掌編小説『赤の消失点』

        あらすじ

「黒後家蜘蛛の会」のひそみに倣い、月に一度の例会を催している『赤信女郎蜘蛛の会』。元判事の会員によってもたらされたのは、血文字で自分の名前を書かれたにもかかわらず、何の細工もせずに現場を立ち去った殺人犯の謎。どこまで空想の翼を広げることができるか。

         本文

 カフェレストランの『未来乃ミラィノ』では毎月一度、会員達が集まって店を借り切り、『赤信女郎蜘蛛の会』が催される。
 この会の名称は、『黒後家蜘蛛の会』に倣って作った造語(赤い信女+女郎蜘蛛)であり、特段の意味はない。読み方すら定まっておらず、略して『赤蜘蛛の会』と呼ぶことが多い。また、会員を未亡人や女性に限るという規則もなく、現在登録しているメンバーの男女比はほぼ互角である。ただ、結婚している者の割合は少ない。
 例会では、会員達が持ち回りで、“謎”を提供し、それをみんなでわいわいつついて楽しもうというのが主な活動となる。

 その日、遅れてやって来た数学教師の万寿田恒夫ますだつねおは、親しくしている会員の一人で主婦の田中たなかさとから今回の謎について、教えてもらった。
「血文字で名前を書かれたのに、犯行現場をそのまま立ち去る? いや、あり得んでしょう」
 当番である元判事は、同僚が受け持った事件にこんなのがあったんだがといつもの前置きをして、語ったという。
 被害者の劇団主宰・藤尾将人ふじおまさとは自宅にて刺されて死亡。遺体のすぐ近くの白い壁には「スズキ」と書かれていた。フード付きのコートを纏い、マスクをした犯人は家中をしばらく荒らしたあと、現場を立ち去った。これらの様子は一部始終が備え付けの防犯カメラに収められていた。後に逮捕された容疑者は役者志望の学生で、名を鈴木貫太郎すずきかんたろうと言った。
「その状況で、鈴木が真に犯人だとすれば、血文字を消していくはずでしょう。家の中を荒らしたのなら、血文字に気付かなかったとも考えにくいし」
「あり得ないとまで言い切れるかな。たとえば、『自分が犯人ならこんな明白なメッセージをそのまま残していくはずがない』と主張するために、敢えて血文字には手を付けなかったとも考えられるのでは」
 田中は五十手前の、まあ昔はきれいだったかもしれないなと思わせるくらいの容貌である。二時間サスペンスが大好きで、この会に入ったとのこと。
「うーん、人間の心理としてあり得ないと思うんですよ。前もって、ダイイングメッセージを書かれたらこういう風に対策を取るぞと心に決めていたならともかく、襲った相手が血文字を残すこと自体、犯人にとって予想外でしょう? 普通、真っ先に読めなくすることを考えますよ。そりゃあ中には、冷静になって、『血文字をそのままにしておけば、逆説的に自分の無実を主張できるぞ』って思い付く奴もいるかもしれない。ただ、思い付くのと実行するのとでは、随分違う。殺人現場に自らの名前を残す行為って、途轍もなくハードルが高い気がしますね」
「なるほどな。理屈は分かる」
 今回の当番を受け持った元判事、佐藤通彦さとうみちひこが隣の席に座った。遅れてきた万寿田のために、追加質問を受け付けてやろうということらしい。
「実際、判決はどうだったんです?」
「公判がほとんど進まぬ内に、被告の鈴木は病死してしまった。事件は宙ぶらりんのままだ」
「ははあ、何とももやもやが残る」
「動機あり、アリバイなし、防犯カメラ映像に映った犯人の背格好ともそっくりだから、鈴木が犯人でまず間違いなかろうという見方が大勢を占めていたな。唯一の謎が、血文字を放置した点だと言える」
「取り調べ段階での鈴木の供述は分からないんですか。ダイイングメッセージについて聞かれて、何と答えたのか」
「そうだそうだ、それがあったな。さっき言ったみたいに、無罪を主張するための材料にしたと思うだろ?」
「いえ、自分は何とも決めかねてます」
「はは、そこは空気を読んで、そうですねと相槌を打ってくれよ。で、だ。鈴木の供述は、『気付かなかった』なんだ」
「うん? ちょっと待ってくださいよ。その供述からすると、鈴木は犯行を認めていたのですか?」
「あ、すまん。鈴木は第一発見者でもあるんだ。おおよその殺害時刻から約一時間半後に、被害者宅を訪れて、遺体を見付けている。当然、犯行現場たる部屋に足を踏み入れており、血文字も間違いなく見たはずなんだが」
「鈴木が犯人だとしたら、犯行時と発見時の二度にわたって見逃したことになる訳ですか。さすがに変ですね。かといって、犯行時は見逃したとしても、発見時には実は気付いていたのなら、そう言えばいい。遺体発見と血文字に気付いたのが同時なら、自分の名前が書いてあっても現場保存を優先するのはさほど不自然じゃありません」
「見逃したり、気付かなかったりしてもおかしくない状況ってのを、考えてみてくれないか。私はどうも頭が固くなったのか、思い付かない」
「ご謙遜を。たとえば赤のサングラスを掛けていた、ぐらいなら思い付くでしょ」
「あなたが来る前に、すでに出たねえ。担当した捜査員らも、そういうのは端から除外しただろうな。防犯カメラ映像に写った犯人は、サングラスや眼鏡を掛けていないんだ」
「目の部分が写っているのなら、犯人と鈴木被告とを比較して、同一人物かどうか分かりそうなものだけど」
「いや、そこまでの解像度はなかったと聞いている。白黒だったしな。私も映像を実際に見たが、これは難しいなと思ったもんだ」
「ということは……目に赤いコンタクトレンズを入れていたとしても、判別不可能?」
「――ああ、そうなるだろうな。画像処理で何かできるかもしれないが」
 赤いコンタクトレンズという意見は出ていなかったのか、少し返答が遅れた佐藤。そこに助け船を出した訳でもなかろうが、田中が口を挟む。
「でも結局意味ないんですよねえ。だって、赤いサングラスにせよコンタクトにせよ、そんな物を身に着けて犯行に及ぶ理由がないんだもの」
「確かに。これから人を殺そうってときに、赤いサングラスは目立つ。赤いコンタクトレンズならまだましだろうけど、視界の妨げになりそうだし」
 万寿田は腕組みをして首を傾げた。注文していた飲み物と軽食が届き、つまみながら改めて考える。
「無意識、無自覚の内に血文字を、自然に見落とすというのは、かなり限定された条件でしか成り立たないような気がしますね。しかも二度続けてとなると、尋常でない。取り乱していたか、気が散っていたとかでは説明しきれない」
「そうそう、ついさっきのことなんだが、村木むらきさんが案を出したとき、万寿田さんはまだ来てなかったな」
「村木さんの? ええ、聞いてませんね」
 村木晴美はるみは現役のスチュワーデス、もとい、フライトアテンダントで、その職業柄から来る珍しいエピソードを幾度か披露してくれている。
「レッドアウトを起こしていたら、視野が赤くなると言うんだ」
「レッドアウトって何ですか? ブラックアウトなら航空機のパイロットがたまになるって聞いた覚えがありますけど」
「ううーん、説明が面倒だな。詳しいことは、あとで検索でもして調べてくれ。大雑把に言うと、血液が頭の方に集まってきて目の血管に集中する現象らしい。その際、視野が赤みがかって見えるんだと」
「へえー。それって、地上にいる一般人でも起こり得るんでしょうか」
「いや、パイロットでさえ滅多にならないそうだよ。もちろん、村木さんもなったことはない。だからどのくらい赤く見えるのかも分からないってさ」
 万寿田は携帯端末を使って、レッドアウトについてざっと知った。そのあと、ついでに視野が赤くなるケーズが他にあるかどうかも調べてみた。
「――意外とありますね。長時間の緊張状態の持続、脱水症状、疲労等でも起こり得る、みたいなことを書いてるページがちらほらと。どこまで信用していいものか分からないですが、濃い赤ではなさそう。血のような赤が見えなくなるってことはないのかな」
「波長の問題だから、多少は違っていても、消えて見えなくなる可能性はあると思います」
 筒井成穗つついなほが唐突に入って来た。二つ隣で黙って聞いていたらしい。学生で雑学豊富なのは、専攻云々ではなく、探偵小説好きだからだと以前言っていた。
「でも、それにしたって、二連続で見落とすのはちょっと変だと思います」
「だよねえ。うーん、となると現実的な線は……鈴木とは別に真犯人がいて、そいつは『スズキ』の血文字を見てもスルーするのは当然。そして第一発見者になった鈴木は遺体を見てパニック状態になったから、血文字を見逃した。これぐらいかなあ」
「おいおい。それは大問題だな。犯人は野放しってことになる」
 元判事が苦笑交じりに抗議する。
「そもそも、その説だとどうして被害者は『スズキ』と書き残したかを説明する必要が出て来るぞ。真犯人の名前も鈴木なのかね?」
「ああ、そうでしたね。防犯カメラの映像がなければ、真犯人が鈴木に罪を擦り付けるために、血文字を偽装したと言えるんですが」
「弁護側から、防犯カメラ映像についての偽装の可能性は指摘されていた。といっても、高度な加工とかじゃない。現場の録画機は古い物で、VHSのビデオテープを使っていた。ビデオデッキ二台が用意されており、一台が九時間ぐらい録れるんだったかな。片方のテープが終わるともう一台に切り替わる仕組みになっていたそうだ。そして、犯行の模様は九時間テープの終わり頃に途切れるまで録画され、鈴木が遺体を見付ける場面は新たなテープの頭からしばらく進んだところに録画されていた」
「つまり、犯行場面と、その一時間半後の発見場面は、連続したものではない可能性があると。真犯人がいて、そういう工作を行ったとすれば、少なくともテープのすり替えが必要になってくると思いますが、可能だったんですかね」
「ビデオデッキなんて触ったことないって人には無理かもしれんが、ある一定以上の年齢なら大抵は大丈夫じゃないか。被害者の藤尾はその部屋に防犯カメラが向けられていることを、親しい知り合いには吹聴していたという話だし」
「何でまたわざわざ」
「藤尾は映像作家としてもちょこちょこ活動していて、その撮影スタジオ代わりに部屋を使うこともあった。ドキュメンタリー風というか盗撮風というか、そういう映像が撮れるんだとさ」
「……閃いたかも」
「お? 万寿田君、そんな宣言をして大丈夫かい?」
「い、いえ、自信はないので前に出ての発表はしませんけど。聞いてくれます?」
 万寿田の頼みに、元判事も主婦もフライトアテンダントも首を縦に振った。
「犯人とされた鈴木は、役者の卵でしたよね。劇団をやっている藤尾から、カメラテストを持ち掛けられたら、一も二もなく乗るんじゃないでしょうか」
「それはまあありそうだわな」
「役柄は殺人鬼にして吸血鬼」
「え?」
「吸血鬼だから目を赤くしなければならない。そこで赤いコンタクトを着用し、演技に臨む。藤尾は自ら被害者役になり、鈴木扮する吸血鬼に襲われる。要はお芝居として、鈴木は藤尾を刺した。血文字も演出の一つで、壁に直に書いたんではなく、倒れた状態で手の届く範囲の壁に白い紙を予め貼っておき、そこに書いた。赤コンタクトをした鈴木が赤い文字が見えなかったのは偶然の産物です。
 テスト終了後、被害者は起き上がり、加害者と話したと思いますが、その場面はテープ切れで映らなかった。床に着いたであろう血糊、壁に貼った紙なんかの処理も録画していない時間帯に行われた。
 これらの録画停止は、真犯人が意図的にやった。真犯人は藤尾と懇意で、カメラテストを手伝う役割を担っていたものと想像されます。
 鈴木が帰されたあと、藤尾と真犯人は録画映像をチェック。真犯人は被害者役の刺され具合や血の飛び散り具合を克明に押さえた上で、犯行に臨んだ。恐らく現場の部屋とは違う場所で藤尾を刺殺。遺体を部屋に運び込んで同じポーズを取らせ、血痕を付け、血文字も――今度は本当の壁に――再現した。もしかすると、防犯カメラの映像を手元の携帯端末に飛ばして、現場の状況と逐一見比べながら作業したかもしれません。遺漏がないことを確かめてから、防犯カメラによる録画再開。鈴木が第一発見者になったことまでは、計画にあったのかどうか分かりませんが、真犯人にとってよい方向に作用した」
「鈴木が遺体を見付けた際に血文字に気付かなかったのは……さっき言っていた緊張状態の持続が原因だと?」
「はい。二度連続はないにしても、一度ならあり得る。あ、もしかすると発見時も赤いコンタクトを装着したままだった可能性も」
「なるほど。ちょっと面白いな」
 佐藤元判事は顎を撫でた。よく吟味しようとする風に、斜め上を見つめている。
「万寿田さんの説、興味深かったです。けれども、おかしな点が少なくとも一つあるような」
 筒井が言った。他の三人の視線が集まる。
「鈴木被告は赤コンタクトレンズやカメラテストの件を、どうして警察に伝えなかったのかなって」
「さて……信じてもらえないと考えたんですかね。芝居で演じた通りの様相で、相手が死んでるだなんて、普通ならありそうにない」
「もしかすると、秘密のテストだと言い含められていたのかも」
 主婦の田中が嬉々とした様子で述べた。
「事件になってしまったけど、一縷の望みを託して秘密を守り抜いている、とか」
「実は」
 元判事が小さな声で切り出した。
「この事件では、被害者が知り合いの男優の刺殺を計画していたと窺わせるメモが見付かっていてね。被害者なんだから関係ないだろうとなり、証拠として採用されなかったのは無論のこと、事件の背景を探る材料としても無視された。だが、もしかするとその計画は藤尾が首謀者、鈴木が実行犯になる予定で、防犯カメラの映像は予行演習だったのかもしれない。言い換えると、本番のカメラテストでは、藤尾のやった被害者役を男優が演じ、小道具の刃物がいつの間にか本物にすり替わっていたという“事故”が起きたと見せ掛ける台本だった……かもしれない」
「それが真実だとしたら」
 万寿田は想像を巡らせた。
「鈴木は本当のことを言えない葛藤から、全てについてだんまりを決め込んだということになるんでしょうかね。都合のよい部分だけ認めるよりも、嘘が露見しにくい。事実、こうして今でも、僕らの頭を悩ませるくらいだから、ある意味、目論見は成功したと言えるのかもしれません」

――終わり

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