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あなたは過去を受け入れ、許せるか?

起業して9年目。紆余屈折の連続だった…

また、38歳の時、若年性更年期障害と診断されてから9年目でもある

目を背けたくなることや、蓋をしたくなる過去もあった

けれど、前回も書いたが、女性ホルモンは人生そのものだ


初経
結婚・出産
更年期・閉経
老年期

その人の人生のサイクルに合わせて、女性ホルモンも変動している

特に更年期の症状は、人それぞれ違う
その理由は、育った環境・食習慣の影響を受ける

38歳で若年性更年期障害と診断されるまでの、わたし自身の人生を振り返ることで、更年期・閉経後の自分の人生が見えてくるのではないかと考えるようになった🤔

先日、スクール卒業生にわたしの過去を話したところ、すごく面白いと興味を示してくれた😌

わたしの女性ホルモンと人生サイクルについて今日は綴ってみようと思う


▶︎いわゆる転勤族


わたしは北海道帯広市生まれ

父親は某有名コンビニエンスストアーの社員
母親は札幌ススキノの高級クラブでクラブ歌手

異業種同士の結婚、最初からうまくいくはずがない

サラリーマンと個人事業主
考え方が違いすぎて、話にならない😂

わたしはひとりっ子
本家を継ぐものは男性でなければならない

だが、生まれてきたのは女の子

祖父は、どうしても男の子が欲しかった
もう本家を継ぐものはいないとがっかりしたそうだが、それでも唯一の内孫ということで、祖父が亡くなるまで可愛がってもらったのを今でも覚えている

父の仕事は、マーチャンダイザーで、各地域で新たな商品開発を手掛けるため、転勤は当たり前

※マーチャンダイザー(MD)とは…商品の企画・開発や商品構成の決定、販売・サービスの計画立案、価格設定、予算管理などを専門とする職種

わたしの家族は転勤族だったので、その影響で4回も小学校を転校させられた

幼少期、4年間過ごした福島県郡山市で、父は新しい商品開発に携わっていた

コンビニチェーン店では定番化している、ある商品を開発したのは、わたしの父だった😳

その開発のために、わたしは3年間、朝昼晩と同じ飯が食卓に並ぶという怪奇現象😂

成長期の子供にとっては、栄養バランスの偏った食事と言っていいだろう

そのおかげか、いつも病気ばかりして幼稚園、小学校と、ろくに通えていない

父親が開発した商品が、東北、関東でヒットをし、冬の定番商品として今も人気を誇っている😌

その商品を開発した後、今度は静岡県三島市へ転勤となった


▶︎心の故郷


福島から静岡へ

幼いわたしは、小学校が変わることに抵抗があったし、新たな土地で友達ができるか不安でいっぱいだった

だが、引っ越し先で見た富士山

滅多に見ることができない『赤富士』を目の前で見ることができたのだ😳

幼心に見た、あの赤富士に心を奪われた

そして、まだ当時9歳のわたしは
生涯、この街で過ごしたい

と思ったのだ😌

友達もでき、楽しい2年間だった

2年後、父親はついに都内の本社勤務を命じられ😳
千葉県へ移住することになる

三島を離れる日
わたしは号泣して、母親が宥め続けてくれた

その時、わたしは誓った
大人になって、自分の力で稼げるようになったら、この街に必ず戻ってくる

その想いは今も変わらない
時が来たら、わたしは今住んでいる縁もゆかりもないこの街から、三島へ移住する


▶︎余所者(他県民)を受け付けない風習


どうもこの街は、余所者を受け入れようとはしない

その街はJR駅の西と東で住んでいる人たちの年収が違うらしく

最初は西のエリアに住んでいた
小学校は駅前にあり、千葉県でも有数の教育モデル校

教育熱心な担任で、母も喜んでいた
このまま、中学校も教育モデル校へ進学できると思っていたのだ

だが、父はもうこの街に永住すると決め、マンションを購入したのだが、
通っていた小学校とは別の学区だったことを後から知ることになる

そのため、小学校が変わるとなり、母もわたしもがっかりだった

そして、新しい小学校へ転校をし、その日からこの街が嫌いになった

西のエリアは、転勤族が多かったので、とても居心地が良かった😌
東のエリアは逆に、その土地にもう長く住んでいる地主が集まるエリア

東のエリアに引っ越したため、母とわたしは、他県から来た余所者扱いを受けることになる

わたしは小学校でいじめの対象に
母も保護者会でいじめの対象に

これがきっかけでわたしはママ友という存在が嫌いになった

それでも母はわたしに、関東で生き抜くために強くなれと
田舎生まれの田舎育ちのわたしは、人付き合いが下手だった

ともだちも作れず、馴染めず
いつも心の中で、静岡に帰りたいと思い続けていたのだ

辛いいじめに耐えた小学校2年間だった
そして次は、その街でもヤンキーしかいないと噂されていた中学校に進学する

中学校はわたし自身がいじめに遭うというよりも、同級生が集団リンチにあい、全治3ヶ月の大怪我をするとか

他の中学校のヤンキーがバイクで押しかけてきて、取っ組み合いの喧嘩をしていたり

金属バッドで校舎のガラス窓を全部破壊するとか

中学生活の3年間は、わたしにとって黒歴史でしかない
次は自分が襲われるかもしれない

全員がその恐怖の中で、静かに時が過ぎるのを待つだけだった

小学校・中学校での出来事は、わたしにとって苦痛でしかなかった
毎日、ストレスに耐え続けた結果

毎月、大量出血と生理痛の痛みと戦わなければならない
今思えば、完全なストレスによってすでに、ホルモンバランスを崩していたのだと思う


▶︎この街から出たかった


高校受験で、担任からどこの高校に進学したいのかと尋ねられて、わたしは『この街から出たいです』と話した

では、千葉県内は希望していないということだね?

わたしはどうしても都内に出たかった
理由なんてなかった

この街が嫌いだから、出たかったのだ

そして、中学を卒業し都内の私立校へ進学する
母はその高校に進学することに対して反対していた

それはなぜかというと、普通科ではなく、商業科だったからだ

どうしてもその高校に入って、勉強したいと母を説得したのだ

なぜ商業科を選んだのかは、正直わからない🤔
制服が可愛いとか、渋谷の高校生になってみたかったとか、まぁ、そんな感じだったとは思うのだが

この選択が、今のわたしにとって必要な知識を習得するために必要な学びの高校であったことはいうまでもない

高校3年間で何を得られたのか🤔
それは、東京という街で生きていくためには、田舎のような深く狭くという関係を築いてはいけないということを知った

広く浅く、そして素性を明かさないこと

高校3年間で、人との付き合い方を学んだ😌

高校時代の友人も、大学時代まではよく連絡を取り合う仲だったのだが、社会人になってパッタリ連絡が途絶えた

わたしは小・中・高校時代の友人がひとりもいない

付き合う必要もないだろうから、一切交流していない
むしろその方が楽だ
😌

商業高校で学んだ知識は、起業するために必要な知識
東京で生き残るためにはどのようにして人付き合いをしていけばいいのかも学んだ

高校時代は出血の量も生理痛もさらにひどくなっていく
原因は、ミニスカートとルーズソックスだと思うが🤔

わたしと同世代はみな、ミニスカートにルーズソックス
いわゆるコギャル世代・アムラー世代だ

真冬でも寒さを我慢しながら、あのスタイルで街を歩いていたわけだから、子宮を冷やししつづけていた

生理痛がひどい子も多かった
婦人科系の疾患で通院している子も数名いたのを覚えている🤔

子宮を冷やしし続けるとどうなるか、知識がなかった高校時代
その代償は大きいものだった


▶︎大学はマスメディア専攻


わたしが化粧品業界に飛び込むきっかけになったのが、大学で学んだ広告論がきっかけだった

教授が、日本人なら絶対このCMは見るべきだと、日本が誇る昭和のCM100選を見せてくれた

CMを見ることでその時代に何が起きたのか、日本の歴史が見えてくる🤔
その時代の流行、事件、政治、全てがわかると言っていいだろう

特に化粧品のCMは流行だけでなく、消費者が何を求めていたのかというニーズもわかる

それもたった15秒、30秒の映像だけで全てがわかるのだ🤔

その中でも、日本が誇る天才クリエイター杉山登志氏が手がけたCMに心を奪われた

それは資生堂の企業CMで、モノクロの画面の中、山口小夜子さんがおかっぱ頭に着物姿、茶室で正座しているシーンなのだが

小指で赤い紅をそっと取り、唇に紅を染める

モノクロ背景の中で、その唇だけが紅く染まるのだ

たった15秒のCM

そのCMの美しさに心惹かれたのだ

YouTubeであの企業CMを探してみたのだが、見つからなかったので
それに近いものを↓

モノ作りの精神とは何か
杉山登志氏が手がけた作品を大学時代に全て調べ、見てきた

もし大学の講義で、資生堂の企業CMを見ていなければ、わたしは化粧品業界に飛び込むことをしていなかったと思う

それぐらいわたしの心を動かす力のあるCMだったのだ

そこからクリエイターとして作品を作ってみたい🤔
その夢を叶えるために、アルバイトをしながら、グラフィックデザインの専門に通いはじめた

ところが大学2年生の秋、両親が別居することになった

元々女癖の悪かった父親は、上野の飲み屋のホステスと関係を持っていた

それが発覚し、別居することになった

思えば、あの頃のわたしは世間知らずのお嬢様
両親の別居に対して、ショックのあまり胃潰瘍を患った

両親の別居はわたしにとっても大きなストレスだった

そこから頻繁に、子宮頸管ポリープを患うようになる


▶︎大学生で母を支える大黒柱になる


母は父の浮気発覚により、ショックのあまり鬱を発症してしまった

家庭は崩壊し、父はその浮気相手と同棲をはじめたのだった

大学2年生の時にはじめた、とある大手洗剤メーカーの営業バイトのおかげで😳学費を稼ぐことができたのだ

大学を卒業し、わたしは母を支えることだけを考えて、必死に働き続け、人間関係のもつれや会社でのパワハラなどを受け、どんどん荒んでいく

22歳から38歳までの16年間は、ただ生きることに精一杯だった🤔

鬱から統合失調症を患った母との生活は、一言で言えば、地獄

転勤族だったため、この街に頼れる人もいない

関東に親族はひとりもいない😔

この16年間の間、カラダを酷使し続けることばかりを続けてきた結果、若年性更年期障害が現れたのだと思う

過去の自分を振り返り、いかに自分を大切にしていなかったのか🤔
この経験があったからこそ、今までの自分の過去を受け入れ、すべてを許し、そしてこれから先の人生のために必要な経験だったのだと

それを認めることで、自分自身を愛することができるのだとわたしは思う😌

更年期という10年間をどのように過ごすかで、これから先の未来が大きく変わるのだ

更年期の10年間は人生の分岐点と言っていいだろう🤔

過去を許せない人は、一生人を恨み続ける人生を歩むだろうし
過去を受け入れて許すことができた人は、これからの人生がもっと豊かなものにかわっていくはずだ

それはわたし自身が経験したからわかること😌

ぜひ、ご自身の過去を振り返ってもらいたい
辛い過去に蓋をしている人も多いかと思うが、それを許せるか😌

あなたのこれから先の人生において、必要なことなのかもしれない




佐方ともみ 
美容業界28年目 エステティシャン
IOB認定オーガニック専門家
食べて痩せるオーガニックダイエットBioeat(ビオエット)®︎協会代表
フェミニンケア×更年期プラクティショナー養成講座主宰兼講師

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