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すっぱいぶどうの収穫

玄関裏に、野良ぶどうを発見してはや一ヶ月。

あれから、日照りや低気温や大雨や強風など天候はめまぐるしく変わったものの、房は落ちることなく、なんとまばらに色づいた。

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影ではなく、実際に黒っぽくなっている

いつの間に・・・色気づいちゃって・・・

といっても、粒の大きさは見つけた時とさほど変わらぬチョコボール大だし、陽が当たっていなかったところは枝豆のような緑色のまま。

おやまの合唱団はとても元気で、ボスのカラスは「ハアッ!ハァーーーーッ!!」と和田アキ子さんのような力強い声を轟かせている。

きっとリアル野鳥の会に先に食べられてしまうだろう、野良ぶどうなんてくれてやらあ、と《すっぱいぶどう理論》で心の予防線を張っていたのだが、急に惜しくなった。だって色づいているのだもの。

よし、ぶどう狩り(摘み)しよう。

力を入れたら潰れてしまいそうな、ちいさな漆黒の実だけを摘み取る。
葡萄色というよりは、黒紅色に近い。


ヤマブドウかな、と思っていたのだが、アップで撮るといっちょまえのぶどう。ものすごく小さいが、巨峰の雰囲気をかもしだしている。

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みかんとの比較、太陽と惑星っぽい

おそるおそる、案外しっかりとした皮をむいてみる。

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小皿の大きさは5㎝角

指先は、少し酸味のある青いにおいと、鮮やかな赤むらさき色に染まった。あふれでるアントシアニン(たぶん)。

皮と実が結構しっかりくっついている感じや、ハリと弾力のあるぷるんとした中身は、まさに巨峰のそれ。
ヤマブドウならもっと果汁が多く、皮をむくとトロンととろけた感じになるようだ。

我が家は果物を食べると、種を土に放る習慣がある。

ぶどうが生えていたのは玄関裏。住み始めたときには生えていなかった。見た目は完全にデラウェアなのだが、たしかデラウェアは種がない。

だから、これはいつか食べた巨峰だ。キング・オブ・ぶどうたる巨峰。
そういうことにしたい。

ぷるんとした透き通る若苗色の実を、口に運んでみる。


すっ・・・


すっぱ・・・



フフォウ・・・


すっぱい・・・



風味は、巨峰というよりデラウェア。
酸味は、ぶどうというよりグレープフルーツ。
表情は、梅干しを食べたときのそれ。
口の形状は「*」。

こいつぁ、リアルにすっぱいぶどうだ。

多少は巨峰っぽい芳醇な風味を感じられるものもあるのだが、どれも甘味より酸味が勝っている。

でも、ここちよい清涼感が残る。
喉元と胃のあたりがすうっとして、夕飯に食べた鶏の照り焼きを消化分解してくれているような気がした。

すっぱいけれど、くせになるおいしい酸味。

そして、種が多い。
こんなに実が小さいのに、種はひと粒あたり2~5個あった。

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種は巨峰サイズ、皿はむらさきのナス

種の多さと大きさに、野良ぶどうたる生命力を感じる。

それにしても、適当に蒔いたぶどうが、食べられるまでに実ったのは運がいいとしか言えない。ぶどうの自主性と野生に任せきりで、重みで撓んできたつるを支柱で支えただけなのに。

うちの《すっぱいぶどう》は負け惜しみなんかではなく、奇跡のたとえだ。この種、野良ぶどうの生命力を継いで、また蒔いてみよう。

ところで、キリスト教において、ぶどうは最も神聖な果物とされている。

新約聖書ヨハネ伝十五章で、イエスは、自分が「まことの葡萄の木」であり、すべての人間の魂は葡萄の幹にとどまって実を結ぶべき枝である、と述べている。このことから、葡萄の木は、もっとも神聖な木にして、人類の罪を贖うイエスそのものの象徴となった。そして葡萄園は天国を表すものとなった。
(モチーフで読む美術史/宮下規久朗/ちくま文庫 より抜粋)

ぶどうを食べるといつも「種なしがいい」「おいしいけど皮むくの面倒」「爪の間が紫になる」「そもそも大きなひとつにまとまらないかな」だの、贅沢でわがままなことを思ってしまう。

しかし、自家製のすっぱいぶどうを食べてみて思った。
甘くて種のない大きなぶどうを作るのは、ものすごい技術と労力と時間と愛情がかかっているのだろうな、と。

うちの野良ぶどうも、かつては農家さんが手間ひまかけた甘いぶどうだったはず。何も手をかけないと、ここまで小さくすっぱくなってしまうのだ。

農家さんの偉大さを改めて感じる。

わたしはキリスト教徒ではないが、すっぱいぶどうの木は、わたしの怠惰な罪をゆるしてくれるだろうか。

そのあとに飲んだミニッツメイドのカシス&グレープは、とても甘かった。

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