞した。
「著者でさえ意味がわからず、しかも無意味と認める「論文」を掲載した」[26]のが受賞理由である。
受賞に際しての「ソーシャル・テキスト」誌の編集長のコメントは「ソーカルの論文を掲載した事を、心の底から後悔しています」[26]であった。
編集長はイグノーベル賞の授賞式に出席しなかったが、ソーカルは祝福のメッセージを寄せ、そのメッセージは授賞式で読み上げられた[27]

日本における影響[編集]

日本では、山形浩生らがソーカルらの批判に応じて、浅田彰の著書「構造と力」の一部の記述を同様の仕方で批判した[28]。これに対して、浅田は、雑誌『批評空間』の公式ウェブサイトで返答している[29]黒木玄は、この点について、疑似科学批判を展開する立場から、「『構造と力』を実際に覗いてみると、 3次元空間内での「クラインの壺」の擬似的な実現に頼った説明の仕方をしているのは、山形浩生ではなく浅田彰の方である」とし、「大したことじゃないんだから、浅田彰は自分自身の失敗を認めた方が良かった」として山形を擁護している(黒木玄 2002)。しかし、この山形の批判に対して、大阪大学数学教室のトポロジスト(位相幾何学者)菊池和徳は、文脈上の流れから浅田の説明が誤っていないと反論[30]し、最終的に山形も掲示板で自らの間違いを概ね認めた[31]
なお、浅田は、ソーカル事件で示されたフランス現代思想潮流の衒学性の問題については、フランスで『「知」の欺瞞』が出版された1997年平成9年)当時から少なくとも2001年(平成13年)8月1日にいたるまで、一貫して「ソーカル事件」の教訓を強調し、ソーカルらによる論証は対象となるそれぞれの論者を本質的に批判しておらず、また批判の根拠たる科学主義も絶対ではないと応じながらも、「明晰にできることはできるだけ明晰に」すべきだというソーカルの意見をある程度認めている[29]
思想史家の仲正昌樹は、浅田と同様ソーカルたちの一部の主張を認めながらも、浅田とは必ずしも同じ見解を共有していないものの、批判対象とされた哲学者たちに関する文章や論考を執筆している立場から、ソーカルたちの主張が彼らの趣旨とは全く離れる形で、哲学が苦手な読者層や人文系に精通していない学者に受容され、ソーカルたちが批判した哲学者やそれに影響された評論が過小評価・誤解されている現状や、ソーカルの主張だけを耳にしてソーカル事件の問題点を誤解・無視している読者やネットユーザーを批判し[32][33][34][35]、『「知」の欺瞞』の日本語訳者たちについても、邦訳する際にソーカルたちが明らかに誤読をしている・文脈を見誤っている部分を訳注などで示していないことを問題視している[36]。文芸評論家の山川賢一は、仲正が著作『集中講義 日本の現代思想』において、ポストモダンが勢いを失った理由としてソーカル事件を挙げていないとして[37]、仲正のブログ記事[33]と『集中講義 日本の現代思想』における不整合を指摘しながら「ソーカル事件についての理解がずれており、反論に値しない」と揶揄しているが[38]、仲正は、ソーカルとブリクモンが槍玉に挙げていた部分がポストモダン哲学における議論の本筋とは無関係であることを主張し、二人の知識不足による混同や誤読を詳細な解説を交えて指摘しながら、日本におけるポストモダン哲学の勢いの低下とソーカル事件はそもそも因果関係が成り立っていないと再反論する中で、山川側の根本的な哲学史的知識や社会礼節の欠如を、自身のコラム内で批判している[39][40]

参考文献[編集]

ソーカル自身の文書


アラン・ソーカル

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アラン・ソーカル

生誕1955年1月24日(68歳)
アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストン居住アメリカ合衆国、ニカラグア、イギリス市民権アメリカ合衆国研究分野物理学数学科学哲学研究機関ニューヨーク大学
ニカラグア国立自治大学英語版
ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン出身校ハーバード大学 (学士号)
プリンストン大学 (博士号)論文An Alternate Constructive Approach to the φ4
3 Quantum Field Theory, and a Possible Destructive Approach to φ4
4 (1981年)博士課程
指導教員アーサー・ワイトマン博士課程
指導学生ロバート・エドワーズ、ジョゼ・ソリア主な業績ソーカル事件プロジェクト:人物伝テンプレートを表示

アラン・デイヴィッド・ソーカル(Alan David Sokal、1955年1月24日 - )は、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの数学教授とニューヨーク大学の物理学教授を兼任する学者。専門は統計力学組合せ数学。一般には、ポストモダニズムへの批判者として最もよく知られる。

1996年デューク大学出版英語版)が発行する『ソーシャル・テクスト』誌に、意図的に無意味な論文を投稿し、実際に掲載されるというソーカル事件を起こしたことで有名になった。また、ポジティブ心理学で用いられる臨界ポジティビティ比率英語版)概念を批判している。

経歴[編集]

ソーカルは1976年ハーバード大学学士号を、1981年プリンストン大学博士号を取得した。プリンストンでの指導教員はアーサー・ワイトマン1986年から1988年にかけては、毎年夏にサンディニスタ政権下のニカラグアに滞在し、ニカラグア国立自治大学英語版)で数学を教えていた。

研究[編集]

ソーカルは数理物理学と組合せ数学を研究している。特に、統計力学場の量子論から生じる問題に基づき、数理物理学と組合せ数学の間の相互作用を扱っている。彩色多項式英語版)やトゥッテ多項式英語版)についての業績があるが、これらは代数的グラフ理論と統計力学における相転移についての研究の両方で扱われる。計算物理学アルゴリズムに関心を持っており、統計物理学におけるマルコフ連鎖モンテカルロ法などに注目している。量子的自明性英語版)についての共著書もある[1]

2013年、ソーカルはニコラス・ブラウンとハリス・フリードマンと共に、ポジティブ心理学でよく用いられる概念であるロサダ・ライン英語版)を否定する論文を発表した。提案者のマーシャル・ロサダ英語版)にちなんで名付けられたこの概念は、個人の抱くポジティブな感情とネガティブな感情の比率の臨界域を意味するもので、この域を超えると人が適切な生活と職業的成功を得られる傾向が高まるとされる[2]。この臨界ポジティビティ比率という概念は、バーバラ・フレデリクソン英語版)のような心理学者たちによって頻繁に引用され、一般に広められた。ソーカルら三名による共著論文は『American Psychologist』誌に掲載されたもので、臨界ポジティビティ比率は誤った数学的推論に基づいており、妥当性を持たないと主張した[3]

ソーカル事件[編集]

詳細は「ソーカル事件」を参照

ソーカルは1996年のソーカル事件によって一般には最もよく知られている。ポストモダン、カルチュラル・スタディーズ系の雑誌『ソーシャル・テクスト』(デューク大学出版)には当時、査読制度がなかったが、この雑誌が「編集者のイデオロギー的土台におもねった」応募論文を掲載するかどうかを試すため、大げさだが実のところ全く意味をなさない文章をソーカルは提出した。タイトルは「境界の侵犯:量子重力の変換解釈学に向けて(Transgressing the Boundaries: Toward a Transformative Hermeneutics of Quantum Gravity)」[4][5]

『ソーシャル・テクスト』誌は実際にこの論文を掲載し、出版してしまう。その直後、ソーカルは論文がいたずらであることを『リンガ・フランカ』誌に暴露し[6]、左翼と社会科学は理性に基づいた知的土台によって裏付けられるべきだと主張した。雑誌を欺いたことについてソーカルは左派とポストモダニストたちから批判を受けたが、それらに対して、自分の動機は「左翼を流行かぶれから守ること」にあると答えている。

この事件は、ポール・グロスとノーマン・レヴィットが1994年に出版した『Higher Superstition』と合わせて、サイエンス・ウォーズの一部だと考えられる。

1997年、ソーカルはジャン・ブリクモンと共にフランス語で『Impostures Intellectuelles』を上梓した(1年後、英訳が『Fashionable Nonsense』というタイトルで出版された。日本語訳は『知の欺瞞』の題名で2000年に刊行)。この本では、一部の社会科学者による科学的・数学的概念の誤用が槍玉に挙げられており、また科学社会学における「ストロング・プログラム」の支持者が真理の価値を否定しているとして批判されている。この本の書評では対照的な評価が見られ、一部はソーカルらの努力を賞賛し[7]、またそれ以上の多くは判断を留保した[8][9]

2008年、ソーカルはこの事件とその含意を振り返る著書『Beyond the Hoax』を発表した。

一方で、ソーカルとブリクモンは、言及を受けた哲学者たちから、「科学的概念を濫用していることを批判している一方で、批判対象である哲学について基礎的な理解を欠いている、あるいは誤読している」という趣旨の批判を受け、一部の科学者からもソーカルたちの手法について批判の声が見受けられた。ジャック・デリダも、「こういった困難の度合いを正確に測るために読むべきであったテクストを、彼らは読んでいないと考えざるを得ません。おそらく、彼らには読めなかった、ということでしょう。彼らは全く読んでいないのですよ」とインタビュー内でソーカルたちの誤読について批判的に言及している[10]

引用集[編集]

  • 私はどうしてこんなことをしたのか。告白するが、私は恥知らずの古い左翼なので、一体どうやって脱構築が労働者階級を救うことができるのか、全く理解ができないのである。そしてまた、私はやぼったい古いタイプの科学者でもあり、外的世界とその世界についての客観的知識が存在し、自分の仕事はそれを発見することである、とナイーブに信じている[11]

  • 私のささやかな実験[ソーカル事件のこと]の結果を踏まえて確実に言えることは、アメリカの左翼学者のうち、一部の流行り好きなグループは、知的に怠慢だということである。『ソーシャル・テクスト』誌の編集者は私の論文を気に入ったようだが、それはその結論部分が彼らの好みに合致したからである。そこに私はこう書いておいた。「ポストモダン科学の内容と方法論は、進歩的な政治プロジェクトを支持する強力な知的基盤を提供する」[第6節]。示された根拠の質、議論の説得力、そして導出された結論と本文の関連性を分析することは、どうやら彼らにとって不必要な作業だと感じられたようだ[12]

  • 科学研究が私企業からの多額の資金援助を受け、その企業が特定の金銭的関心(「この薬には有効性があるか?」など)を持つ場合、科学的客観性は脅かされる。また、大学が科学研究の成果を一般公開することよりも特許権使用料を得ることを優先してしまうと、公共の利益は損なわれる。科学・技術にまつわる重要な問題は何百もある。科学社会学は、こうした問題を明らかにするという成果を上げてきた。しかし、インチキ社会学は、インチキ科学と同様に、無用であるか、ひどい場合には有害でさえある[13]

脚注[編集]

  1. ^ R. Fernandez, J. Froehlich, A. D. Sokal, "Random Walks, Critical Phenomena, and Triviality in Quantum Field Theory". Springer (April 1992) ISBN 0-387-54358-9

  2. ^ Losada, M. (1999). The complex dynamics of high performance teams. Mathematical and Computer Modelling, 30(9–10), 179–192.

  3. ^ Brown, N. J. L., Sokal, A. D., & Friedman, H. L. (2013). The Complex Dynamics of Wishful Thinking: The Critical Positivity Ratio. American Psychologist. Electronic publication ahead of print.

  4. ^ Sokal A. (1996). “Transgressing the Boundaries: Toward a Transformative Hermeneutics of Quantum Gravity”. Social Text 46/47 (46/47): 217–252. doi:10.2307/466856. JSTOR 466856.

  5. ^ Transgressing the Boundaries: Toward a Transformative Hermeneutics of Quantum Gravity

  6. ^ Sokal A. (1996). “A Physicist Experiments with Cultural Studies”. Lingua Franca: 62–64.

  7. ^ Richard Dawkins (July 1998). “Postmodernism disrobed”. Nature 394 (6689): 141–143. Bibcode: 1998Natur.394..141D. doi:10.1038/28089.

  8. ^ Stephen Hilgartner (Autumn 1997). “The Sokal Affair in Context”. Science, Technology & Human Values 22 (4): 506–522. doi:10.1177/016224399702200404.

  9. ^ William M. Epstein (1990). “Confirmational response bias among social work journals”. Science, Technology & Human Values 15 (1): 9–38. doi:10.1177/016224399001500102.

  10. ^ Derrida, Jacques (2005). Paper Machine (1 ed.). Stanford University Press. p. 71. ISBN 978-0804746205

  11. ^ Transgressing the Boundaries: an afterword. 1996 (PDF).

  12. ^ Sokal, Alan. "Revelation: A Physicist Experiments With Cultural Studies". Sokal Hoax: The Sham That Shook the Academy. Lincoln, NE: University of Nebraska, 2000. 49-54. Print.

  13. ^ Bruce Robbins; Andrew Ross (July 1996). “Mystery science theater”. Lingua Franca.. Reply by Alan Sokal.

外部リンク[編集]


きみはソーカル事件を知っているか?

堀 茂樹(ほり しげき / フランス文化)


その1

平凡社『月刊百科』 1998年2月号 No.424、14-15頁より。

「「知」の欺瞞について」のページへ


本稿の執筆に取りかかろうとしている今、97年の年の瀬である。米国の思想界でアラ ン・ソーカルの「悪戯」が物議を醸してからそろそろ二年、フランスでソーカル教授 の本『知的ぺてん』 (Impostures intelectuelles) が刊行されてからでも、早くも 三ヶ月が経過しようとしている。それにもかかわらず、米英仏の論壇をあれほど騒が せているソーカル事件、わが日本では――もしかすると私が寡聞だというだけのこと かもしれないが――いっこうに話題にならない。論評はおろか、報道さえおこなわれ ない。なぜだろう? ニューヨークやパリの知的流行には聡いはずの「現代思想」フ リークたちは、本当にソーカル事件のことを知らないのか。それとも、知っていなが ら――党派的・戦術的に――黙殺しているのか。とにかく誰も何も言わないので、不 肖私がひと言、口出しすることにした。見下しておけばよい些事かどうか、以下、ご 判断願いたい。

米国では近年いわゆる「カルチュラル・スタディーズ」が隆盛であることはつとに知 られている。わが国にもどんどん浸透してきているこの知的流派を代表する人文科学 誌の一つに『ソーシャル・テキスト』というのがある。され、この『ソーシャル・テ キスト』の1996年春・夏号に、「境界線を侵犯すること――量子引力の変形解釈学へ 向けて――」という謎めいたタイトルの、長大かつ難解な寄稿論文が掲載された。内 容はというと、世間で大雑把にポスト・モダン思想と見做されている哲学者や精神分 析家の文献、とりわけカルチュラル・スタディーズを実践する米国知識人のあいだで 絶大なプレステージを有するフランス人現代思想家ラカン、ジル・ドゥルーズ、リオ タール等の文献からの引用をふんだんに散りばめつつ、自然科学の領域においてまで 客観的な外界や普遍的な真実の存在を否定し、認識論上のラディカルな相対主義を標 傍するものだった。曰く、「物理学的『現実』は社会的『現実』と同様に、基本的 に、言語学的・社会的構築物である」……。著者はアラン・ソーカル、ニューヨーク 大学の若き物理学教授であった。

ところが、ほんの数週間後、別の雑誌誌上でA・ソーカル本人が驚くべき告白をし た。『ソーシャル・テキスト』に受け入れられた彼の論文はカルチュラル・スタディ ーズ系の学者の言説のパロディであり、その中身たるや、物理を専攻する学生なら誰 でもすぐに指摘できるような数学・物理学上のでたらめの数々と、生半可な科学知識 からの短絡的一般化とをつなぎ合わせた粗雑なパッチワークにすぎない、と。つま り、彼は、大胆な「悪戯」によって、『ソーシャル・テキスト』のような先端的な大 学出版誌が、「断言調のかっこいいスタイルで書かれていさえすれば、そして『ウル トラ左翼』的なイデオロギーに迎合するものでありさえすれば」、無茶苦茶な「論 文」を掲載することを証明してみせたのだった。ただし、早合点をすべきではない。 このソーカル事件は、マイノリティーの視点を重視する多元文化主義的人文科学に対 して、保守主義的知識人がいささかルール違反の攻撃を仕掛けた、というようなもの ではない。A・ソーカルは、サンディニスト政権下のニカラグワに渡って国立大学で 数学を教えていたというほどの左翼知識人であり、自らフェミニストであるとも公言 している。彼はむしろ、米国の左翼がポストモダン的相対主義に誘惑されるあまり、 自らの思想的起源であるはずの「啓蒙」の精神を裏切っていると考え、そのことに苛 立ったからこそ、警鐘を鳴らすべく、意図的に「事件」を起こしたのだ。

しかし、思想に国境はない。啓蒙的理性の伝統に対するこの種の新たな「知識人の裏 切り」(J・バンダ)が最初に一般化したのは、奇しくも「啓蒙」の祖国フランスにお いてではなかったか。実際、A・ソーカルがパロディ論文に詰め込んだ数学・物理学上 のでたらめや短絡の大半は、フランスの名だたる現代思想家の著作からの正確かつ忠 実(!)な引用なのである。それならいったい、先に名を挙げた数人に加えて、クリス テヴァ、イリガライ、ボードリヤール、セール、ヴィリリオなお、米国同様わが国で も人気の高いこれらポスト構造主義時代の思想家たちは、生囓りの最新科学概念をひ けらかす衒学者なのか。彼らにそうした側面があることは否定できず、見逃すわけに いかないと考えるソーカル教授は、自らの起こした「事件」の波紋がヨーロッパにも 及んでいく中で、批判の戦線をフランスにまで拡大することにした。彼の立場に賛同 したベルギー人の理論物理学者ジャン・ブリックモンと共著の本『知的ぺてん』がパ リのオディール・ジャコブ社から世に出たのは、97年10月の初めだった。ただの告発 文書ではない。夥しい具体的事例を引き、予想される反論に備えて周到な布石を打っ た端倪すべからざる論争の書である。刊行と同時に、フランスの知識人界に激震が走 ったことはいうまでもない。

次回、その激震のありようを報告してみたい。



その2

平凡社『月刊百科』 1998年3月号 No.425、42-43頁より。


さて、米国人アラン・ソーカルとベルギー人ジャン・ブリックモン、この二人の物理 学者の共著の書『知的ぺてん』は、科学的な知を「叙述」に還元したり、「社会的構 築」物と見做したりする認識論上の相対主義を批判しつつ、米国で優勢なポスト・モ ダニズムの言説の中で格別の敬意をもって引用されることの多い哲学者たち――ほかで もない1960年代フランス思想の代表者たち――による数学・物理学概念の濫用がいか に目に余るものであるかを示そうとした本である。1997年10月にこれが世に出るやい なや、『ル・モンド』をはじめとする日刊紙、『ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥ ール』のような週刊誌、また知的レベルの非常に高いラジオ放送局〈フランス・キュ ルチュール〉などのメディアがこぞって大きく紹介し、論議の対象とした。12月初旬 にはインターネット上に、同書についてのサイトが約600も流れていたという。『知 的ぺてん』の内容は確かに衝撃的なのである。

なにしろ、ソーカル&ブリックモンによれば、J・ラカンは自然科学の概念を居丈高 に、つまりいささかの説明もなく人文科学の領域に密輸したのであり、ボードリヤー ルは最近でも、意味のないフレーズを意味ありげに弄んで「言葉遊びに耽っている」 らしい。都市学者P・ヴィリリオも、難解な数理物理用語をでたらめに使い、「うわ べだけの博識を誇っている」らしい。J・クリステヴァはといえば、近年はともかく 1970年代前半まで、一知半解の科学概念をまったく不適切に援用していたという。し かも、その類のいい加減さと知ったかぶりは、あのジル・ドゥルーズとフェリック ス・ガタリの場合もまったく同断であるらしい……。あるテクストが晦渋だからとい って、そこに深遠な知的内容が盛り込まれているとはかぎらない、王様は裸だ、とい うわけである。

私はここで一応「らしい」を連発した。しかし実をいえば、ソーカル&ブリックモン は問題の思想家たちのテクストを断片的にではなく、これでもかというくらいに長々 と引用しているし、そのうえで間然とするところのない論証を展開しているので、私 を含めて彼らの本の読者は、「らしい」などという留保を結局は外さざるを得ない。 その証拠に、『知的ぺてん』の出版後、この本を貶したり、見下したりした論評は数 多く現れたけれども、事実誤認を指摘したり、著者の分析に合理的な反論を加えたり した者は一人もいない。では。攻撃された本人やその信奉者たちは、どんな反撃をお こなっているのか。列挙してみよう。 (1) やり玉にあげられた思想家たちは科学概 念をメタファーで使っているのだから、それを額面どおり受け取って批判するのは見 当違いだ。 (2) 言説の枝葉末節を批判しても、思想の批判にはならない。 (3) 哲学 に対して「科学的に正しい」ことを求めるのは、思想の冒険を封殺する検閲行為だ。 (4) フランス人思想家ばかりを標的にする『知的ぺてん』は、米国の一部の知識人の 「保護主義」を反映するアンチ・フランスの書だ。ほぼ、以上に尽きる (なお、正々 堂々と立ち向かうかわりに「論じるに足らぬ」といわんばかりの言辞を吐き、無視を 決め込もうとするJ・デリダその他のやり方は反撃の名に値しまい)。

しかしいったい、このような反撃に説得力があるだろうか。 (1) ソーカル&ブリッ クモンは「メタファーへの権利」を哲学者から奪おうとしてはいない。彼らの批判対 象は、論旨を照らし出すどころか読者を煙に巻くこと以外に何の意味もない「メタフ ァー」に限定されている。 (2) ソーカル&ブリックモンは、それぞれの思想家の思 想全体に判断を下すことはしないと明言したうえで、数物理学概念の濫用だけを咎め ている。 (3) 「科学的に正しい」という要請を嫌うなら、最新科学用語による言説 の権威づけなどしなければよいのだし、そもそも権威主義的スタイルは思想上の大胆 さと何の関係もない。 (4) このナショナリスティックな反論はクリステヴァらが憶 面もなくおこなっているものだが、いたずらに論点を逸らそうとするものでしかな い。そもそもソーカル&ブリックモンが標的にしたのは、フランス現代思想を担う一 部の思想家にすぎない。サルトルにも、リクールにも、レヴィナスにも、さらにデリ ダにも、そして近年フランス思想を刷新しつつある若い世代の一群の知識人たちに も、彼らは何らクレームをつけてない。そのうえ、このたびの著作をこう締めくくっ ている。


思い出そうではないか。ずいぶん昔のとだが、ある国では、思想家や哲学者たちが 豊かな科学的教養に触発されて明晰に思考し、明快に書き (・・・・)、かつ得た知識を 同国市民のあいだに広めようとしていた (・・・・)。その時代は啓蒙の時代であり、 その国はフランスであった。 (強調筆者)

『知的ぺてん』は、アンチ・フランスなどというレッテルを貼りつけて押し退けるこ とのできるような本ではない。

むろん、ソーカル事件などメディアが騒いでいるだけだ、フランスの第一戦の哲学者 たちは問題にしていない、と言い放つ方々がいらっしゃるにちがいない。が、私は賭 けてもいいと思う。この本の影響は5年後、10年後、フランスでじわじわと表面化 し、到底無視できないものとなるだろう。あの国では、思想の闘いはそんなふうに展 開する。ソーカル事件の激震は、現代のフランス思想界の地下にまた一つ亀裂を作っ た。



初出年月日からわかるように、これは一年以上前に書いた記事であるが、 田崎晴明氏と黒木玄氏のお勧めがあって、田崎氏の web page をお借りして公開することにした。 近い内に、フランスでの論争のその後を――場合によっては日本におけるそれと対照 しつつ――報告することを考えている。
1999 年 3 月  堀 茂樹


https://www.gakushuin.ac.jp/~881791/fn/norettaJ.html


ーシャル・テクスト事件からわかること、わからないこと


What the Social Text Affair Does and Does Not Prove

in A House Built on Sand: Exposing Postmodernist Myths about Science, edited by Noretta Koertge (Oxford University Press, 1997)

(Original text: http://www.physics.nyu.edu/faculty/sokal/noretta.html )

Alan D. Sokal (April 8, 1997)

田崎 晴明

Copyright: 1997 Oxford University Press. 著者を通じて翻訳を web 上で公開する許可を得ています。
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私がこの本を書いたのは、よく引用される古典ありのままの内容を正しく伝えるためだけではない。 私にとってのより大きなターゲットは、科学哲学の成果を身勝手に流用して、それらが到底あてはまらないような様々な社会的、政治的な主張の裏付けにするという試みを執拗にくり返す同時代の人々なのだ。 フェミニスト、(「創造説科学者」を含む)宗教の擁護者、カウンターカルチャリスト、新保守主義者、そして、その他諸々の物好きな同類たちは、たとえばパラダイムの通約不可能性や科学理論の非決定性といった考えが、彼らの立場を支持する重要な材料になると主張している。 事実と証拠こそが大切だという考えを捨てて、すべては結局のところ主観的な興味やものの見方に帰着してしまうという考えを取ることは、(アメリカの政治キャンペーンを除けば)今日もっとも顕著で危険な反知性主義の現れである。
--- Larry Laudan, Science and Relativism[1]

正直なところ、科学史、科学社会学、科学哲学についての批判的研究を集めたこの論文選集のイントロ的なエッセイを書くように頼まれて、さすがの私も少々とまどっている。 何と言おうと、私は、歴史家でも、社会学者でも、哲学者でもない。 私は、科学哲学に素人なりの興味をもっていて、 ひょっとするとものごとをきちんと考える技術を少しは身につけている一介の理論物理学者に過ぎないのだ。 ソーシャル・テクスト誌の共同創刊者のスタンリー・アロノヴィッツは、私のことを「半教養人の涜書家[2][訳注1]」と評したが、ああ哀しいかな、彼は完璧に正しかったのである。

読者もご存じだろうが、この分野への私の貢献は、一風変わった(そして、どう考えても制御の難しい)一つの実験から始まった。 私は「境界を侵犯すること --- 量子重力の変形解釈学に向けて」と題したポストモダンの科学批評のパロディーを書き、(もちろん編集者にはそれがパロディーだとは告げず)カルチュラル・スダディーズの雑誌ソーシャル・テクストに投稿したのだ。 ソーシャル・テクスト誌では、彼らのいう「サイエンス・ウォーズ」を特集した 1996 年春の特別号に、このパロディー論文を、まじめな学術論文として掲載した[3]。 その三週間後に、私はリンガ・フランカ誌に寄せた記事[4]で、このいたずらを暴露した。 かくして、どんちゃん騒ぎの幕が切って落とされたのだ[5]

このエッセイでは、「ソーシャル・テクスト事件」から何がわかって、何がわからないかについての私の考えを簡単に議論したい。 だがその前に、私は自分の「縄張り」に社会学者が入ってくることを一切許さない傲慢な物理学者だという濡れ衣を着せられることのないように、私が科学の社会的研究から得られるだろうと思っているプラスの事柄をいくつか挙げておこう。 以下の点については、異論がないことを願っている。

1) 科学も人間の営みの一つであり、他の人間の営みと同じように、厳密な社会的分析を行う価値がある。 どのような研究テーマが大切だと考えられているのか、研究予算はどのように配分されているのか、誰が名声と権力を手に入れるのか、公共政策についての議論において科学の専門知識はどのような役割を果たすのか、科学知識はいかなる形で誰の利益のために科学技術として実現されるのか? これらすべての点は、科学の研究の内部での論理のみならず、政治的、経済的な、そしてある程度はイデオロギー的な要素に強く左右される。 これらの問題は、歴史学者、社会学者、政治科学者、経済学者による現実に即した研究の実り豊かな題材になるはずだ。

2) より微妙なレベルでは、どのような理論が発案され考察の対象にされ得るのか、競合する理論を比べるのにどのような基準を用いるべきなのかといった科学の論争の中身さえもが、部分的には、時代を支配する精神に縛られている。 そして、時代の精神というものは、部分的には、根深い歴史的な諸要因から生まれてくるものなのだ。 一つ一つの実例について、科学の発展の筋道が決まっていく段階で「外的な」要因と「内的な」要因が果たした役割を選り分けて吟味することは、科学史と科学社会学のテーマである。 このような問題を考えるとき、科学者は「内的な」要因を重視しがちで、社会学者は「外的な」要因を重視しがちになる。 科学者と社会学者が、お互いの考えをよく理解し合ってていないという理由だけからでも、そうなることは納得できるだろう。 しかし、こういった行き違いは、必ず合理的な論争によって解決を図ることができるはずだ。

3) 政治的な目標を実現するための研究も、その目標のために目がくらんで都合の悪い事実が見えなくなってしまうようなことがなければ、決して悪いものではない。 実際[6]、人類学風の疑似科学や優生学に対する反・人種差別主義の立場からの批判[7]や、心理学および医学と生物学の一部に対するフェミニストの立場からの批判[8]のような、科学への社会・政治的批判には、長く実りの多い歴史がある。 こういった批判は、一般に次のような決まった手順を踏んで行われる。 まず最初に、よい科学の満たすべき通常の基準に照らしたとき、問題にしている研究には欠点があることを、通常の科学的な議論によって示す。 それが終わった後で、というよりも、それが終わった後でのみ、もう一歩踏み込んで、その科学者たちが何らかの社会的な偏見(それは無意識のものかもしれない)をもっていたがために、よい科学の基準を破ることになってしまったことを説明しようとするのだ。 もちろん、そういった批判がうまくいくかどうかは、批判それ自身の真価から決まる。 よい政治的な意図をもっているからといって、よい科学、よい社会学、よい歴史学を生み出せるという保証はないのだ。 けれど、このような二段階のアプローチは、一般的にいって、正しいものだと私は思っている。 そして、現実に即したこのような研究を、十分な知的厳密さをもって行えば、どのような社会的条件のもとでよい科学(慣例に従って、この世界についての真実、あるいは近似的な真実の探究と定義することにしよう)の発展が助長され、あるいは阻害されるのかという問題に光をあてることができるはずだ[9]

科学史や科学哲学の意義のある研究テーマが、これらの三点に尽きるなどというつもりはない。 けれど、これらが広範囲に及ぶ重要な研究分野だということは確かだろう。 それにも関わらず、この二十年ほどの間に、一部の社会学者や文芸理論家たちは、もっと欲張りになってきてしまった。 大まかにいってしまうと、彼らは、科学研究はこの世界についての真理や近似的真理の探究であるという大元の考えを攻撃したがっているのだ。 彼らは、科学は単なる社会的な営みの一つにすぎず、そこから産みだされる「物語」や「神話」は他の社会的な営みから産みだされるものに比べて特に正しいわけではないと考えたがっている。 一部の人々は、さらに踏み込んで、科学という社会的な営みには、ブルジョア的・西欧中心的、男性上位主義的な世界観が焼き付いていると主張しようとしている。 もちろん、短い要約の例にもれず、このようにまとめてしまうのは単純化のし過ぎではある。 いずれにせよ、「新しい」科学社会学をみたところで、明らかな指導原理があるわけではなく、いやになるほど多種多様な研究者がいて学派があるだけなのだ。 そして、もっと大切なこととしては、この分野の文献は、もっとも肝心な部分がどうしようもなく曖昧に書いてあることが多い(これは、後でラトゥールとバーンズ=ブルアの例でみることにしよう)ために、適切な要約をするのが難しくなっているという事情もある。 それでも、ほとんどの科学者や科学哲学者は、有名な社会学者ハリー・コリンズがいうように「科学知識の形成には、自然界はほとんど、あるいはまったく影響を及ぼさない[10]」ことや、ブルーノ・ラトゥールとスティーヴ・ウルガーのいうように「現実というものは」彼らのいう「事実の社会的構築」の「帰結であって、原因ではない[11]」ことを知れば、大いに驚くに違いない。



以上の前置きをした上で、「ソーシャル・テクスト事件」から(そもそも何かがわかるとして)何がわかるかを考えてみたい。 そして、私の熱心すぎる支持者が行き過ぎた主張をすることもあったので、この事件からは何がわからないかも考えたい。 このような分析をする際には、パロディー論文が出版されたという事実からわかることと、論文の内容からわかることを区別することが大切である。

パロディー論文が出版されたという事実だけからは、大したことはわからないと私は考えている。 それによって、カルチュラル・スタディーズ、あるいは、科学のカルチュラル・スタディーズという分野全体が無意味だとか、まして科学社会学に意味がないといったことが示されるわけではない。 また、これらの分野での知的水準が一般的にいって厳しさを欠くことが示されるわけでもない。 (実際にそうなのかもしれないが、それを示すためには別の根拠を持ち出さなくてはならない。) やや風変わりなたった一つの雑誌の編集者が、その知的な義務を怠ったことが示されるだけなのだ。 彼らは、単に(ソーシャル・テクスト誌の共同編集者ブルース・ロビンスが後に認めたように[12])「うまい具合に信用ある立場にいる味方」が書いたものであり、編集者たちのイデオロギー的な傾向にくすぐっていて、彼らの「敵」を攻撃しているというだけの理由で、自分たちには理解できないと認めている量子物理についての論文を、専門家の意見を一言も聞かずに、雑誌に掲載してしまったのである[13]

だから、どうしたの[14]? これだけの話なら、そう尋ねたくなるのももっともだろう。

パロディー論文の内容を検討すれば、このもっともな疑問への答えが得られる。 ここでいっておきたいのだが、私の論文についての議論の中で、一つの重要な点が見落とされていることが多い。 そう。 この論文は滅茶苦茶におもしろい。 私は控えめな人ではないし、この作品には誇りをもっている。 けれども、この論文の一番笑えるところを書いたのは、私ではないのだ。 もっともおもしろいところは、ポストモダンの大家の文章のそのままの引用であり、私はそれらに嘘の賛辞を浴びせたのだ。 実のところ、この論文の骨格は、フランスやアメリカの名高い知識人が数学や物理(及び数学や物理に関する哲学)について書いたものの中で、私がみつけた限りでは、最高に馬鹿馬鹿しいものの引用でできあがっている。 私がやったのは、これらの引用を結びつけ褒め讃えるための無意味な議論をねつ造することだけだった。 もちろん、その際には、脱構築流の文芸理論、ニュー・サイエンス風エコロジー、いわゆる「フェミニスト認識論[15]」、極端に社会構築主義的な科学哲学、さらにはラカン流の精神分析などの流行の思想のでたらめなごった混ぜも並べ立ててみせたのだが、これによってパロディー論文はいっそう笑えるものになった。 場合によっては、私自身がより穏健で正確な形で信じている考えの極端で曖昧なバージョンをパロディーに使いもした。

では、私が「馬鹿馬鹿しい」というのは、正確にはどういうことだろうか? ごく大ざっぱに二つの範疇に分類してみよう。 一つ目は、無意味な主張や馬鹿げた意見知ったかぶりまがい物の教養をひけらかすことなどである。 二つ目は、ずさんなものの考え方(sloppy thinking)と薄っぺらい哲学で、これら二つが軽薄な相対主義の形をとって同時に現れることが(いつもではないが)実に多い。

もしも量子力学やゲーデルの定理について論じたてて恥をかいている文学部の助教授あたりだけを相手にしているのなら、この一つ目の範疇はさして重要ではないだろう。 けれども、大学の書籍部のカルチュラル・スタディーズのコーナーに占める割合で測る限りにおいては重要な知識人とみなされる人たちを相手にしている以上は、この点もはるかに大切になってくるのだ。 たとえば、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリはカオス理論について次のように書いている。

減速するということは、すべての速度が超えない限界(リミット)をカオスの中に置くということであり、しかも結果的に、横座標(アプシス)[外延量]として規定されるひとつの変数を諸速度が形成し、同時に、超えることのできない普遍的定数を限界(リミット)が形成するということである(たとえば、収縮の最大値)。 したがって、第一のファンクティヴは、限界(リミット)と変数であり、そして準拠は、変数のもろもろの値のあいだの関係、あるいはもっと深く見るなら、諸速度の横座標(アプシス)としての変数と限界(リミット)との関係である[16]

これだけではない。 ジャック・ラカンとリュス・イリガライは微分幾何学について、ジャン-フランソワ・リオタールは宇宙論について、そしてミッシェル・セールは非線型な時間について書いている。 けれど、これらは読者のお楽しみに残しておこう[17]。 (ところで、私のパロディー論文の中の引用がもとの文脈を外れたものではないかと思うなら、脚注の文献リストをたどって元の文献をみてご自分で判断していただきたい。 これらの引用は、もとの文脈においた方がよりひどくみえることがわかるはずだ。)

無意味な引用がすべてフランス産というわけではない。 アメリカでの科学のカルチュラル・スタディーズの流行に通じていれば、もっとたくさん吟味すべきねたをみつけることができると思う。

「よろしい」 とサイエンス・スタディーズの代表は反論するだろう。 「確かに英文学科の我々の友人の一部は、ラカンやドゥルーズを真剣に読んでいるかもしれない。 しかし、我々の世界にはそんな研究者はいないのだ」と。 確かにそうだろう。 では、Social Studies of Science(科学の社会的研究)誌に掲載されたブルーノ・ラトゥールの相対性理論の記号論的分析をみてみよう。 ラトゥールは「アインシュタインのテクストを代表の派遣に関する社会学への貢献として読む[18]」という。 どうしてそんな話になってしまうのだろう? アインシュタインの書いた相対性理論の解説書には、著者がある観測者をプラットホームの上に派遣して何らかの測定をしてもらい、また別の観測者を列車の中に派遣して何らかの測定をしてもらうという状況が何度もでてくるからなのだ。 そして、二人の観測者が頼まれた通りのことをしなければ、当然ながら、測定の結果はローレンツ変換には従わないからなのだ! 私が話をわざと茶化していると思うだろうか? ラトゥールは、アインシュタインの次のような点を強調している。

変形 (deformation) のない変換 (transformations) によって情報 (information) を送りたいという彼の強迫観念。 読みとった情報を正確に重ね合わせたいという彼の情熱。 遠くに派遣された観測者が、自分を裏切り、特権を維持して我々の知識の拡大に役立たないような報告を送ってくるのではないかと考えたときの彼の狼狽。 派遣する観測者たちを規律の下におき、彼らを時計の目盛りを読みとるだけの装置に従属した部品にしてしまおうという彼の欲望。・・・ [19]

さらにラトゥールは物理において「座標系[訳注2]」という言葉が何を意味しているのかが理解できず、それを記号論の「行為者」と混同してしまった。 そのために、彼は、相対性理論では二つの座標系の間の変換を扱うことはできず、少なくとも三つの座標系が必要だと主張する。

もしも座標系が一つしか、あるいは、二つしかなければ、解決策はない。 ・・・ アインシュタインの解は、三人の人物=行為者を用いることである。 一人は列車の中にいて、一人は線路脇にいる。 そして、三人目は著者[発話者]ないしはその代理人で、あとの二人が送り返してきたコード化された観察結果を重ね合わせようとするのである[20]

これに加えて、ラトゥールは相対性理論では異なった観測者の(相対的な運動ではなく)相対的な位置に関する問題を扱うという考えをもってしまったようだ。 (もちろん、「観測者」という言い方そのものが誤解を生みやすいのだ。 これは相対論の説明のための方便であって、理論の構成要素ではない。) ラトゥールによる相対性理論の意味の総括をみておこう。

[特殊相対性理論と一般相対性理論という]二つの相対論を受け入れるなら、より多くのより特権性の低い座標系を利用すること、還元すること、集積すること、そして、組み合わせることが可能であり、観測者を無限大(宇宙)と無限小(電子)の中のもう少し多くの場所に派遣することができ、そして、彼らが送り返してきた情報は理解可能になる。 彼[アインシュタイン]の本のタイトルは、「長距離科学旅行者を呼び戻すための新しい手引き」としてもよかったのである[21]

この話に私がこれ以上深入りする必要はない。 この論文集に収められた論文で、ハス教授が相対論についてのラトゥールの混乱を詳しく冷静に分析している。 要するに、ラトゥールは、今日では優秀な大学の一年生がカリキュラムの一環として学んでいる理論に関して、四十ページにも及ぶ笑える間違いを書き並べ、Social Studies of Science 誌はそれを価値ある学術的貢献とみなしたということだ。

ナンセンスの実例は、もうこれで十分だろう。 (その気になれば、もっといくらでも例はあるけれど。) 知的な問題としてより大切なのは、サイエンス・スタディーズの多くの分野に蔓延しているずさんなものの考え方と軽薄な相対主義である。 (本格的な科学哲学者の間には、概して、そのような風潮はない。) こういう傾向の文献を詳しく読んでみると、意味が曖昧で、二つの異なった読み方ができるような見栄えのよい主張にしょっちゅう出くわす。 一つ目の読み方をすると、そういう主張は、おもしろく劇的だが、どうしようもなく間違っている。 二つ目の読み方をすると、そういう主張は、退屈で、まったく当たり前の理由で正しいのだ。

ここでもラトゥールから始めることにしよう。 ラトゥールの本「科学が作られているとき(Science in Action)」で、彼は科学社会学者のための七つの方法の規則を議論している。 第三の規則をみてみよう。

ある論争の解決は、自然の表現が得られる原因であって、その結果ではない。 よって、論争が如何にして如何なる理由で解決されたかを説明するために、 その帰結 --- 自然 --- を利用することは許されない[22]

ラトゥールは何の断りもなく、前半の「自然の表現」を後半では単なる「自然」にすり替えていることに注意したい。 仮に後半の「自然」も「自然の表現」に置き換えてこの文章を読み直せば、科学者による自然の表現(つまり科学の理論)は社会的なプロセスの結果として得られるものであり、その結果だけを使ってそのプロセスの詳細を説明することはできないという極めて当たり前の話になってしまう。 他方、後半での「自然」を文字どおりに受け取り、しかもそれが「帰結」という言葉と等置されていることを考えると、ここから人間の外の世界は科学者の話し合いによって作られたという主張が読みとれてしまう。 外の世界は人類が生まれる百億年ほど前から存在していたことを考えると、これは、どう大目に見ても、奇怪な主張である[23]。 さいごに、後半の「自然」を文字どおりに取り、かつその直前にある「帰結」という言葉を忘れることにすると、(a) 科学的な論争の推移や結果は外の世界の性質だけでは説明しきれない(何らかの社会的要因が介入するのは当然である。 少なくとも、その時点でどのような実験が技術的に可能かという問題があるし、他にもより微妙な社会的な影響もある)という弱く当たり前の主張か、(b) 外の世界の性質は、科学的な論争の推移や結果を左右するような役割は果たさないという強いが明らかに誤った主張が読みとれる[24]

そこで、我々としても、ポストモダン的学術作品の解釈における第一の規則「如何なる言説もその記述するところを意味するものではない」を適用してみることにしよう。 そうすれば、ラトゥールの格言にも意味をもたせることができるかもしれない。 第三の方法の規則を、哲学的な原理としてではなく、科学社会学者のための方法論的な原理として読んでみよう。 より正確にいうと、実験や観察から得られたデータが本当に科学者たちが導いた結論を保証しているかどうか自分自身で独立に判断するだけの専門知識がない場合に、科学社会学者が用いる方法論として読むのである。 (こういう方法論は、現代科学を研究するときに特に役に立つ。 その場合には、研究対象となっている科学者社会以外に、独立に評価を行ってくれる別の科学者社会が存在しないからだ。 これに対して、遠い過去についての研究では、初期の実験よりも進んだ実験結果をはじめとして、その後に科学者たちが学んだことを社会学的な研究にも活かすことができる。) このような状況では、社会学者は「研究対象である科学者社会が X という結論に達したのは、X が実際にこの世界のあり方だからである」とは断言しづらいだろう。 たとえ本当に X が世界のあり方で、それこそが科学者たちが X を 信じた理由だったとしても、社会学者にとっては、 研究対象の科学者社会がそれを信じるようになったという事実以外に X が実際に世界のあり方だと信ずべき独立の根拠がないからである。 いうまでもないことだが、このような袋小路で下すべき賢明な結論は 一つしかない。 自分自身で科学の論争についての事実を評価する能力がないなら、信頼に足る独立した評価を与えてくれる別の科学者社会(たとえば後世の科学者社会)が存在しない限りは、科学の論争を社会学の研究の対象にすべきではないということだ。 ラトゥールや彼の同業者たちがこの結論を好ましくは思わないだろうことは言うまでもない。 スティーヴ・フラーの言葉を借りれば、彼らの目標は「研究対象の分野の専門家にならなくても、科学の『内的過程 (inner workings)』と『外的性格 (outer character)』の双方を見抜くことができる方法を用いること[25]」だからである。

ラトゥールの第三の方法の規則のような、サイエンス・スタディーズでのずさんなものの考え方には、本来区別されるべき複数の概念をいっしょくたに扱ってしまうという特徴があるように思う。 多くの場合、言葉の使い方を一方的に宣言することで、このようないっしょくたの扱いが実現されている。 古い言葉や成句を、意図的に極端に新しい意味に使うことによって、二つの意味を区別しようという道を完全にふさいでしまうのだ。 明らかに、論理では達成しきれないものを、定義によって達成しようとしているのである。 たとえば、よく耳にする「事実の社会的構築[26]」という言い方を用いることで、事実そのものと事実に関する知識の相違を意図的に黙殺しているのだ。 別の例を挙げると、哲学者は通常「知識」という言葉を「正当化された真である信念」や、それに似た意味で使っているのだが、バリー・バーンズとデヴィッド・ブルアは、「知識」を「集団的に受け入れられている任意の信念体系[27]」という意味に定義し直している。 おそらく、バーンズとブルアは、特定の信念が真であるとか合理的に正当化し得るかを調べることには興味がないのだろう[28]。 しかし、彼らが信念のそういった側面は自分たちの目標には関係がないと思うのなら、言葉の定義を変えて問題をややこしくするのではなく、その点をはっきりと表明し、その理由を説明すべきなのだ[29]

より一般的にいって、サイエンス・スタディーズでずさんなものの考え方が現れるときには、以下に挙げる異なったレベルの問題の二つ以上をいっしょくたにしているように思える。


  1. 存在論  この世界にはどのような対象が存在するか? これらの対象について、どのような言明がであるか?

  2. 認識論  人間は如何にしてこの世界についての真実に関する知識を得ることができるのか? どのようにすれば、知識がどの程度信頼できるかを評価できるのか?

  3. 知識の社会学  ある社会に属する人間に知られている(あるいは、知ることができる)真理は、社会的、経済的、政治的、文化的、イデオロギー的な要素にどの程度影響されているか(あるいは、規定されているか)? 誤って真実だと信じられている正しくない事柄についても、同じ問題を考えることができる。

  4. 個人の倫理  科学者(あるいは技術者)は、どういう種類の研究を行うべきか(あるいは、行うことを拒否すべきか)?

  5. 社会の倫理  社会は、どういう種類の研究を奨励し、助成し、公共予算で援助すべきか(あるいは逆に、やめるように勧告し、税を課し、禁止すべきか)?

明らかに、これらの問題はお互いに関係している。 たとえば、もしこの世界についての客観的な真実というものが存在しないのなら、(ありもしない)真実をどうやって知るのかを考えることにはあまり意味はないだろう。 だが、概念的には、これらの問題は別個のものである。

たとえば、サンドラ・ハーディング[30]は(ポール・フォーマン[31]の論文を引用して)1940 年代と 1950 年代のアメリカでの量子エレクトロニクスの研究のかなりの部分が、軍事的な応用の可能性を動機にしていたことを指摘している。 ご説、ごもっとも。 ところで、量子力学によって固体物理学が可能になり、固体物理学によって(トランジスターをはじめとした)量子エレクトロニクスが可能になり、量子エレクトロニクスによって(コンピューターをはじめとした)現代の先端技術のほとんどが可能になった。 そして、コンピューターには、社会にとって有益な影響(たとえば、ポストモダンの文化批評家が論文を能率的に仕上げることができるようになったこと)もあれば、害のある影響(たとえば、アメリカ軍が人間をより能率的に殺傷できるようになったこと)もあった。 ここから、個人の倫理と社会の倫理についての一連の疑問が生じてくる。 社会は、コンピューターの特定の応用を禁止する(あるいは中止するように勧告する)べきか? コンピューターについての研究そのものを禁止する(あるいは中止するように勧告する)べきか? 量子エレクトロニクスについての研究を禁止する(あるいは中止するように勧告する)べきか? それとも、固体物理学か? いや、量子力学か? 科学者や技術者個人の姿勢に関しても、同じ問題がある。 (明らかに、この質問のリストの下に来るほど「禁止すべきだ」という回答に理屈をつけるのは難しくなる。 しかし、私は、これらの質問のどれについても、そもそも的外れな問いだとはいいたくない。) 同じように、社会学的な問題も生じてくる。 たとえば、計算機科学、量子エレクトロニクス、固体物理学、量子力学について我々がもっている(正しい)知識、そして、他の科学のテーマ(たとえば地球規模の気象現象)について我々が十分な知識をもっていないという事実は、どの程度まで軍事主義に偏った公共政策の選択の影響を受けているのだろうか? 計算機科学、量子エレクトロニクス、固体物理学、量子力学についての(そういうものがあるとして)間違った理論は、どの程度まで、社会的、経済的、政治的、文化的、イデオロギー的な要素、特に軍事主義的な文化に(全面的にしろ、部分的にしろ)影響されているのだろうか[32]? これらは、すべて重要な問題であり、もっとも厳密な科学的、歴史的な証拠に基づいて慎重に研究する必要がある。 けれども、これらの問題は、原子(あるいは、シリコン結晶やトランジスターやコンピューターが)が本当に量子力学(あるいは、固体物理学や量子エレクトロニクスや計算機科学)の法則に従うのかという大元の科学的な問題には微塵の影響も与えないのである。 アメリカの科学の軍事主義的な傾向は、存在論の問題にはこれっぽっちも関わってこないし、無茶苦茶ありそうもない筋書きを想定しない限りは、認識論の問題にも一切関わりはない。 (たとえば、世界中の固体物理学者が、科学的証拠についての正しい基準と彼らが信じるものに従って研究しつつも、半導体の性質に関するある理論がもたらすだろう軍事技術の革命に目を奪われたあまりに、実際には間違っているその理論を性急に受け入れてしまうといった筋書き。)

エディンバラ学派の「ストロング・プログラム」のような極端な社会構築主義と相対主義も、根本のところで、存在論と認識論と知識の社会学をきちんと区別しないという同じ誤りを犯していると私は考えている。 バーンズとブルアが、彼らが支持する相対主義の形態について説明した文章をみてみよう。

我々の等価仮定は、すべての信念は、それが信頼される原因に関しては互いに 等価であるということである。 すべての信念が同様に真であり、 あるいは同様に誤りであるというのではなく、 真偽によらず、 それが信頼されているという事実が等しく問題とみなされるべきである ということである。 すなわち、全ての信念の生成は例外なく経験的に探究されるのであり、 信じられているということの特定の、局所的な原因を見出すことによって 説明されなければならないということである。 このことが意味していることは、 社会学者がある信念を真であり、合理的であると評価するにせよ、 あるいは、偽であり、非合理であると評価するにせよ、 それが人々に信じられている原因を探さなければならない。 ・・・ こうした問題は、社会学者自身の規準でその信念がどう判断され、 評価されるかによらずに、答えることが出来るし、答えるべきである[33]

この引用から、そしてこの前の部分からも、バーンズとブルアが存在論的相対主義を唱えているのではないことは明らかに思える。 彼らは、「すべての信念が等しく真実だと宣言すると、互いに矛盾する信念があったときにどう対処すべきかという問題に直面する」ことを認め、さらに「すべての信念は等しく真実でないと宣言すれば、相対主義者のその言明そのものの位置づけが問題になる」とも書いているのだ[34]。 彼らは、全ての信念は同様に信頼でき同様に合理的だとする認識論的相対主義を唱えているのかもしれない。 彼らが、(たとえば modus ponens[訳注3]のような)もっとも基本的な演繹的な推論の規則までをも攻撃している[35]のをみると、この解釈ももっともに思える。 しかし、彼らは科学社会学者のためのある種の方法論的相対主義を唱えていると考える方がもっともらしいだろう。 問題なのは、これがどのような方法論的相対主義かということだ。

我々にとって正しかろうが誤っていようが、合理的だろうが非合理的だろうが、すべての信念の原因を説明するのに同じ社会学と心理学の方法を使わなくてはならないというだけのことならば、私としても特に異論はない。 (人間の信念はすべて社会科学によって因果的に説明できるはずだという超科学主義的な態度は受け入れがたいが。) しかし、ただ社会的な要因だけがそのような説明に必要で、実際の世界のあり方が介入しないというのなら、私には絶対に賛成することはできない[36]

具体的な例を考えてみよう。 ヨーロッパの科学界が 1700 年と 1750 年の間にニュートン力学が正しいことを受け入れたのは何故だろう? この説明のためには、様々な歴史的な、社会学的な、イデオロギー的な、そして政治的な要因を考慮しなくてはならないことは間違いない。 たとえば、ニュートン力学はイギリスでは素早く受け入れられたのに、フランスで受け入れられるには時間がかかったのは何故かといったことも説明しなくてはならない[37]。 しかし、説明の一部(しかも、かなり重要な部分)は、惑星や彗星が現実にニュートン力学の予言に(完璧にではないが、非常に高い精度で)従って運動するという事実から来ていることは確実である[38]。 また別の例をとれば、ヨーロッパと北米の科学界での主流の考え方が、今世紀の間に、創造説からダーウィニズムに移っていったのはなぜだろうか? これを説明するときにも、様々な歴史的、社会学的、イデオロギー的、政治的な要素を考える必要があるだろう。 しかし、化石の記録やガラパゴス諸島の生態に一切触れずに、この考えの変化をきちんと説明することができるというのだろうか?

万が一話のポイントが伝わっていないときのために、もっと卑近な例を考えよう。 中で象の群れが暴走しているぞと大声で叫びながら講堂の中から慌てて走り出してきた人に出くわしたとしよう。 これを聞いてどう対処するか、特にこの主張の「原因」をどう評価するかは、実際に部屋の中で象の群れが暴走しているか否かに大きく依存するのは明らかだと思う。 いや、我々が外界と直接には接触できない以上、正確には、我々が他の人たちといっしょに(おそるおそる!)部屋を覗いたときに、象の群れが見えるか、群れが暴走している音は聞こえるか、あるいは、群れが部屋を出る前にあたりを破壊した痕跡がみつかるか否かというべきだろう。 そのような象の群れの証拠が見つかれば、一連の状況のもっとも確からしい説明は、実際に部屋の中では象の群れが暴走しており(あるいは、していたのであり)、先ほどの人はそれを見たか聞いたかしたために恐れおののいて(同じ状況では、我々も恐れおののくべきなのだが)叫びながら部屋から逃げ出し、その叫びを我々が聞いたということになるだろう。 それなら、あわてて警察と動物園に電話をしなくてはならない。 反対に、我々の観察の結果、講堂の中に象の群れの痕跡がみつからなければ、もっとも確からしい説明は、実際は部屋の中には象の群れはいなかったのであって、この人は(自発的な、あるいは、薬物による)精神異常のために象がいると妄想し、その妄想が原因で叫びながら部屋を飛び出してきて、その叫びを我々が聞いたということになる。 それなら、警察と精神病院に電話をかけるべきだ[39]。 バーンズとブルアも、社会学者や哲学者の読む雑誌にどんなことを書いていたとしても、実生活では同じことをするのではないだろうか。

もっとも肝心なのは、私には、科学の認識論と日常生活での認識論の間に根本的な「形而上学的な」差があるとは思えないということだ。 歴史学者も、探偵も、配管工も、というよりもすべての人間が、物理学者や生化学者と同じように、帰納、演繹、データの評価といった基本的な方法を使っているのだ。 現代の科学では、これらの手続きを注意深くかつ系統的に実践するために、条件の制御やデータの統計処理などの手法を用い、実験の再現性を重視するのである。 だが、決してそれ以上のものではない[40]。 科学哲学にせよ、社会学の方法論にしろ、日常生活での認識の問題にあてはめたときこれほどまでに間違っているものは、その核心でひどく誤っているのだ。

結論としては、「ストロング・プログラム」は、ラトゥールの第三の方法の規則と同様、その主旨からして曖昧なのである。 曖昧な部分を如何に解釈するかに応じて、「すべての信念には原因がある」といった素朴な心理学や社会学の考え方への正しくそれなりに興味深い修正と読むこともできるし、あるいは、野蛮で乱暴な間違いと読むこともできるのだ。



キッチャー教授は、この論文集への寄稿の最後に、「この論文を気に入ってくれる人はいないだろう。というのも、私はここで中立の立場を貫こうとしているからだ。」と書いている。 この点に関しては、キッチャー教授は悲観的に過ぎる。 少なくとも一人は例外がいる。 私は彼の論文が気に入った。 というよりも、私は彼の論文に書いてあることほとんど全てに賛成である。

これは、傲慢な科学者なのかもしれないこの私も、「中立の立場」をとる数少ない選ばれし者の一人だというだけのことなのかもしれない。 しかし、この論争では、一見して思うよりも多くの人が実際には「中立の立場」をとっているのではないかと私は感じている。 もちろん、その内容を考えず、抽象的に(それが何であれ)「中立の立場」という立場そのものを押し進めていこうなどといっているのではない。 それは、知的怠慢というものだ[41]。 けれども、キッチャーの論文にあるような中立の立場、つまり、「実在論・合理主義グループ」と「社会・政治グループ」の双方を尊重しつつ、個々の例においては、どちらがより重要かを必要に応じて議論するという態度は、極めて賢明である。 このような立場には、ほとんど全ての科学者[42]と科学哲学者が賛成するだろうし、(全てのというわけにはいかないのは明らかだが)ほとんどの科学社会学者も賛成するだろう。 こう考えてくると、いわゆる「サイエンス・ウォーズ」 --- 私は、これはひどいネーミングだと思っているのだが --- についても、今一度じっくりと考え直してみたくなるだろう。

「サイエンス・ウォーズ」という言葉を最初に使ったのは、ソーシャル・テクストの共同編集者のアンドリュー・ロスのようだ。 「サイエンス・ウォーズこそ、聖なるカルチャー・ウォーズにおける自軍の勝利に 勢いを得た保守派がしかけた第二の闘いである。 大衆の信頼の失墜と、公共の財源からの資金援助低下の言い逃れを求めて、保守的な科学者たちが(新たなる)社会の敵 --- 左翼、フェミニスト、マルチカルチャリスト --- に対する反動的攻撃(バックラッシュ)に加勢したのだ[43]。」というのが、ロスの説明である。 このような見方は、その後、今や有名になったソーシャル・テクストの特集号でさらに煮詰められている[44]。 けれど、あの殺伐とした「カルチャー・ウォーズ」のときとちょうど同じように、現実はこのマニ教的な闘いの図式が描いてみせるよりもずっとこみ入っている。 認識論的な見解と政治的な見解の間には一対一の対応関係があるかのように主張されているが、これは全くひどい誤解だといわざるを得ない[45]。 この論争には二つの立場しかないという考えについても同じ事がいえる。

このように、論争を戦闘にみたててしまったことが、実はソーシャル・テクストの編集者が私のパロディーにひっかかってしまった最大の理由なのかもしれない。 真理を求める知識人としてではなく、「サイエンス・ウォーズ」の闘いに志願した将軍としてふるまったために、彼らは「本物の」科学者を自らの「陣営」に迎えるというチャンスに飛びついてしまったのだ。 ソーシャル・テクストの編集者たちは、自分たちの失敗を後悔しながら、トロイの人々にさぞや親近感を抱いていることだろう。

しかし、軍事的な比喩を用いるのは間違いなのだ。 ソーシャル・テクストの編集者たちは私の敵ではない。 ロスは、新しい科学技術と、科学の専門知識がますます不平等に配分されるようになったことについて、極めて正しい懸念を抱いている。 アロノヴィッツは、技術の発展がもたらす失業と「職のない未来」について重要な問題提起をしている[46]。 しかし、ロスには申し訳ないが、客観的な科学知識の存在を否定してみたところで、何一つ得られるものはないのだ。 好むと好まざると、客観的な知識は存在する。 政治的に進歩派であるなら、科学知識がより民主的に分かち合われ、社会の役に立つ目的のために使われるような道を模索すべきなのだ。 実際、極端に偏った認識論的な立場からの批判ばかりを行っていると、事実に基づいて議論するという道を閉ざしてしまうことになり、本当に必要な政治的な批判を致命的に無力にしてしまうのだ。 考えてみれば、核兵器が我々みんなにとって脅威である唯一の理由は、そのもとになっている原子核物理が、少なくとも非常に高い精度で、客観的に正しいということなのだ[47]

サイエンス・スタディーズが、認識論をもてあそぶことだけに慢心してしまうと、科学や科学技術のもつ社会的、経済的、政治的な役割を解明するというサイエンス・スタディーズの本来の目的を忘れてしまうことになる。 もちろん、このようになってしまったのは、偶然ではないだろう。 その過程を、社会学的に研究することもできるはずだ[48]。 しかし、サイエンス・スタディーズに携わる人々が誤った認識論にこだわり続けなければならないという法はない。 そんな認識論は捨てて、科学を研究するという真摯な目標に向かうことができるはずだ。 おそらく、これから数年後に振り返ってみれば、今日いわれている「サイエンス・ウォーズ」がそのような方向転換の時期だったということになるだろう。




注と文献

[1]Larry Laudan, Science and Relativism (Chicago: University of Chicago Press, 1990), p. x. (本文へ


[2]Quoted in Janny Scott, ``Postmodern Gravity Deconstructed, Slyly'', New York Times, May 18, 1996: 1, 22. (本文へ


[3]Alan D. Sokal, ``Transgressing the Boundaries: Toward a Transformative Hermeneutics of Quantum Gravity,'' Social Text #46 /47 (spring/summer 1996): 217-252. (本文へ


[4]Alan Sokal, ``A Physicist Experiments with Cultural Studies,'' Lingua Franca 6(4) (May/June 1996): 62-64. (本文へ


[5]ソーシャル・テクストの編集者からの「公式の」解答は、 ``Mystery Science Theater,'' Lingua Franca 6(5) (July/August 1996): 54-64 にある。 ここには、私の書いた短い返答と、読者からの手紙も収められている。 私がパロディーを書いた動機のもっと詳しい説明については、 Alan D. Sokal, ``Transgressing the Boundaries: An Afterword'' を見よ。 この論文は、ソーシャル・テクスト誌に掲載を拒否され、 Dissent 43(4) (Fall 1996): 93-99 と、若干の改訂を加えて、 Philosophy and Literature 20(2) (October 1996): 338-346 に掲載された。 また Alan Sokal, ``A Plea for Reason, Evidence and Logic'', New Politics 6(2) (Winter 1997): 126-129 も見よ。 他に以下の論評を挙げておく。 Tom Frank, ``Textual Reckoning,'' In These Times 20(14) (May 27, 1996): 22-24; Katha Pollitt, ``Pomolotov Cocktail,'' The Nation (June 10, 1996): 9; Steven Weinberg, ``Sokal's Hoax,'' New York Review of Books 43(13) (August 8, 1996): 11-15; Paul Boghossian, ``What the Sokal Hoax Ought to Teach Us,'' Times Literary Supplement (December 13, 1996): 14-15. (本文へ


[6]ここでは、科学の理論や方法論の実質的な内容への批判だけを考えることにする。 科学の知識の(たとえば科学技術としての)応用のしかたや、科学界の社会的構造に関する重要な批判もある。 (本文へ


[7]たとえば、 Stephen Jay Gould, The Mismeasure of Man (New York: Norton, 1981, 2nd ed. 1996). 「人間のはかりまちがい --- 差別の科学史」、鈴木善次、森脇靖子訳(河出書房新社) を見よ。(本文へ


[8]たとえば、 Anne Fausto-Sterling, Myths of Gender: Biological Theories about Women and Men (New York: Basic Books, 1985, 2nd ed. 1992); Carol Tavris, The Mismeasure of Woman (New York: Simon & Schuster, 1992) を見よ。 (本文へ


[9]もちろん、科学史の唯一の(というよりも、主要な)目標が科学者の研究を手助けすることだなどというつもりはない。 科学史が、社会や思想の歴史の一部として固有の価値をもっていることは明らかだ。 けれど、科学史の研究がうまくいけば、現場の科学者にも役に立つように私には思える。 (本文へ


[10]H.M. Collins, ``Stages in the empirical programme of relativism'', Social Studies of Science 11 (1981): 3-10, quote at p. 3. 二つほど説明しておくべきことがある。 まず、この言明は、(コリンズが集めた)相対主義的なアプローチをとるいくつかの研究の紹介の中に現れるもので、そのアプローチについてのコリンズの要約になっている。 コリンズがこういった見方を支持していることは、ながれからみて明らかだが、彼があからさまに支持を表明しているところはない。 また、コリンズは、この考えを科学史についての経験的な主張と位置づけようとしているようにみえるが、実際には、経験的な主張でも認識論における基準でもなく、科学社会学者のとるべき方法論の指針と位置づけようとしている可能性もある。 つまり、あたかも「科学知識の形成には、自然界はほとんど、あるいはまったく影響を及ぼさない」かのようにふるまえ、あるいは、科学知識の形成において実際には自然界がどのような役割を果たそうともそれは無視せよ(「括弧でくくってしまえ」)ということである。 以下で、バーンズ=ブルアについて議論する際に、このようなアプローチには科学社会学の方法論として致命的な欠陥があることを主張したい。 (本文へ


[11]Bruno Latour and Steve Woolgar, Laboratory Life: The Social Construction of Scientific Facts (London: Sage, 1979), p. 237. (本文へ


[12]Bruce Robbins, ``Social Text and Reality,'' In These Times 20(17) (July 8, 1996): 28-29, quote at p. 28. (本文へ


[13]ソーシャル・テクスト誌の「サイエンス・ウォーズ」特集号は、主に Paul R. Gross and Norman Levitt, Higher Superstition: The Academic Left and its Quarrels with Science (Baltimore: Johns Hopkins University Press, 1994) への反論として構想された。 Andrew Ross, ``Introduction'', Social Text #46 /47 (spring/summer 1996): 1-13 を見よ。 また、アンドリュー・ロスとスタンリー・アロノヴィッツが私(及び「サイエンス・ウォーズ」特集号の他の寄稿者)にあてた未出版の手紙(1995年3月8日)を参照。 (本文へ


[14]実際、科学社会学の主流の雑誌ならば、ほぼ確実に私のパロディーにはひっかからなかっただろう。 (だが、Social Studies of Science(科学の社会的研究)誌は、もし本当にパロディーでないとしての話だが、十分パロディーとして通用するような相対性理論についての長い論文を掲載している。本文のこの先を見よ。) 私がソーシャル・テクスト誌を選んだのだ、私の動機が主として政治的なものだったからだ。 Sokal, ``Afterword'' and ``A Plea'', op. cit. を見よ。 (本文へ


[15]私自身を含めたフェミニストの間で、これらの考えが盛んな論争の対象になっている以上、この「フェミニスト認識論」というのは問題のある名称だということをはっきりといっておきたい。 「フェミニスト認識論」についてのフェミニストからの鋭い批判として、以下の文献を挙げておく。 Susan Haack, ``Science `from a feminist perspective''', Philosophy 67 (1992): 5-18; Susan Haack, ``Epistemological reflections of an old feminist'', Reason Papers 18 (fall 1993): 31-43; Cassandra L. Pinnick, ``Feminist epistemology: Implications for philosophy of science'', Philosophy of Science 61(1994): 646-657; Janet Radcliffe Richards, ``Why feminist epistemology isn't'', in The Flight from Science and Reason, ed. Paul R. Gross, Norman Levitt and Martin W. Lewis, Annals of the New York Academy of Sciences 775 (1996): 385-412. (本文へ


[16]Gilles Deleuze and Felix Guattari, What is Philosophy?, translated by Hugh Tomlinson and Graham Burchell (New York: Columbia University Press, 1994), p. 119. 「哲学とは何か」財津理訳、河出書房新社 pp. 168-169 (本文へ


[17]アラン・ソーカルとジャン・ブリックモンによる本 Impostures Intellectuelles, Editions Odile Jacob, Paris, October 1997 (フランス版)、Fashionable Nonsense --- Postmodern Intellectuals' Abuse of Science, Picador USA, 1998(アメリカ版)では、フランスのポストモダン思想家による数学や物理の濫用の例をたくさん集め、専門家でない読者のための説明を加えた。 (訳注:邦訳は『「知」の欺瞞 ── ポストモダン思想における科学の濫用』として 2000 年に岩波書店から出版の予定。) ドゥルーズ、ガタリ、ラカン、イリガライに加えて、ジャン・ボードリヤール、ジュリア・クリステヴァ、ブルーノ・ラトゥール、ポール・ヴィリリオについての章がある。 (このエッセイが発表された時点では、この本は準備中だった。) (本文へ


[18]Bruno Latour, ``A relativistic account of Einstein's relativity'', Social Studies of Science 18 (1988): 3-44, quote at p. 3. (本文へ


[19]Ibid., p. 22, イタリックはラトゥールによる。 (本文へ


[20]Ibid., pp. 10-11, 強調はラトゥールによる。 (本文へ


[21]Ibid., pp. 22-23. (本文へ


[22]Bruno Latour, Science in Action: How to Follow Scientists and Engineers through Society (Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1987), pp. 99 and 258. 「科学が作られているとき --- 人類学的考察」 川崎勝、高田紀代志訳(産業図書) p. 435、ただし、引用は拙訳。 この「規則」は、存在論、認識論、知識の社会学を徐々にごったまぜにしていく一連の議論(pp. 96-99)の頂点に位置している。 (本文へ


[23]ここでの私の議論が、宇宙論と古生物学における現代の通説が正しいことを前提にしているために、循環論法に陥っていると思うかもしれない。 しかし、そうではない。 第一に「外の世界は人類が生まれる百億年ほど前から存在していたことを考えると」という前置きは一種のお飾りに過ぎず、議論の中では本質的な役割は果たさない。 宇宙論や古生物学の細かいところがどうだろうと、外の世界が科学者の交渉で作られたという考えが奇怪であることにかわりはないのである。 第二に、「外の世界は人類が生まれる百億年ほど前から存在していたことを考えると、これは、どう大目に見ても、奇怪な主張である」という文は、もし超正確に表したければ、次のように書き換えられる。 「『外の世界は人類が生まれる百億年ほど前から存在していた』という信念を支持する数多くの極めて説得力の高い(そして広範囲に及ぶ)物的な証拠がある。 そして、もしこの信念が正しいのならば、『外の世界は科学者の話し合いによって作られた』という主張は、どう大目にみても、奇怪である。」 実際、「今日はニューヨークは雨だ」というようなものも含めて、事実についての主張というのはすべてこういう風に注釈しなくてはならない。 以下では、今日のサイエンス・スタディーズの研究の多くで、存在論と認識論の区別が無視されていることを主張したいので、私自身が同じ非難を受けることのないようにしておきたいのだ。 (本文へ


[24](b) についてはグロスとレヴィット (Gross and Levitt, op. cit., pp. 57-58) が、窓のない建物の中で働いている人たちが「外では雨が降っているだろうか?」という論争を如何にして決着させるかという身近な例で的確に批判している。 (本文へ


[25]Steve Fuller, Philosophy, Rhetoric, and the End of Knowledge: The Coming of Science and Technology Studies (Madison: University of Wisconsin Press, 1993), p. xii. 「科学が作られているとき(Science in Action)」についてのさらなる分析として、 Olga Amsterdamska, ``Surely you are joking, Monsieur Latour!'', Science, Technology, & Human Values 15 (1990): 495-504 を見よ。 (本文へ


[26]Latour and Woolgar, op. cit. (本文へ


[27]Barry Barnes and David Bloor, ``Relativism, Rationalism and the Sociology of Knowledge'', in Rationality and Relativism, edited by Martin Hollis and Steven Lukes (Oxford: Blackwell, 1981), pp. 21-47, see footnote 5 on p. 22. 「相対主義・合理主義・知識社会学」、高田紀代志訳、現代思想 vol. 13-8 (1985 年 7 月)pp.~83--101。 また、以下の文献も見よ。 David Bloor, Knowledge and Social Imagery, 2nd ed. (Chicago: University of Chicago Press, 1991), p. 5. 「数学の社会学 --- 知識と社会表象」佐々木力、古川安訳(培風館) (本文へ


[28]これは、実際、彼らの「不偏性(impartiality)」と「対称性(symmetry)」の原理 [Bloor, op. cit., p. 7] を方法論に反映させたものになっている。 より詳しい議論と批判については、本文のこの先を見よ。 (本文へ


[29]こうして標準的でない「知識」の定義を宣言したたった 9 ページ後で、ブルアは、以下のように、「誤謬」との対比で普通の「知識」の定義を断りなしに使ってしまっていることを指摘しておこう。 「人間の動物的資質の自然的営みが常に知識を生産すると仮定するのは誤りであろう。 その営みは、同じような自然さで、かつ全く同一の型の原因が働くことによって、知識と誤謬の混合物を生み出す。」 [Bloor, op. cit., p. 14、佐々木、古川訳 p. 18] (本文へ


[30]Sandra Harding, Whose Science? Whose Knowledge? Thinking from Women's Lives (Ithaca: Cornell University Press, 1991), chapter 4. (本文へ


[31]Paul Forman, ``Behind Quantum Electronics: National Security as Basis for Physical Research in the United States, 1940-1960,'' Historical Studies in the Physical and Biological Sciences 18 (1987): 149-229.(本文へ


[32]これらの分野のいずれかで、現在の理論が誤っているという可能性は決して除外しない。 しかし、そういう方向での批判を行いたいなら、科学の理論に何らかの文化的な影響が及んでいるという歴史的な証拠だけではなく、問題にしている理論が実際に誤っているという科学的な証拠を示す必要がある。 (証拠についてのこの基準は、過去の誤っていた理論についても当然あてはまる。 ただし、この場合には、科学者が二つ目の作業はやり終えているだろうから、文化批評家がそれをゼロから行う必要はないのだ。) (本文へ


[33]Barnes and Bloor, op. cit., quote at p. 23. 高田訳 p. 84 (本文へ


[34]Ibid., p. 22. 高田訳 p. 84(引用は拙訳) (本文へ


[35]Ibid., pp. 35-47. (本文へ


[36]実際、ブルアは「当然、信念を生み出すのを助ける、社会的原因以外の他の型の 原因もありうる。」と述べている。 [Bloor, op. cit., p. 7、佐々木、古川訳 p.7] しかし、自然からの要因がどのようにして信念の説明に取り入れ られるのか、あるいは、自然からの要因を真面目に取り入れたときに 対称原理はどのように変更されるべきかといった点について ブルアは何も述べていない。 (我々とはわずかに異なった哲学的な立場からの)ブルアの曖昧さについての 批判が Larry Laudan, ``The pseudo-science of science?'', Philosophy of the Social Sciences 11 (1981): 173-198 にある。 Peter Slezak, ``A second look at David Bloor's Knowledge and Social Imagery'', Philosophy of the Social Sciences 24 (1994): 336-361 も見よ。 (本文へ


[37]歴史家の通説では、フランスでニュートン力学が受け入れられるのに時間がかかったのは、教育の場でデカルトの理論が支配的だったことと、ある種の神学的な理由によることになっているようだ。 たとえば、以下の文献を見よ。 Pierre Brunet, L'introduction des theories de Newton en France au XVIIIe siecle (Paris, 1931; reprinted by Slatkine, Geneve, 1970); Betty Jo Teeter Dobbs and Margaret C. Jacob, Newton and the Culture of Newtonianism (Atlantic Highlands, New Jersey: Humanities Press, 1995). (本文へ


[38]より正確にいえば次のようになる。 惑星や彗星が(完璧に正確にではないが非常に高い精度で)ニュートン力学の予言通りに運動するという信念を裏付ける膨大な数の極めて説得力の高い天文学的な証拠がある。 そして、もしこの信念が正しいとすれば、(単に我々の信念だけではなくて)星がこのように運動するという事実こそが、18 世紀のヨーロッパの科学界でニュートン力学が正しいことが信じられるようになった理由の一部になる。 (本文へ


[39]講堂に象がいる確率、精神異常の発生率、我々自身の視覚、聴覚の信頼性などについての過去のデータを使えば、ベイズ統計の立場からも、この判断を正当化できることをつけ加えておく。 (本文へ


[40]注意していただきたいのだが、私は、科学的な観察から科学の理論を導く過程が、目の前に象が見えたことから目の前に象がいるという結論を導く過程と同じくらい単純で明解だといいたいわけではない。 (本当のことをいうと、象についての結論の導出もそれほど単純で明解なわけではない。 これをきちんと基礎づけるためには、光学と人間の視覚の機構についてのなにがしかの知識が必要となる。) 研究に携わっている科学者や科学史家ならば誰でもよく知っているように、科学的な観察から科学の理論を導く過程はもっとずっと間接的であり、そこには、たった一つの観察などではなく、密接に絡み合った膨大な数の経験事実が関わってくる。 私がいいたいのは、ニュートン力学にしろ、ダーウィンの進化論にしろ、講堂の象にしろ、これらすべての例について、人々の信念の「原因」を説明する際に、自然界(非・社会的世界)を原因の一つとして、それもかなり重要な原因の一つとして、取り入れないのは馬鹿げているということだ。 (本文へ


[41]アメリカの政治においては、倫理的にも知的にも破綻した(そしてほとんど区別のつかない)二つの立場の間での「中立の立場」の模索が悲惨な結果に終わったことについては、今更コメントする必要はないだろう。 当然ながら、「中立の立場」というだけで、何と何との間での中立かをはっきりさせなくては、意味はない。 そして、マスコミが一致協力して、傾聴に値する意見というものの限界を暗黙に定めてしまっていることが大きな問題なのだ。 たとえば、ほとんどの文明国で長い間使われている公的な健康保険の制度が、アメリカでは「極端」で「非現実的」な考えとして扱われるのは、いったいどうしてなのだろう? (本文へ


[42]グロスとレヴィットも賛成することは、彼らの本 [Gross and Levitt op. cit] にはっきりと書いてある。 (本文へ


[43]Andrew Ross, ``Science Backlash on Technoskeptics'', The Nation 261(10) (October 2, 1995): 346-350, quote at p. 346. Ross, ``Introduction'', op. cit., p. 6 も見よ。 (本文へ


[44].五つの論文のタイトル (Martin, Nelkin, Franklin, Kovel, Aronowitz) に「サイエンス・ウォーズ」という言葉が入っている。 あと三つの論文のタイトル (Rose, Winner, Levidow) に何らかの軍事的な比喩が含まれている。 (本文へ


[45]私自身や、私の支持者の多く(たとえば、Michael Albert, Barbara Epstein, Meera Nanda, Ruth Rosen, James Weinstein やその他大勢)が政治的に左派の考えをもっているのは、はっきりした事実である。 ロスの仕返しのそもそものターゲットだったグロスとレヴィットも、自分たちの政治的な立場は基本的にはリベラル左派であることを表明している。 彼らは、二人の中の一人(レヴィットであることがわかった)はアメリカ社会民主党のメンバーだということも書いている。 [Gross and Levitt, op. cit., p. 261, note 7]. (本文へ


[46]Stanley Aronowitz and William DiFazio, The Jobless Future: Sci-Tech and the Dogma of Work (Minneapolis: University of Minnesota Press, 1994). (本文へ


[47]この点は、すでに十年ほど前に、Margarita Levin, ``Caring new world: Feminism and science'', American Scholar 57 (1988): 100-106 が明らかにしている。 (本文へ


[48]興味深い仮説として、Meera Nanda, ``The Science Wars in India'', Dissent 44(1) (Winter 1997): 78-83, at pp. 79-80 を見よ。 また別の(しかし、ナンダの仮説と両立し得る)仮説が、Gross and Levitt, op. cit., pp. 74, 82-88, 217-233 にある。 これらの仮説には、いずれも、歴史学者が事実に基づいてじっくりと研究するだけの価値がある。 (本文へ




訳注


[訳注1]原文は ``ill-read and half-educated''。 ご存じのように well-read は「いい本をたくさん読んでいて、学識がある」という意味で、ill-read はその反対を意味する。 標準的な表現ではないが、別にアロノヴィッツの造語というわけでもないようだ。 ところで「涜書家(とくしょか)」の「涜」は「冒涜(ぼうとく)」の「涜」の字のつもりなのだが、私のコンピューターの画面では見慣れない簡略な字になってしまっている。 (本文へ


[訳注2]原文では frame of reference (基準系)という言葉を使っているが、この訳では、こなれのよい「座標系(対応する英語は coordinate system)」という言葉に統一した。 物理の立場からいうと、「基準系」と「座標系」の概念には微妙な違いがあるが、 それはこのレベルの議論ではまったく問題にならない。 (実際、ラトゥールが p.12 で引用しているアインシュタインの文章にも reference-body (co-ordinate system)という書き方が現れる。) もちろんラトゥールが frame of reference という言葉を 独自の意味で用いているという可能性はある。 しかし、 これがアインシュタインによる相対性理論の解説を 取り上げた論文である以上、 もしそうであれば、ラトゥールは混乱を避けるための細心の注意を払う必要が あるはずだ。 (本文へ


[訳注3]modus ponens とは、「AならばBである」と「Aである」の両方が真であるときに「Bである」も真であるとする推論規則。 これを疑問視することを、「ルイス・キャロルのパラドックス」ということがある。 キャロル、柳瀬尚樹訳「枕頭問題集」(エピステーメー叢書、朝日出版)の 「アキレスと亀の対話」を参照。 ダグラス・R・ホフスタッター「ゲーデル、エッシャー、バッハ」〔白揚社)p.59 にも同じ文章がある。 (本文へ




この翻訳について

  • これは、Alan Sokal の What the Social Text Affair Does and Does Not Prove の全訳である。 英語のテキストは、Sokal が web 上で公開しているもの (http://www.physics.nyu.edu/faculty/sokal/noretta.html) を用いた。 ただし、注 [17], [24] については、著者と相談の上、少し内容を詳しくした。

  • このエッセイの河村一郎氏による邦訳が、「現代思想」1998年11月号(vol.26-13)に掲載されている。 一部、河村氏の訳を参照させていただいたことをお断りし、河村氏に感謝する。

  • (私の読解力と知識の範囲で)意味が明確でない表現等については、著者に問い合わせて確認したのだが、それでも英文の誤解等が残っている可能性はある。 よって、Sokal の主張を厳密に批判的に検討されたい場合は、公開されている原文を参照していただきたい。

  • 公開後も、必要に応じて、訳の改善を行っていくつもりである。 誤訳のご指摘、また、訳の改良のご提案などをお送りいただければ、ありがたい。

  • これは、プロジェクト杉田玄白協賛テキストである。


https://ja.wikipedia.org/wiki/不満研究事件

不満研究事件

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

不満研究事件

おとり調査についてビデオで説明するリンゼイとプラックローズ

期間2017–2018種別おとり調査、デタラメな学術論文の出版動機ジェンダー研究、フェミニスト研究、人種研究、セクシュアリティ研究、肥満研究、クィア研究、カルチュラル・スタディーズ、社会学の学問的貧弱さの暴露標的学術誌、カルチュラル・スタディーズおよびジェンダー研究を含む特定の学術分野の学術誌最初の
通報者ウォール・ストリート・ジャーナルのジリアン・ケイ・メルキオール (2018年10月2日)主催者ピーター・ボゴシアン、ジェームズ・A・リンゼイ、ヘレン・プラックローズ撮影者マイク・ナンヤ結果おとり調査が明らかになった時点で、20本の論文のうち4本が出版、3が承認したが未出版、6本がリジェクト、7本が査読中

不満研究事件(ふまんけんきゅうじけん、英:Grievance studies affair)、または「第二のソーカル事件」とも呼ばれるスキャンダルは、ピーター・ボゴシアン、ジェームズ・A・リンゼイ、ヘレン・プラックローズの3人の著者のチームが、彼らが「学問として貧弱であり、査読基準が腐敗している」と見なすいくつかの学術分野に注目を集めるためのプロジェクトであった。

2017年から2018年にかけて行われた彼らのプロジェクトは、社会学における文化クィア人種ジェンダー肥満研究英語版)・セクシュアリティ研究の学術誌にデタラメなおとり論文を投稿し、査読を通過して出版が認められるかどうかを試すというものであった。それらの論文のうちいくつかはその後出版され、著者たちはそれを自分たちの主張の裏付けとした。

この事件以前にも、ポストモダン哲学や批判理論の影響を受けた多くの研究の知的妥当性に対する懸念は、現代人文科学の多くの研究の専門用語や内容をパロディにしたナンセンスなでたらめ論文を作成し、これらの論文を学術誌に受理させることに成功した様々な学者によって光を当てられてきた。これ以前の最も注目すべき一例である1996年にアラン・ソーカルカルチュラル・スタディーズのジャーナル「ソーシャル・テクスト」誌に発表したおとり論文は、ボゴシアン、リンゼイ、プラックローズの3人の研究者を触発することになった。この3人は「特定の結論のみが許容され、客観的事実よりも社会的不平等に対する不満を優先する風土が醸成されている」と見なす、彼らが「不満研究」と呼ぶ学問分野の問題を暴露する意図でこのプロジェクトに着手した[1][2][3]。 3人は自らを左派リベラルと自認し、ポストモダニズムアイデンティティ政治に基づく学問が、左派政治プロジェクト、さらには科学とアカデミアに対して与えている被害について周知を促す試みとしてプロジェクトを説明している。

ボゴシアン、リンゼイ、プラックローズの3人は、意図的に不条理なアイデアや倫理的に疑わしい行為を促す20の論文を書き、さまざまな査読付きジャーナルに投稿した。彼らはプロジェクトを2019年1月まで実行することを計画していたが、ウォール・ストリート・ジャーナルの記者が「Gender、Place&Culture英語版)」誌に掲載された論文に使用された偽名である「ヘレン・ウィルソン」が実在しないことを明らかにし、3人は2018年10月にこの「おとり調査」を認めた。事件が明らかになった時点で、彼らの20本の論文のうち4本は出版済み、3本は受理されたが未出版、6本はリジェクト、7本は審査中だった。掲載された論文には、犬がレイプカルチャーに従事しているという理論や、男性が性具で自分自身の肛門を貫くことによってトランスフォビアを減らすことができるという理論、またアドルフ・ヒトラーの「我が闘争」をフェミニストの言葉で書き直したものが含まれていた[2][4] 。 これらのうち最初のものは掲載したジャーナルから特別な評価を得ていた。

この事件はアカデミアでは賛否両論を呼んだ。一部の学者は、ポストモダニズム、批判理論、アイデンティティ政治の影響を受けた人文・社会科学の分野に広く見られる欺瞞を暴いたとして賞賛した。一方、故意にデタラメの研究を提出することは非倫理的であると批判する者もいた。また、このプロジェクトには対照群が含まれていないことから、この研究は科学的方法によるものではないと主張し、さらに、薄弱な理論や査読の質の低さは「不満研究」の対象に限らずアカデミアで広範に見られると主張する者もいた。

「不満研究」と「応用ポストモダニズム」[編集]

ジェームズ・A・リンゼイ、ピーター・ボゴシアン、ヘレン・プラックローズの3人は、一連のおとり論文を通じて、彼らが「不満研究」と呼ぶ、「特定の結論のみが許容され、客観的事実よりも社会的不平等に対する不満を優先する風土が醸成されている」と考える学術分野の小分野の問題を暴露するつもりだった[1][2][3]。3人はポストコロニアル理論、ジェンダー研究、クィア理論、クリティカル・レース理論英語版)、インターセクショナルフェミニズム、肥満差別研究などの学術分野を「不満研究」と呼んでいるが、それはプラックローズによれば、こうした分野が「不満からの仮説」から始まり、「それを立証するために利用できる理論」をねじ曲げるためであるという[5] 。プラックローズは、これらの分野はすべて、1960年代後半に発展したポストモダン哲学からその根底にある理論的展望を導き出していると主張した。フランスのポストモダン哲学者であるミシェル・フーコーの成果に焦点を当て、彼女はフーコーが「社会に知識と権力が織り込まれているとし、社会における言説の役割を強く主張した」ことを強調した[5]

プラックローズは、ポストコロニアル理論やクィア理論といった分野は、1980年代後半に公民権運動ゲイの権利運動リベラル・フェミニズム運動の成果を法改正の場から言説の変化を押し出す手段として大きく立ち上がったことから、「応用ポストモダニズム」と呼ぶことができるのではないかと示唆した[5]。彼女は、これらの分野は活動家の意図に合わせてポストモダニズムを応用したと主張した。活動家はポストモダニズムから知識は社会構造であるという考えを採用したが、同時に「あることが客観的に真実でなければ進歩はない」というモダニズムの考えも堅持していた。したがって、「応用ポストモダニスト」であるプラックローズは、「女性有色人種LGBTを抑圧する権力特権のシステム」は客観的に実在し、言説を分析することによって明らかにすることができると主張した。同時に、彼女は活動家は「科学や客観的知識に対するポストモダニズム的な懐疑」、「権力と特権のシステムとしての社会に対する見方」、「すべての不均衡は生物学的現実から生じるのではなく、社会的に構築されているという信念への傾倒」を保持していると主張した[5]

プラックローズは、自分自身と共同研究者を「左翼リベラル懐疑論者」と表現している。彼女はこのプロジェクトを実行しようと思った中心的な理由を、「アイデンティティ政治とポストモダニズムに基づく」学問分野における「腐敗した学問」に問題があることを他の「左派の学者」に納得させるためであると述べた[5]。彼女は、ポストモダニストから派生した多くの学問は、モダニズムを拒絶する際に、科学、理性、および自由民主主義も拒絶し、したがって多くの重要な進歩による利益が損なわれていると主張した[5]。プラックローズはまた、集団アイデンティティ英語版)の重要性の前景化、客観的な真実は存在しないと主張することによるポスト真実の成長の促進、これらポストモダニズムの理論が2010年代に多くの国で見られた「右への反動の急増」に寄与していると懸念を示している[5]

2020年に、プラックローズとリンゼイは、著書「Cynical Theories: How Activist Scholarship Made Everything About Race, Gender, and Identity—and Why This Harms Everybody英語版)(シニカル理論:大学はいかにして人種、ジェンダー、アイデンティティについて全てを作り上げたのか、そしてなぜそれが皆に害を及ぼすのか)」で批判理論の影響をさらに調査した[6]

経緯[編集]

事件が明らかにされた時点で、20件の論文のうち7件が出版を承認され、7件は査読中であり、6件はリジェクトされていた[3] 。公開された記事には、犬がレイプカルチャーに従事しているという理論、男性が性具で肛門を貫くことでトランスフォビアを減らすことができるという理論、フェミニストの言葉で書き直されたアドルフ・ヒトラーの我が闘争が含まれていた[2][4]。特に出版された論文の1つは、それを掲載したジャーナルから特別な評価を得ていたものである[4]

試み[編集]

事件の前に、ポストモダン哲学と批判理論に影響された多くの研究の知的妥当性について懸念を表明し、様々な学者が様々なジャーナルにおとり論文を公開することによってこれに焦点を当てた。特に、ジェームズ・A・リンゼイとピーターボゴシアンが独自のおとり論文を公開するように影響を与えたのは、「ソーシャル・テクスト」誌のアラン・ソーカルによる1996年の事件であった。

2017年5月19日、査読付きジャーナル「Cogent Social Sciences」誌は、「The conceptual penis as a social construct(社会的構築物としての概念的なペニス)」[7] を掲載した。同論文はペニスは「男性」ではなく、むしろ代わりに社会的構築物として分析されるべきと主張していた[8] 。同日、リンゼイとボゴシアンは、「Cogent Social Sciences」誌は専らジェンダー研究の雑誌ではないが、ジェンダー研究の信用を落とすことを目的としたおとり論文であることを明らかにした[9]。ジャーナルは事後検証を行ったが、両方の著者は「おとり論文の影響は非常に限定的であり、それに対する多くの批判は正当であった」と結論付けた[10]

ピーター・ボゴシアンの講義 2012

著者らは、2017年8月16日に2回目の試みを開始したとしている[11]。9月にヘレン・プラックローズが加わった[10]。 新しい方法論では、複数の論文を投稿し、それぞれが「よりランクの高いジャーナル」に投稿し、却下されたら査読のフィードバックを利用して論文を修正してからランクの低いジャーナルに投稿することにした。このプロセスは論文が受理されるか、3人の著者がその論文の掲載をあきらめるまで繰り返された [11] 。各論文の著者は、「ポートランドアンジェンダーリサーチイニシアチブ」の「ヘレン・ウィルソン」などの架空のものか、ガルフコースト州立大学の歴史学名誉教授リチャード・ボールドウィンなど名義を貸してくれる実在の人物のいずれかであった[2]

プロジェクト期間中、20本の論文が投稿され、それらの論文の「新規投稿」が48本行われた[11]。最初の承認は、プロジェクト開始から5ヶ月後に達成された「Human Reactions to Rape Culture and Queer Performativity at the Dog Park(ドッグ・パークにおけるレイプカルチャーとクィアパフォーマティヴィティ英語版)に対する人間の反応)」である。最終的に成功した「Gender, Place & Culture」誌への掲載を目指した2回の査読の最初には、著者たちが「ドッグパーク」と呼ぶ論文は、最初の査読者によって「信じられないほど革新的で、分析が豊富で、非常によく書かれ整理されている」と賞賛された[10]。同様の敬意あるフィードバックが他の採択論文に対しても提供された[12]

おとり論文の発覚[編集]

このプロジェクトは2019年1月31日まで行われる予定だったが、早々に終了した[10]。 2018年6月7日、Twitterアカウント「New Real Peer Review」が彼らの論文の1つを発見した[13]。これにより保守系ニュースサイト「The College Fix」、自由主義的雑誌「Reason」、その他の報道機関の記者たちの目に留まり、架空の著者や掲載誌に連絡を取ろうと動きだした[14][15]。 フェミニスト地理学における査読付きの主要な国際ジャーナルである「Gender, Place & Culture」誌は2018年8月6日に、「ヘレン・ウィルソン」が「自分自身を含む誰の身元も捏造または不正利用しない」という契約に違反した疑いがあるとする文章を公表し、「自分の身分を確認する適切な文書の提出を求めるという我々の要求に対して著者から応答がない」と付け加えた[10]

10月2日にウォール・ストリート・ジャーナルのレポートが公開されると[16]、3人は彼らのプロジェクトを説明するエッセイと、彼らの論文のほとんどと査読者のコメントを含む電子メールのやり取りをGoogle Driveのアーカイブで公開した[10]。 同時に、映画監督のマイク・ナイナがプロジェクトの裏話を明かすビデオをYouTubeで公開した。2019年の時点で、ナイナとプロデューサーのマーク・コンウェイは、このプロジェクトに関するドキュメンタリー映画の制作に取り組んでいる[1][17]

反応[編集]

報道に対する反応と関連議論

このプロジェクトは、賞賛と批判の両方を集めた。サイエンスライターのトム・チヴァースは、この結果は「予見できた騒動」であり、すでにジェンダー研究に懐疑的な人々は「分野全体がナンセンスに満ちている」ことの証拠であると歓迎し、ジェンダー研究に共感する人々は「善良な学問を不誠実に損なっている」と考えている、と示唆した[18]

政治学者のヤシャ・モンクは、アラン・ソーカルが成し遂げたソーカル事件のおとり論文にちなんで「Sokal squared」(ソーカル・スカッド/ソーカル二乗)」と名付け、「結果は愉快で楽しいものだ。また、アカデミアの大部分に深刻な問題があることを示している」と述べた。心理学者のスティーブン・ピンカーは、「このプロジェクトは『批判理論やポストモダン理論、アイデンティティ理論のジャーナルに掲載されないほど風変わりなアイデアはあるのだろうか?』という問いを投げかけている」と述べた [8]。対照的に、古典学者のジョエル・P・クリステンセンとマシュー・A・シアーズは、2015年に作られた「プランド・ペアレントフッドに対する不正なヒット作品」と同等の学問と呼び、正当な議論よりも宣伝に関心が向いているとしている[19]

アトランティック」誌でモンクは、「この憂鬱な国民的瞬間における他のあらゆるものと同様に、ソーカル・スカッドはすでにアメリカの壮大な文化戦争の弾薬として使われている 」と述べている。彼は、この事件に対する2つの反応を「知的な不誠実さ」として特徴づけた。それは、この事件を利用してより広い学会の信用を落とそうとする右派の反応と、政治的動機による学会への攻撃として扱う左派の反応である。前者は社会学ジャーナルに投稿された論文がすべてリジェクトされたことを含め、「アカデミアにはナンセンスに対する寛容さがまったくない分野がたくさんある」ことを見落としているとし、後者はこの騒動に反駁するのではなく、その背後にある動機を攻撃していると述べた[3]

出版したジャーナルの反応[編集]

おとり論文の一つ(フェミニストの立場でのおとり批判「When the Joke's on You(冗談が通じない時)」)を受理したものの、まだ出版していなかったフェミニスト哲学の査読付きジャーナル「Hypatia英語版)」誌の共同編集者アン・ギャリーは、この騒動に「深く失望した」と述べた。ギャリーはニューヨーク・タイムズ紙に、「審査員は有意義なレビューを書くために多大な時間と労力を費やしており、個人が不正な学術資料を提出するという考えは、多くの倫理的・学術的規範に反する」と述べた[2] 。「Journal of Poetry Therapy」誌の編集者、ニコラス・マッツァは、次のように述べた。「論文・著者の確実性に関して貴重な指摘を受けたが…『研究』の著者は明らかに欠陥のある非倫理的な研究に従事していた」[2]

称賛[編集]

ジョンズ・ホプキンズ大学のヤシャ・モンクは、著者がおとり論文を準備することに賛成しなかったが、ポストモダンの専門用語に熟達し、問題のジャーナルを嘲笑しただけでなく、より重要なのは、経済学のような、彼らが「倫理的に疑わしい」と見なす分野に対するおとり調査を喜んで行いながら、自分たちの手法に対する批判を受け入れることができないジェンダー研究の二重規範を明らかにしたと述べている。彼はまた、「左派と学者の間で引き出された部族的な連帯の量」と、反応の多くが純粋に人身攻撃であり、おとり論文によって強調された実際の問題があることを事実として認識した人はほとんどいないという事実も指摘した。「ジェンダー研究のような分野の主要なジャーナルのいくつかは、真正な学問と、知的に空虚で倫理的なデタラメを区別できなかった」[20] 。モンクはまた、「統計が適用できない問題に統計を導入しようとする混乱した試み」として、3人がコントロールが欠如しているとして受けた批判に反論した[8]

ジャスティン・E・H・スミスは3人の挑発を擁護し、尊敬される学術分野の貧弱な科学的方法を暴露するために、おとり論文が過去に使われた例を挙げた。「The Chronicle of Higher Education」誌において、このおとり論文は「科学と論理の否定」や「探究よりも行動主義を称揚する」といった現代社会科学の多くの病理を暴くのに役立ったと指摘している[20]

ボゴシアンの雇用主であるポートランド州立大学が、承認なしに人間を対象とした研究を行ったという理由で研究不正の調査を開始し、さらにデータの作成の責任を検討したところ[21]ハーバード大学の心理学者のスティーブン・ピンカーやポートランド州立大学の学生たち、多くの著名な学者が彼を支持する文章を示し[22]、事件を起こした動機を擁護している[23]進化生物学者のリチャード・ドーキンスはボゴシアンを小説家と比較し、ジョージ・オーウェルの小説「動物農場」は、動物が英語を話す能力に関する多くの「虚偽」について批判される可能性があると指摘した[22]。彼は問いかけた。

この行動を起こしたあなたのユーモアのない同僚は、ポートランド州立大学が学界の笑いものになることを望んでいるのだろうか?それとも、少なくともボゴシアン博士と彼の仲間が風刺しているような気取った詐欺師に汚染されていない真面目な科学的研究の世界にしたいのでしょうか?

心理学者のジョナサン・ハイドは、大学の調査は「この決定を聞いたすべての人に明らかな重大な倫理的誤り、つまり不正義であり、ポートランド大学や大学一般に対する社会の認識に悪い影響を与えるだろう」と述べ、ボゴシアンとその共著者は「知的詐欺を容認する学術的な下位文化を暴露することによって学問的な誠実さを支える、キャリア的にリスクのあるプロジェクト」を引き受ける内部告発者と結論付けている[24][25]哲学者のダニエル・デネットは、ボゴシアンのターゲットは「誠実に」行われた彼の「素晴らしい例」から「学問的誠実さについていくつかのことを学ぶことができる」と述べている[24]。アラン・ソーカルとトロント大学の心理学者のジョーダン・ピーターソンもボゴシアンを支持している[24]。国際的なトロツキズム主義者のフォーラム「World Socialist Web Site」のエリック・ロンドンは、おとり論文はアイデンティティ政治産業とポストモダニズムに対する「タイミングの良い一撃」であると述べた[26]

批判[編集]

米国の文化誌「Slate」に寄稿したダニエル・エングバーは、「ほとんどすべての実証的学問分野で、このおとり捜査に対して同じ結果が返ってくるはずだ」とこのプロジェクトを批判した[12] 。同様に、ハーバード大学女性学教授であるサラ・リチャードソンは、実験に対照群を含めなかったとして実行者たちを批判し、 BuzzFeed Newsに次のように語っている。「彼ら自身の基準では、そこから科学的に何も結論づけることはできない」[27] 。ニューヨークを拠点とする文芸雑誌「n + 1」誌は、サイエンスライターのジム・シュナーベルによる同様のおとり論文の試みについての調査を引用した批判記事を掲載し、シュナーベルの結論を「教養ある大衆は、おとり調査の科学的利点ではなく、デタラメの発信者とデタラメの受信者の相対的正統性に基づいて判断を下す。事実上、おとり調査の結果は現場の力関係によってあらかじめ決められているのである。」として要約している。この記事はさらに、この場合の相対的な正統性は「科学的正当性の正統性ではなく、若手IT技術者、ダボスのビリオネア、およびオルタナ右翼ミソジニー主義者の新たなコンセンサス」であると主張した[28]

チヴァースはイギリスのオンライン誌「UnHerd」の中で、いわゆる「不満研究」の分野には「おそらく」「ほとんどの科学分野よりも」多くの「でたらめ」が含まれているが、このプロジェクトはアカデミア全体にわたる粗悪な学問の問題から注意をそらすものだと指摘している。彼は、このプロジェクトが公表される数週間前に、摂食行動学のブライアン・ワンシンク教授が、彼の担当した科学的不正行為の事例が暴露され、コーネル大学の職を辞していたことを強調した[18]。大学関連情報を扱う「Chronicle of Higher Education」誌に寄稿したカール・バーグストロームは、「3人はこのシステムが実際にどのように機能するかについてひどく世間知らずに見える」と述べている。査読は不正や不条理なアイデアを取り除くためのものではなく、模倣は自主規制につながると彼は主張した[20]。同じ記事で、デビッド・シュライバーは、自分が「Rubbing One Out」誌の2人の匿名査読者の1人だと述べ、3人は彼のレビューを恣意的に引用していると主張している。「彼らは、リジェクトされた論文の著者を助けようとした私の試みを、論文をリジェクトしたにもかかわらず、私の分野と私が査読したジャーナルに対する非難に変えていたのです」[20]

ポートランド州立大学の多くの教授は、「主に見世物に関心のある真に受けやすいジャーナリスト」を悪用して学問的不正を行ったとして3人を非難する公開書簡に署名し「基本的な悪意と公開羞恥に対する倒錯した関心が、実際の学問的な目標に優先している」とした[29]

「Science、Technology、and Human Values」誌の記事で、ミッコ・ラゲルスペッツは、プロジェクトのウェブサイトから入手できる査読と編集上の決定に基づいて、プロジェクトの実験デザインとその可能な要因を分析している。彼は次のように総括している[30]

(1)インパクトファクターの高いジャーナルは、プロジェクトの一環として提出された論文をリジェクトする確率が高い。(2)原稿が実証的データに基づいているとされる場合、可能性はより高い。(3)査読は原稿修正のプロセスにおいて重要な資産となりうる。(4)プロジェクトの著者は、隣接する学問分野の教育を受けて、査読者のアドバイスに厳密に従った場合、受け入れ可能な記事を書くために必要なことを比較的早く習得することができる。真面目に書かれた論文と「おとり論文」の境界は徐々に曖昧になっていった。最後に(5)、このプロジェクトの終わり方は、長期的な視点では、科学界が不正行為を明らかにすることを示した。

彼は、この実験は実験的にも倫理的にも欠陥があり、求めていた証拠を提供できなかったと結論付けている[31]。「プロジェクトグループがどのような根拠で対象とする雑誌を決定したのか不明である[32] 。著者が受け取った21の最終的な編集上の決定のうち、3分の1は肯定的であり、3分の2は否定的であった。対照群がないため、この比率が他の分野ではもっと低かったのか高かったのか判断できない[33]」。

おとり論文の一覧[編集]

承認[編集]

出版済[編集]

おとり調査が発覚した後、4つの論文はすべて撤回された。

  • Helen Wilson (偽名) (2018). “Human Reactions to Rape Culture and Queer Performativity at Urban Dog Parks in Portland, Oregon”. Gender, Place & Culture: 1–20. doi:10.1080/0966369X.2018.1475346. (撤回済)

  • Richard Baldwin (借用名義) (2018). “Who Are They to Judge? Overcoming Anthropometry and a Framework for Fat Bodybuilding”. Fat Studies 7 (3): i–xiii. doi:10.1080/21604851.2018.1453622. (撤回済)

  • M. Smith (偽名) (2018). “Going in Through the Back Door: Challenging Straight Male Homohysteria and Transphobia through Receptive Penetrative Sex Toy Use”. Sexuality & Culture 22 (4): 1542. doi:10.1007/s12119-018-9536-0. (撤回済)

  • Richard Baldwin (借用名義) (2018). “An Ethnography of Breastaurant Masculinity: Themes of Objectification, Sexual Conquest, Male Control, and Masculine Toughness in a Sexually Objectifying Restaurant”. Sex Roles 79 (11–12): 762. doi:10.1007/s11199-018-0962-0. (撤回済)

未出版[編集]

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