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時間の節約よりも消費の方が難しいかもしれない。という話

 まとまりはないかもしれないけど、川沿いを散歩している時にふと思ったことを書き留めておきたい。

「私たちは未来を見ることはできない。そして、未来は誰も分からない。」
景色を見ながら歩くことはあるけれど、おおむね進行方向を見ながら進んで行く。
そして、進んで行く先が私たちの未来だと錯覚をする。
確かにそのまま歩いていけば、数秒先の未来かもしれない。でもそれは絶対ではない。
認識することを考えると、後ろ向きに歩く方が人生としては近い間もしれない。
経験した瞬間から過去に向かってしか事実を捉えることしかできないからだ。

時間を無駄にしたくない。だけど余裕のあるゆったりした時間の過ごし方をしたい。

そんな時に時間の感じ方には相対性があることを思い出した。
時計で可視化された共通認識は、時間の価値を分かりやすく表現できてしまう。
これは良くも悪くも人が協力して生きるためには必要だ。
でも、自分の幸せを考えたときに、他人の価値観に侵される可能性がある。それは、求める感覚の違いだと思う。

渋谷のスクランブル交差点に立っているのと、人工物が一切ない有機物に囲まれた自然の中に立っている場合、おそらく相対的な時間の流れは後者の方が遅いと思う。

騒然として、どこか急いで見える人たちが行き交う街では、時間の流れが速く感じるのではないか。
ここでは、立っている場所や体勢が苦痛で、時間が経つのを遅く感じることは考えないでおきたい。

試しに川沿いを早歩きで歩いてみた。視野が狭くなり、次々と飛び込んでくる情報を認識するのも疲れる。
次にゆっくり歩いてみた。川の流れまでゆっくりになったんじゃないかと思え、さっきより景色が鮮明になった。

感覚もあるけれど、人間の本来の構造や機能によるものも考えられる。と言うことは、時間の流れ、その感じ方をコントロールすることによって得られる幸福もあるということだ。

移動スピードを速くして、移動距離を長くすることによって時間の価値を認識するのか、移動スピードを遅くして、時間を使うことの贅沢を得るのか。そして、どんな時にそれをうまく使うことができるのか。

私は後者の時間をうまく使うことが下手だと思う。

でも、noteに書いてみてなんとなくまとまってきたので、今までよりも楽に生きれると思う。
よかった。今日もいい1日

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