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一遍上人をたずねて⑭


 京都市東山区に六波羅蜜寺とい真言宗智山派の寺院がある。951年に京都で疫病が流行し、空也上人が車に十一面観音像を乗せて京都市中を回って祈祷を行ったのち、現在の地にお堂を建て「西光寺」と称したことが始まりである。

 空也上人の死後、跡を継いだ弟子の中信が「六波羅蜜寺」と改名して現在に至る。十一面観音像は本尊とし、国宝に指定されている。その他にも空也上人立像や伝平清盛坐像などの重要文化財に指定されている彫刻も保存されている。

 「六波羅蜜」とは、見返りを求めない施しを意味する「布施」、自らを戒める「持戒」、いかなる辱めを受けても耐え忍ぶことを意味する「忍辱」、普段の努力を意味する「精進」、第三者の立場で自分を見つめることを意味する「禅定」、物事をありのままに把握し、真理を見極めることを意味する「智慧」の6つを表す言葉である。

 一遍上人に代表される踊り念仏とは、念仏や和讃を唱えながら鉦や太鼓、瓢を叩きながら踊るもので、日本各地で行われている。

 「踊り念仏」や「念仏踊り」「六斎念仏」などは、「踊り念仏」と「芸能」が結びついて全国に広まったものと一般的には言われ、その祖とされるのが六波羅蜜寺を開いた空也上人である。

 空也上人は現在の愛知県の出身で、尾張国分寺にて得度を受け、その後、全国を行脚して人を助けて回った。京都に入ってからは頭に鹿の角を付けた杖を持ち、鉦を叩いて念仏を唱えながら京都市中を回って庶民に浄土信仰を説た。

 そのため、「市の聖」や「阿弥陀聖」と呼ばれた。しかし、彼に関する記録は一切なく、生まれや経歴についての詳細も不明である。

 空也上人の死後の鎌倉期、空也上人の念仏は弾圧を受けた。そのため、念仏だとわからないように「南無阿弥陀仏」を「ノーボーオミト」「モーダーナンマイト」と変えて唱えられるようになり、「隠れ念仏」として代々の住職の口伝によって伝えられることなった。

 一般公開されたのは、なんと800年後の1977年である。公開された理由は、寺院の経済的事情だと考えられるが、ともかく800年もひた隠しにされたということは驚きである。

  一遍上人は「空也上人は我の先達なり」と言ったと一遍聖絵に書かれており、そのために実在したとされている。一遍上人が空也上人の系譜とされることもあるが、踊り念仏の先達者であったかどうかはわからない。

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