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一遍上人をたずねて⑧

 遊女は、時代によって扱われ方が全く違う。元々は白拍子など、天皇や貴族に仕えた専属の踊り子であり、夜の夜伽もした。鎌倉期には随分と落ちぶれ、遊郭などで体を売るものや乞食(こつじき)のようなものになって全国を旅をしながら歌や踊りといった芸を売って暮らすものもいた。

 ひょっとして、一遍上人は遊女と合流してともに旅をし、彼女たちを躍らせて、自分は賦算を行なっていたのではないか?という妄想に取り憑かれた。

一遍聖絵より
遊女

 「一遍聖絵」にも遊女の姿は多く描かれている。時宗は、室町期に京都の悲田院を運営していた時期がある。悲田院とは、子どもや老人、貧しい人や病気の人のかけ込み寺的な施設であり、ここに遊女もおり、遊廓のような機能を果たしていた時期もあったというのだ。

 京都において、一遍上人が立ち寄ったところというのは、遊女と関係が深いところが多い。体調を崩して長期滞在したという京都の桂は、桂女(かつらめ)という遊女たちがいたところである。一遍上人の旅の案内役として遊女がいて、自分のネットワークを使って一遍上人の世話をしていたのではないだろうか。そして、こいった関わりの中から、悲田院を運営するに至ったものと推測している。

 そして、もう一つ大きな役割として、性的な斡旋を行なっていたのではないか。一遍上人に救いを求めた人の多くは、癩病などの病気を患っている人やモンゴル襲来などの戦に参加して負傷しハンディキャップを負った人、差別される層の人たちであった。

 正直、こういった人たちは性行為とは無縁の生活であったが、性欲がないわけではない。そういった人たちの相手なども遊女がしていたのではないだろうか。そのような史料はいまだに見つかってはいないので、あくまで私の想像である。しかし、あながち突拍子もないことを言ってはいないのではないか。

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