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手を合わせて、いただきます!


「いただきます」は当たり前ではない

 「手を合わせて」「いただきます!」・・・おなじみの光景ですね。しかし、日本全国でそうしているわけではありません。国民の約30%が「いただきます」と言うが手は合わせない。約7%が手も合わせないし「いただきます」も言わないという調査結果(2015年、Jタウン研究所調べ)もあります。この調査では個人的にではなく、明らかに地域的な傾向が浮かび上がりました。意外かも知れませんが、手を合わせることに抵抗がある人が多い地域、「いただきます」という言葉に違和感を持つ人が多い地域があります。そういう人達の意見は概ね次のようなものです。▼  手を合わせるのは宗教的なので強制するのはおかしい。▼  手を合わせるとは亡くなった人にすることだから、食事の時に手を合わせるのはおかしい。▼  「いただきます」は感謝の言葉だと教えられたが、感謝を強要されるのはおかしい。いかがでしょうか? 共感できるかどうかは別にして、言いたいことは分かるような気がします。

頂戴する

頂戴する

 「いただきます」を丁寧に言うと「頂戴します」になります。頂戴するの「頂」は「頭の上」のことで、後ろの「戴」はうやうやしく捧げ持つという意味です。それはつまり上の図のような状態を指しています。お年玉をもらってもこんなことはしませんね。いったい誰からもらうとこのような状態になるのか? それは神様でした。古来、神道では神事が終わった後、神様との結びつきを強くし、力を分けてもらうために神様にお供えした食物をみんなで食べました。それが「頂戴する」で、簡単に言えば「いただく」でした。この語源から言えば「いただきます」という言葉はかなり昔からあったはずです。しかし、一般家庭で「いただきます」と
言うようになったのはせいぜい明治以降であると思われます。それも神棚がある家で、お供えした食事を下げて食べる時に「いただきます」と言った程度のことで、現在のように毎食時に気軽に口にするような言葉ではなかったと思います。
 
 では食事の時にはどう言っていたのでしょうか。記録によると、戦前までは食事中は喋ってはいけないのがルールで、各自が勝手に食べるか、大勢で会食する場合は家長・年長者・役職の上の者が黙って食べ始め、他の者は黙ってそれに続くというのが一般的でした。
 
 現在でも宮中晩餐会では乾杯の言葉はありますが、手を合わせていただきますと言うようなことはないそうです。残念ながら筆者は出席したことがないので、あくまでも聞き書きですが、天皇陛下が黙って食事を始め、他の出席者はそれを合図に食べ始めるそうです。

ではいつから?

 現在のように毎食時に気軽に「いただきます」と言うようになったのは戦後のことだと思われます。いったい戦後に何があってそうなったのか? それは学校給食ではないかと思います。
 全国的に現在のような充実した給食が始まるのは戦後になってからです。昭和26年に発行された『改正 小学校・中学校 学習指導要領(一般篇)の手引き 新しい学校経営の指導 教育技術 四月号付録』の給食指導内容の項目には「食事の前後には挨拶をする」という記述があります。ただし、その挨拶が「いただきます」だとは書いてありません。

教師不足

 とはいえ、この時期は第一次ベビーブーム世代(団塊の世代)の小学校入学を控えて義務教育の見直しが図られていました。その中でも緊急を要したのは学校の規模拡大と教師の確保でした。そこで白羽の矢が立ったのが実家が寺社の若者でした。
 大きな寺社は別として、街中の小さな寺社では二人以上の僧侶・神職を置いておく余裕はありません。住職・神主である父親が亡くなれば跡を継ぐが、それまでは他の職業について休日に実家を手伝うというのが最善の策です。そこで教員資格を持つ僧侶・神職を積極的に採用することは教育行政と小さな寺社、双方にとって大きなメリットがありました。

浄土真宗

 浄土真宗の教えには「食前のことば」 というものがあるそうです。「み仏とみなさまのおかげにより、このご馳走をめぐまれました。(以下唱和)深くご恩をよろこび、ありがたくいただきます」

 「食後のことば」もあります。「尊いおめぐみにより、おいしくいただきました。(以下唱和)おかげでご馳走さまでした」 
 この食前・食後の言葉は古いもので、現在は2010年に改定された新しいものになっています。しかし、(以下唱和)の部分は変わっていません。

  戦後、教師として採用された浄土真宗の僧侶がこの食事の言葉の唱和部分を子ども達に教えたのではないかと言うのが筆者の妄想です。それなら「手を合わせて」がセットになったのも頷けます。

「いただきます」はマナーなのか?

 今現在の学校教育でも「手を合わせて」「いただきます」が広く行われていると思われ、かつて学校でそう指導された人達は大人になってからも実行していることでしょう。しかし、この行為が習慣化している人達にとっては特別に宗教的な感覚はないと推測されます。「いただきます」「ごちそうさま」はマナーだと考える人も多いでしょう。特に現役の教育関係者はこの習慣はマナーであると考え、その宗教的ルーツを否定します。それは教育基本法第9条で「国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない」と明記されているからです。
 

マナーの相手は?

 マナーとは相手を思いやる心の現れです。その「相手」とは食事を調えてくれた人や食べられるために命を落とした生物です。ならば、「いただきます」は『食事を調えてくれた人や食べられるために命を落とした生物』のための気遣いです。だから一人で食べる時にも手を合わせて「いただきます」と言うのでしょう。しかし、何も言わないから感謝していないとも限らないでしょう。
 

いただきますで人格がはかれるのか?

 会食の席で、手を合わせて「いただきます」と言わずに食べだす人がいると気になりますか? 同席する人に不快感を与えないために「いただきます」と言うべきだとする意見もあるでしょうが、それならばおじぎでも、会釈でも、乾杯でも、食べましょうという意思表示ならば何でもいいはずです。それでも「いただきます」と言えと言うのなら、それはマナーではなく「ルール」です。たとえ同席する人が手を合わさなくても、「いただきます」と言わなくても、それはあなたには関係のないことです。もちろん、手を合わせない・「いただきます」と言わないことと、その人の人格は何の関係もありません。
    思うところがあって手を合わせない・「いただきます」と言わないのであれば、それは手を合わせて「いただきます」を言うことと同じように尊重されなければならないのです。
     大切なのは手を合わせることや「いただきます」と言う形式ではありません。その意味を理解し、心から感謝することです。ですから、「いただきます」を言わないのは教育・躾がなってないとか、行儀悪いとか、そういうことではありません。そんなことで人格ははかれないと筆者は考えます。

※参考文献:◆篠賀大祐 『日本人はいつから「いただきます」するようになったのか』 Kindle 版 ◆成城大学 民俗学研究所『日本の食文化 昭和初期・全国食事習俗の記録』 岩崎美術社 ◆南里空海『神饌―【神様の食事から食の原点を見つめる】世界文化社 ◆浄土真宗 本願寺派 興徳山 乗善寺 公式サイト


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