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震災クロニクル【2012/4/1~】(58)

2012年4月


震災から1年が経過し、待ちはある程度落ち着きを見せ始めていた。仮設住宅も広い敷地にどかっと建ち並び、ホテルはどこも満室。会社ごと宿舎にしているそうだ。勿論、復興関連の会社である。2階建ての縦長仮設宿舎は会社やJV複合企業体で建設しているようで、そこも宿舎になっている。アパート等、民間の住宅も建設ラッシュだ。しかし、建設中の段階で既に入居者は埋まっているようである。どのアパートも一杯で新規の入居者を募集しているところはない。しかも家賃が跳ね上がっているようだ。

60,000円以上の賃貸物件があちこちに建てられた。

聞くところによると、国や県から補助が受けられる上限の金額を大家が設定するそうだ。「現在避難している家族には家賃の○○分が補助として給付される」

ニュースでやっていたその上限近くがここの家賃相場になっている。震災前はもっと安かったのに。自分は震災前から同じアパートに住んでいたため、据え置きの家賃になっていた。その点では被災したときに借りたままでしておいて本当に良かったと感じた。

バブルか何か好景気にでもなったかのような家賃の跳ね上がり方に度肝を抜かれながらも本当の好景気ではないことは誰しもが分かっていた。ただ単に国からの補助にのっかっているだけだと。しかし、そうなると避難関係の人しかこの辺のアパートを借りられなくなってしまう。一般の引っ越ししたい人はこの地元から離れないといけないのだ。ここは不便にもかかわらず、需要が大きいから家賃などの物価はどんどん上がる。まさに青天井である。

また、一般に借り手がいなくても作業員や復興関連で何かしらの業者は借りてくれる。大家にとっては引く手あまたなのだ。こんな状況がいつまでも続いていいわけがない。本当にここで暮らしたい人が追い出される状況なのだ。市内で引っ越ししたくても出来る状態ではない。しかも東京電力の仮払金が足枷となり、住所変更できないでいる人たちも大勢いる。

今後の補償がはっきりしないから、住所を移せないのだ。震災直後の住所のまま縛り付けられている気分だ。

ただでさえ同心円の距離で補償がだいぶ違う。特に30キロ以上の地域や隣町では「補償はしません」という東電からの通知が来たらしい。いちいち避難にかかった費用を書かせておいて、びた一文払わないという姿勢は本当に加害者としての意識があるのか疑問だし、人間の感覚として生きているものと対応している感覚はなかった。しかし一方でどこまで補償するのかという指針が国から示されていない今、震災当初の状態を維持しておくことは居住実態の証明や生活の拠点がどこにあったかを記録するのには大切なことだ。そう、今では意識的に金銭が僕らの生活の話題の中心となりかけている。


なんとさもしい毎日だろうか。


東京電力のコールセンターでは何も話は進まない。


○の誰は△△まで補償された。
こっちではこう、あっちではそう。

そんな毎日にすっかり疲弊した僕はもはやこの街にこれからの何かを望む気はすでになくなっていた。

そんなとき、東京電力から最終になるであろう通知が来た。

福島県のどこかに住んでいます。 震災後、幾多の出会いと別れを繰り返しながら何とか生きています。最近、震災直後のことを文字として残しておこうと考えました。あのとき決して報道されることのなかった真実の出来事を。 愛読書《about a boy》